20230306

『エブリシング・エブリウェア・オールアットワンス』を見た

下北沢のOscarというビーガンアメリカンチャイニーズのお店で昼食をとったあと、TOHO新宿のIMAXレーザーで『エブリシング・エブリウェア・オールアットワンス』を見た。

SFの特徴のひとつに「愛の物語を真っ向から描ける」というものがある。「何度生まれ変わってもあなたと結ばれる」という仮定の話について、それに近い内容を示すことができる。たとえばパラレルワールドやいわゆるマルチバースのなかで、いろいろな選択があり得るということを示した上で、結局、どの世界でも隣にいるのは同じ人だったと描くことで運命というものの輪郭を描出することができる。それがSF的な舞台装置によってなされることのひとつだ。
いろいろなディテールがあるにせよそのメッセージはどれも似通っていて、物語上の新鮮味はSFという言葉からイメージされるほどない。もちろんSFを初めて見る場合には、「なんだこれは」という驚きはあるだろうが、小説・漫画・映画などの主だった作品に2,3作品ほど触れれば、どれもコア部分は代わり映えしないということに気がつくだろう。
映画などのビジュアル作品の場合は、これまでになかったような新しい描写を発明することによって「見たことない」という驚きを与えることはできるし、映画好きやSF好きにとってはおそらくそこの部分を多く楽しみにするものなのだろう。
私はSFとされる特定の作品に触れた当初から、そのキーメッセージのほうに惹かれてきた。今になってもやっぱりキーメッセージの部分にもっとも心動かされる。経験上「そうなるんだろうな」という方向そのままに物語が進んでいったとしても、毎回どうしても感動してしまう。SF映画については、感動するということを確認するために映画を見に行くようなところがある。それを不健全だとは思わないまでも、客観的にみてセンス・オブ・ワンダーには欠けると感じる。
しかし、『エブリシング・エブリウェア・オールアットワンス』を見て、良かったと感じるのは紛れもない事実だし、同じような映画をあと20回ぐらい見たとしても心が動くんだろうなという感覚がある。
もちろん、同様の映画の中でも『エブリシング・エブリウェア・オールアットワンス』の出来が良いということはある。パターンが決まっているにせよ並び方・順序が的確で、場面の連なりにしても考証がなされたうえで氷山の一角として画面を構成しているのを感じさせる。アルファ、ベータ、・・・というマルチバースの並べ方は全体数から考えたときに割り振るシリアル番号として適当とは思えないなど、瑕疵がないとは言えないものの、アルファ・ウェイモンドの闘い方が他のウェイモンドと明らかに違うところなど、逆算する形でウェイモンドにとってのエブリンの存在の大きさを感じさせる描写があったりして、少し遅れて「ああそうか」という切ない感慨を抱けるようになっている。彼が最後に何を見て人生を閉じたかということを考えても、最初のほうで提示されたガラスが割れるようにして二重に割れるビジョンという演出の必然性を感じさせるもので、映画の画面として描かれなかった箇所にも物語(主観)があるということを想起させる。こういうのはやはり品の良い演出である。演出が良いというのはこの映画のポイントだ。

