蟻を殺していった話
マンションには公園が敷設されていた。ブランコ、滑り台、ベンチがある公園で、小学校を卒業するまではいつもそこで遊んだ。
小学校に入学する前、幼稚園に通っていた頃、滑り台のそばにある砂場でよく砂遊びをしていた。最初無目的に大きな山を作って、その山がだんだん大きくなっていく。そうすると誰かがトンネルを掘り始める。それを合図に向かい側からもトンネルを掘る。その頃にはだいぶ山が大きくなっているので身体をずらさないと屈んで作業している相手の姿が見えない。それでもトンネルを掘り始めたことは気配でわかる。こちらでは一生懸命に山を大きくしようと働いているのに、向こう側では手を止めているのがわかるからだ。だがもちろん、彼は手を止めているのではない。私たちは砂遊びをするときには信じられないほど勤勉だった。当時、サボるという発想など思い浮かびもしなかった。せっせと山を高くすることは、それがそのまま生の喜びだったのだ。となると、手を止めている理由はひとつしかない。高くするという目的をべつの目的に切り替えたのだ。こちらに断りなく黙って目的の切り替えをすることを咎めるわけにはいかない。昨日はこの自分が抜け駆けをしたのだったから。一昨日はどうだったか覚えていないが、順番で言うと向こうが抜け駆けをしたのだろう。
トンネルを掘り始めると、それまでのルールも変われば行動様式も変わる。ダイナミックさ・スピード重視でなくなり、より慎重で繊細な作業が要請されるようになる。しかし、私はそれまでの山作りの余勢を借りて、トンネル掘りの最初期には豪快に穴を掘ったものだった。それで失敗することが目に見えていたとしても、自分の行動によって失敗する分には失敗しても笑っていられた。私が楽しそうに笑ったら相手も笑った。それをひとつも不思議なことだと思わず、私は好き勝手に振る舞っていた。
しかし、同じ失敗を繰り返すとだんだん面白くなくなってくる。笑えないことをやる意味はないので、豪快さを維持しつつもべつの実践的な方法を考えつき、失敗を減らす必要が生じてきた。そこで考えついたのは豪快に掘り進めるときに、相手のいる方に向かって掘るのではなく、下に向かって掘るというやり方だった。穴から掘り出した土塊をそのまま山を高めるために用立てられるのも、いかにも一石二鳥という感じがして賢い気分を味わえた。私が発明したやり方はスタンダードになりセオリーになった。多くの量を掘りながらできるだけトンネルの開通を遅らせるのがこの遊びを存分に遊ぶための要諦だと、砂遊びを十分な回数遊んだ私たちは気づいていたのだ。たっぷり時間をかけて、いよいよ開通するというときの盛り上がり。水を使って開通をドラマチックなものにするという工夫を思いついた後にも、盛り上がりの根本にはいよいよ完成することへの予期とその共有があった。
ある日、砂場に蟻が出た日があった。いきなり蟻が出たのではないはずだが、あたかも蟻が湧き出たかのように、砂場に蟻がいることに突然気がついた日があった。友人のなかの猟奇的なひとりがおもむろに蟻を潰し始めた。
彼は穴を掘るときと変わらぬ自然な手付きで素手で蟻を潰していった。そこから、その日の遊びのルールは誰が一番多く蟻を潰せるかというものになった。遊びのルール変更について融通がきくこと、それはつねに私たちの遊びにおける美徳だったように思う。鬼ごっこのルールなど、誰かが新しいものを持ってきたらとりあえずその新しいやり方でやってみて、新しい動き方を楽しんでいた。
私は蟻を潰すことを一瞬躊躇した。手で潰すことは不可能に思われた。気色が悪いからだ。
もっとも仲の良い友人は勇敢にも手で蟻を潰し始めた。彼の手の下で蟻はつぎつぎにびりびり震えていった。私は足を振り上げて力いっぱい蟻を踏み潰した。容赦なく踏み潰すという印象を与えられるようにことさら膝を高く上げたり、わざわざ助走をつけてまで高く跳びあがってみせ、一疋の蟻を踏み潰した。ただ踏み潰すだけでは手で潰す勢に勝てないと感じたのだろう、踏みつけにしたあとに踏みにじって、蟻の身体をばらばらにしたうえ、運動靴を硬いコンクリートに擦りつけて蟻の残骸を一箇所に集め、得意になってその黒い点を指差した。
みんなが蟻を潰すゲームに飽きて家に帰っていった後も、私は執拗に蟻を踏み潰し続けた。膝を高く上げ、ジャンプして、全体重を踏みつける靴に集めた。その日、日が暮れるまで蟻を踏み潰し続け、一生分の蟻潰しゲームを楽しんだ。当時私は自分の残虐性を友人たちに誇示する必要を感じていた。手で蟻を潰せないことが後ろめたかったから、執拗に潰すことで、蟻の生命を執拗に奪い続けることで、何度も何度も繰り返し蟻を殺すことでその穴埋めをしたのだった。
帰る時間になり、友人たちが先にエレベータに乗りにいった後にもひとり蟻を殺し続けたのはなぜなのか、当時の私にはわかるべくもなかったが、今もなぜなのか明確な答えがあるわけではない。日没後暗くなっていく空を背にしてそういうテンションにはまり込んでいったのか、先に殺した蟻への供養のつもりで後の蟻を殺し、その蟻の魂を鎮めるために次の蟻を踏み潰したのか。それともこのゲームに徹底的に飽きる必要を感じたのか、確かなことはわからない。ただ、その日以降一度も蟻を潰すゲームはやらなかった。そのゲームをやっても笑えないし、面白くないと気づいたからだ。
その後、私たちは何かゲームを思いついては始め、そのたびに蟻を踏み潰すような愚行を繰り返した。新しいゲームを発見しそれに熱中するたび、毎回、すこしだけ歯止めが効かなくなった。愚行を繰り返す喜びが溢れてどうしようもなくなる瞬間がそのたびに押し寄せたからだ。ほんの短い時間にすぎないにせよ、愚かさをあえて実行する自分自身に笑っていられたからだ。私たちはいつもマンションの下の公園で遊んでいた。さも楽しそうに私が笑うと皆も笑った。