20230303

『エンパイアオブライト』を見た

学生の頃、コーエン兄弟の映画が好きでよく見ていた。話が面白いと思ったことはないが、とにかく面白いとは思っていたので、その感情につられて話も面白いような気がしていた。
すこしいじわるな物の見方というか登場人物を若干突き放したような描き方をするのが新鮮で、他ではあまり見られない種類のユーモアを感じてだんだんのめり込んでいったんだと思う。話の筋が面白いというわけではないというのは当時から感じていたことだったので、何が面白いのかを確かめようとして数々の作品を何度も見返した。
何回見ても見るたびに面白く、見れば見るほど面白くなっていくので、やがてコーエン兄弟の映画は画面が良くてそれが化学調味料のような働きをしているのだと気づき始めた。私はシネフィルではないが、シネフィルに一定のシンパシーをもっていられるのはコーエン兄弟の映画を通して、画面それ自体の魅力に思い至った経験があるからだ。
コーエン兄弟と組んでいる撮影監督のひとりにロジャー・ディーキンスがいる。彼の撮影が素晴らしいのでは?と気づくのに時間はかからなかった。画面を「撮影」しているのは撮影監督だろうと察しはつくし、オスカーでも撮影賞があったりもするし、監督や俳優ほどに重要な要素であるにちがいないと思うようになったのだった。
だからといってロジャー・ディーキンス撮影の作品をその日から漁りはじめたということはなかった。ただ、新作がかかるたびに、ちょっと気になる作品で、見に行くかどうかの当落線上にある作品のクレジットにロジャー・ディーキンスの名前があった場合、見に行くのほうに針が振れるぐらいの影響力を持つようになったのだった。
『エンパイアオブライト』もそうした作品のうちのひとつだった。予告編を見たときには地味で正直あまり面白そうとは思わなかったのだが、サム・メンデスだし外れということはないだろう、ロジャー・ディーキンスだったら退屈はしないだろうという判断で映画館に足を運んだ。
その判断は正しかった。建物や風景、時代の空気感の描き方が抜きん出ていたからだ。画面が美しいのは間違いないが、美しいだけではない別の要素も絡んでいるように思われた。それがどういう種類の何なのかはっきりはわからないが、とにかく特別な雰囲気があった。どことなくコーエン兄弟の映画を見ているような気にさせられた。
コーエン兄弟の映画と違うのは、特別な雰囲気のなか、とびっきり格好いい登場人物が現れたことだ。知らない顔の俳優で、終映後エンドロールに注目してMicheal Wardという文字を見つけた。マイケル・ウォードは文句のつけようがなく格好いいのだが、たぶんサム・メンデスには彼を格好良く撮ろうという衒いのなさがあり、そこがコーエン兄弟とは一線を画しているところだと思った。そういうことをするのとしないのとどっちが良いかというのは好みだが、実際にマイケル・ウォードを見たらそういう悠長なことは言っていられない。それほど威力のある俳優だった。まだ若いんだろうと思うが、のちのキャリアが楽しみというよりは心配になるレベルの出来だった。平たく言えば完璧だった。
風景が醸す特別な雰囲気と、俳優の格好良さというのは、いつか私が映画に求める最大のふたつになっていたので、エンパイアオブライトは好みでいえば最高の映画になった。
私のなかで映画の良さというのは、第一に俳優が見せる表情であり、その表情を見せるために話の筋があるという順序なので、俳優に割く意識は多いと自認しているのだが、その観点からいってもマイケル・ウォードが見せるすべての表情とその順番はいちいち完璧だった。
また、彼と関係ないところでは、オリヴィア・コールマンが詩を読むシーンが良いと思った。映画のなかで詩を読むというのは、腕のいい俳優がやれば当然格好のつく場面になる。たぶん映画監督はあまりそういうことをやりたがらないんだと思う。格好良いシーンをバチッと描くことに含羞があるのだろう。この映画ではないがたとえば『インターステラー』でマイケル・ケインが朗々と詩を読むシーンなどは、コーエン兄弟には逆立ちしても作れない名場面だと思う。マイケル・ウォードを使ってサム・メンデスが作った数々のシーンはそのどれもが最高で、心のどこかでよくやるよなとは思うものの、やりきることの痛快さがある。
しかし、そんな勢いで「詩を読む」シーンを描くのは危険でもある。もしあらかじめ詩を読むシーンがありますよと通知されていたとしたら、回転数が上がりすぎて空転するさまが脳裏をよぎり、目を開けていられないほど不安になることだろう。
オリヴィア・コールマンが詩を読むシーンはこの映画の物語的・心情的ハイライトのひとつだから印象的なのだが、場違いなスピーチという形をとることで、ユーモアに包まれた見やすいシーンになった。そのおかげで映画のいちシーンで詩を読むことの素晴らしさが充溢したわけだし、このあたりのバランス感覚がサム・メンデスを優秀な映画監督だと思わせる。
詩を読むシーンが素晴らしいのは、詩が言葉で作られていて、何よりもその言葉が素晴らしいのだということをはっきり告げるところだ。言うまでもなく詩は映画の部分であり、映画が素晴らしいものになるために配置された小道具のひとつである。しかし、裏を返すと、映画が詩の部分であり、詩が素晴らしいものであることを告げるための舞台装置だということもできる。これは部分と全体についての一般的な関係の話でもあって、たとえば俳優の表情と映画の物語などにも敷衍できる。どちらが全体でどちらがその部分であるかというのは、通常考えられているよりもずっと反転しやすいものであり、その反転はかなりの頻度でぐるぐる回っているものでもある。ただ、裏返る前にはどうやって裏返るのか想像もできないだろうし、裏返った後は裏返った後で、どうやって裏返ったのかはっきりわからないようなところがある。たぶん裏返るというのは一瞬のことだからだ。それ以後は表だったものが裏になり、裏だったものが表になるだけのことで、本質的にはたいした違いはないのだ。

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