そして私にとってはもうひとつポイントがあった。それは作中に印象的な比喩として出てくる真っ黒いベーグルである。この黒いベーグルが何の比喩になっているかといえば死のイメージの比喩であり、その描写はかなり直接的なものとして感じられた。それが表していたのは生々しい迫ってくるような死の恐怖のイメージそのもので、ほとんど私の頭の中から出てきたものかと思われた。昔、自室で突然〈死の恐怖〉にとらわれたときのことを思い出した。ここでいう〈死の恐怖〉というのは、死後何もないということを想像して、そのどうしようもなさに震える経験のことである。私の場合、その恐怖が迫ってくるときのイメージが視えたのは、目の前に黒い球体が迫ってきてどうしようもなさだけを感じるというような形でだった。ベーグルのように穴が空いていたということはなく、黒々とした密度の濃い黒が視えたのだが、そのときのことを思い返してみると、たしかに穴が空いていたともとれるかもしれない。ただしその穴の向こうには黒いドーナツ状のイメージよりもずっと黒いものがあって、それがあまりに黒いから穴が空いているように視えないだけのことだったのかとも思われる。とにかく黒かった。黒というのは光がないということの謂いで、とにかく何もなかった。それを視たのは20歳ぐらいの頃に一度だけで、時間帯は夜だったのだが、そのときあまりのことに部屋を飛び出したのだったか、それともそのまま寝てしまったのだか覚えていない。それまでも死の恐怖にとらわれることは度々あって、今でも定期的にその恐怖が容赦なく襲いかかってくるのだが、あんなに具体的にビジョンを持てたのはその一回だけだ。
『エブリシング・エブリウェア・オールアットワンス』がたんに良い映画であるというのを超えていると思うのは、エブリンとジョイの和解があったあとにもベーグルは消えないというところだ。ヒーローものだったりヒューマン・ドラマだったり、ジャンルを問わず普通の映画は観客に希望を見せる。たとえ一度は黒いベーグルを見せるような過激な映画であっても、希望の光を添えることを忘れない。愛・強い気持ち、呼び方はさまざまにあるが「それ」に照らされてわれわれの生はある。何はともあれ、今、われわれは生きている。そういうふうに帳尻を合わせ、気持ちが晴れるメッセージを錨のように沈めて、われわれの魂が漂流してしまうことを防いでくれる。つまりベーグルというのは逆説的にそこに光を照らすためのキャンバスとして規定されることが多い。
私自身もそういう物語の多くに心を慰められてきた。何度となく救われるような気持ちになってきたし、これからも心底助かったと胸を撫で下ろすような経験を映画や物語に与えてもらえることを期待している。
しかし、はっきり言っておかなければならないのだが、いつか死ぬからこそ人生は美しいというのは嘘だ。いつか死ぬという事実は、人生の瑕疵に他ならず、絶対に許してはならない不条理である。たしかに、死ぬことをどう捉えようと結局は死ぬのだからそれと折り合いをつけようというのは賢明な態度だとはいえる。だが、それは仕方なく折り合いをつけるということにすぎないのであって、結局は自ら慰めることでしかない。自分の考えだけではどうしても足りないから他人の存在を使って折り合いをつけようとするのも、それしか方法がないとはいえ、それをかんぺきにこなせたところで何の解決にもならない。
ベーグルを前にしては寒々しい気持ちになるしかない。だからできるかぎりそれから目をそらし、違うことを考えようとする。楽しいことでも苦しいことでも悲しいことでも、意識を向ける対象があって心が忙しくなればなんでもいいのだ。……だが、それが不可能になってしまう特異な状況があって、自分がそんな状況に置かれてしまうとしたら?
じつは今日も仕事中に突然ベーグルタイムが訪れて全然駄目になってしまった。これを書いている4時間ほど前のことだ。ただ、いつももう駄目だと思うのだけどすぐに立ち直れる。今はもうしっかり立ち直っている。いつも立ち直れるのは集中してそのことにとらわれ続けることができないからだろう。生理的な限界なのかブレーキがかかるからなのかわからないが、そのおかげで大丈夫になる。ありがたいと思わざるを得ない。
ジョイはベーグルの前に立つしかない。ジョイは消えるしかない。いつかはそうなるしかない。いつかは今ではない。だがいつかは消えるしかない。いろいろ考えることはできるけれど、それは最低のことだ。
たとえば死刑囚のことを考える。明日の朝、刑務官がやってきてついに刑が執行されることを告げられる、そのことを毎夜想像して寝る日々というのはどんな気持ちがするものだろう。それは間違いなく最低だろうが、ひょっとすると「慣れ」によって考えないでいられるようになっていくものかもしれない。
ベーグルと自分の関係を考えてみると、自分の置かれている状況というのは死刑囚とあまり変わらない。本質的には同じことだ。ただ気を紛らすための機会が多く与えられているだけのことで、それにしたところでいつまで続くのかは不透明だ。想像力にかぎりがあるというのはそれ自体有効な回避策だが、だんだんと摩耗していく途中にも苦痛は続くし、その苦痛だけは結局残るのではないかという気がする。
この映画における、エブリンのもとに帰ってきたジョイと帰ってこないジョイが「両方いる」というイメージは、たんに帰ってくるジョイがいるという嘘の希望でもなければ、帰ってこないジョイがいるという本当の絶望でもない地点に私を導いて、これまでとはちがう新しいはぐらし方で――それに慣れるまでのあいだは――、お守りになってくれるはずだ。充分長い期間それが続くといいなと思うけれど、だったら先頃のベーグルタイムの説明がつかない。たんにそれが役に立たないということであれば説明はつくけれど、それだといくらなんでも早手回しにすぎるから、焦らずゆっくり考えたり、いっそ考えたりしないでおいたり、あるいはちょっと違うことを考えたりしたい。
とにかく黒いベーグルは最低だ。それを描き出し、中指を立てる対象として提示してくれたことで、『エブリシング・エブリウェア・オールアットワンス』は私にとって忘れがたい映画になった。

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