あとでそれを見返せる状態にするということを指してセーブするというのだが、ゲームでのセーブのようにそこからやり直せるという機能は付いていない。
それでもその写真が残っているのと残っていないのとでは全然ちがう未来になることだけは明らかだ。記憶力に対する信頼をとっくに無くしてしまったいま、今何の気無しに撮った写真だけが頼りで、それに縋って記憶をたどることになるだろう。その意味でもセーブするといえるし、やがてたどりきれないとしてもたどりきれないような記憶の盲点があるということの証明になる。痕跡を残し、存在しないものの存在させることができると思うのだ。
失われるのであれば失われるに任せればいいというのはニセの楽観主義だ。わたしはセーブする。わたしは楽観主義者を自認している。
わたしはセーブする。そしてセーブする人という意味で「セーバー」という言葉を使って自己紹介しようか「セービスト」という言葉を作り出してそう名乗ろうか迷っている。どちらにももう一方にはない利点がある。前者の利点は語感が壊滅的にわるいというわけではないこと、後者の利点は言葉の聞き馴染みのなさによって活動についての命名となり得ることだ。
既存のシステムで似たものに「日記」がある。日記は記憶喪失に対する強力な対抗手段だ。
ただ、日記を書かないひとにもセーブはできるし、日記が続かないひとにもセーブは続けられるというのが日記に対するセーブの利点だ。一日に何度でもできるというのも大きい。日記はに一日一回という制限があるが、セーブの場合、そこに意識が向くのであれば1時間に1回でも10分に1回でも好きなだけ行うことができる。しかもやることといえばカメラを起動しボタンを押すことだけだ。
日記と併用もできる。写真にキャプションをつけるということをすればそのまま日記にもなる。お手軽簡単でありながらやるのとやらないのとで全然ちがう未来が待っている。セーブする生活を今から始めるべきだ。