20230307

『フェイブルマンズ』を見た

面白い映画には2種類ある。
ひとつは何もしない映画、もうひとつはこちら側の面白いと思おうとする気持ちを伸ばしてくれる映画である。
スティーブン・スピルバーグ監督作『フェイブルマンズ』は前者であった。これまで私はスピルバーグ監督の映画を素通りしてきたに等しい。いつも話題作になることもあって一応目を通すということはしてきたのだが、『ブリッジ・オブ・スパイ』を除いて本当に面白いと思うことはなかった。過去の名作『E.T』や『ジョーズ』は見ていないし、『プライベート・ライアン』もスルーしてきた。子供の頃に『ジュラシック・パーク』は見たものの、恐竜が好きなのであって映画が好きだったわけでもなし、この作品によって映画が好きになるということもとくになかった。ただ、今から思い返すと、そのとき、つまり数えるほどしか映画を見ていないときでも、漠然と映画は面白いものだという感覚は持っていたように思う。見る機会は少ないものの、映画を見るということになれば、それは退屈な時間なんかではなく、つねにお楽しみの時間だった。
とくに何の気もなく見た『ジュラシック・パーク』が自分の中でそういったイメージが作り上げられる柱のひとつなっていたことは確実だろうと思われる。それでもドラえもんやゴジラ、ジブリが果たした役割のほうが私個人のなかでは大きいのだが、普通に海外の映画があって、しかもそれが面白いに違いないと疑いなく思えたのは、『ジュラシック・パーク』の経験があったからだ。そういったことはとくに意識していなかったし、これを書いている今も若干こじつけている感があるものの、今回『フェイブルマンズ』を見て、時間遡行的にそういうことを思った。この映画は、他の映画で私がほとんど無意識的にそうするように面白いと思おうとすることなく見られて、しかも無上に面白いと思えるのだ。
積極的に面白いと思おうとする心性は私にとっては癖のようになっているし、とくに小説などの場合、それをしてはじめて面白いと感じられることがほとんどなので、これで合っている、これが正しい姿勢であるとも思っている。面白いはずだと考えて積極的に作品に向き合わないのは、私に言わせれば、とげとげの厄介な殻があるからという理由で栗を見捨てることになる森の動物に近い。森には他に食べ物があるし、べつに栗に固執しないでもかまわないのかもしれないが、それでもひとつ言えるのは、栗には他に代えがたい美味しさがあるということだ。一度栗の味を知ったら、それがない生活というのはその分がへこんだ形となってあらわれるしかない。
『フェイブルマンズ』が良かったのは、いつも人の顔が中心にくるところだ。
スピルバーグの「自伝的映画」ということで、昨今のミュージシャンを題にとった伝記映画のように、すごいけど面白いと思おうとする心が多く必要とされる映画になるのではないかと危ぶんだところがなくはなかったが、実際に見てみると、それはまったくの杞憂だった。
自伝的映画ではあっても、他の伝記映画にある残念な部分がないのは、スピルバーグが監督としてスタートするまでのいわば前夜譚を映画にしているというのがひとつ、あとはスピルバーグ自身の願望が入っているというのがひとつだ。スピルバーグの願望というのは、それはセリフや文字の形で一言も言い表されていないことだが、家族がどんな顔をしていたのかを確かめたいというところに尽きると思う。場面場面で少年スピルバーグの心に残る言葉を発した家族は一体どういう顔をしていたのだろうというのは、時制こそ過去であるものの、スピルバーグ本人にとっては後ろではなく前にあるものであり、探しあてるべき表情だったのにちがいない。
学生時代に撮った戦争映画で主演したドイツ将校がどんな悲しみの顔をしていたのか、それを撮れ(見れ)なかった心残りと同じような、心残りというにはもうすこし強烈な、それを知りたいという欲求がスピルバーグを突き動かしたのだと思われる。
ポール・ダノとミシェル・ウィリアムズは、言うまでもなく素晴らしい俳優であるが、それを超えて、誰よりも幸運な俳優であると言わざるを得ないだろう。とくにミシェル・ウィリアムズが見せた、特別上映された映画を見る顔(顔というのは動きとともにあるものだということがはっきり浮かび上がってくる)は、特別な才能があればできるというレベルを超えている。俳優が映画を助けるというケースは数少なくないと思うし、映画が俳優を輝かせるというのも多くある幸運なケースだろうと思うが、その最上の形があらわれている。顔を撮るということ、それが映画のやることだという「答え」に、私は最近になってたどり着いたのだが、この映画はその傍証になるはずだ。
「思うように生きなければ私ではなくなる」という言葉と、「私たちの
あいだにエンドはない」という言葉だけが頭の中に残っていて、それを言った当人の顔がどんな表情をたたえていたかということを忘れてしまっていたとすれば、それが映像として残っていなかったとすれば、それを撮影したいというのはもっとも自然な欲求のように思われる。私は映画監督ではないけれど、なぜかこの欲求こそが一番強く自然のものであるという確信を持つことができる。それは映画『フェイブルマンズ』がある点において一貫しているからだ。
面白いと思おうとする余地がまったくないほど隙間なくみっちり、『フェイブルマンズ』はただ面白いだけの何もしない映画である。

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