20230322

『たぶんこれ銀河鉄道の夜』を見た

新宿のサザンシアターで上演されていた『たぶんこれ銀河鉄道の夜』を見に行った。

『たぶんこれ銀河鉄道の夜』は何よりもまず舞台装置のクオリティが高かった。内容のクオリティと道具立てのクオリティとは自分がこれまで考えていたより不可分のもので、関心させられるのがプロジェクトマッピング風の映像だったとしても、それを効果的に演出できているかというのはまた別問題だし、そこに関心する以上、一定の効果を挙げられていると考えてよく、総じて演出の成果ととらえて問題ないと思う。

宮沢賢治の有名すぎる小説を原作にした作品だが、列車が左から右の一方向へ横スクロールしていく映像を基本線に据え、ときおり停車したり発車するのを映像の切り替わりと役者の演技で表現することを大枠にしたところでこの舞台の成否は決まっていたように思う。見ていて面白いと感じられる「動き」が土台となり、それが物語の推進力にも一役買っていた。

『銀河鉄道の夜』は有名すぎるし、読者に喚起するイメージの力もかなり大きい。読者ひとりひとりに「純粋な思い」を届けるからハマると抜け出せないところがある。銀河鉄道の夜にふれているときには、誰しもが「善き人」になる。いろいろ言及されることが多い作品ではあるが、そこにこそ稀有な特徴があると思う。世界的により有名な『星の王子さま』もそうだが、宇宙規模の美を言い表そうとしたときに必然的に生じる力がある。そして、どのような力にもいえることだが、力は力であることにより良く作用することもあれば悪く作用してしまうこともあり得る。そうするとたちまち良い悪いの二分化の影響をうけることになり、それと純粋な想像力の働きとが合わさることで「あの物語は素晴らしいと言われているのだけどじつは……」というような単純なスキャンダルの餌食にもなる。『銀河鉄道の夜』の二次創作は、良い面にフォーカスし、それ単体ではつまらないスキャンダルの原因ともなる悪い面には目を向けないということをするのが無難といえば無難な方策である。

誰もが自分をジョバンニだと思い、カンパネルラでありたいと思うことそれ自体は、そのこと単体で見れば良いことなのだろう。ただその過程で、あるいはそれをする条件次第では、排他的な要素だったり、排外主義のようなものが絡み合ってくることになる。それは「純粋」ということについて考えるとき不可避的についてまわる汚濁にも近い。そしてその条件というのは、どの立場の人にも基本的には当てはまる事項であり、ジョバンニでありカンパネルラであると心底信じられるケースがあったとして、それは浮世離れして「自分だけは」と考えていられる鉄面皮だけが回避できるたぐいの例外主義的なコースにすぎない。


『銀河鉄道の夜』を「原作『銀河鉄道の夜』」にし、言葉を歌にし、夢を現実にするとき、いずれの場合も何らかの変化をこうむる。前者と後者のあいだにある距離がその変化の生みの親だ。ある距離を移動するときには始点と終点があり、両者をつなぐ固有の線がある。瞬間移動が可能でないとするなら、そこには移動時間があり、道中があるということになる。すべての移動には変化が、位置の変化にとどまらない変化がつきものである。その条件のもとでは、どこかへ向かう列車の中にべつの時間が流れていて、たとえばそこにおいて交わされる会話が列車の運行に影響を与えるというような特定の事態を引き起こす。

前者と後者は同一のものではありえない。銀河鉄道と銀河鉄道をもとにした作品、ジョバンニと自分とジョバンニと同一視したジョバンニ、作中に書かれてある文章とその文章を読み上げる声・歌はいずれも同一のものではない。本当の幸いというものがあるとして、それは本当の幸いという言葉とは違ってしまうのと同じ事情によって、両者は隔たっている。それでもわれわれはしばしば両者を同一視しようとしてしまう。それどころかいつの間にか両者を同一視している。両者という区分を設けずにいることも多い。

『銀河鉄道の夜』を原作にする作品は、ある点で原作を越えていかなければならない。それは無謬ではいられないという認識からの必然である。追いかけるものは追い越すものでなければならない。

「私はカンパネルラじゃない」と言う。当然である。「私はザネリだ」と言う。当然そうではない。自分と作中人物のあいだに単純な線を引いて同じものだとしてしまおうとするのは物語読者の習い性のようなもので、それがなければそもそも十全に物語を楽しめないのは確からしい。しかし、彼らに固有の事情によって、その線引きはどこまでいっても線引きにほかならず、どこまで行こうとも同一視とはならない。

「私は善人だ」と言いたかったり、「私は悪人だ」と言いたかったりすることが起こるとしても、私は私に固有の事情によって、私をどちらかに片付けるということはできない。たどり着くべきところへ不断に向かっていながらいつまで経ってもたどり着かない物語が『銀河鉄道の夜』であるとするなら、おそらく『たぶんこれ銀河鉄道の夜』もそれに似た物語であるだろう。乗客の多さからくる混み合った車両と、それに付随する雑然とした雰囲気が『銀河鉄道の夜』の先を行くものであることは、正確を期すためにたぶんという留保をつけなくてもいいほど明らかなことである。また、藤谷理子演じる美容室の先輩が純粋な二項関係に付け足す第三項になっていたことで、本作が原作の均衡を崩し不純な物語になり得ていたというのは、物語平面上の図画としてすぐ目につくところで、彼女がもっとも脚本上の役得を得ていたと思う。動きと声にキレがあり、舞台上でも目を引く俳優であるということを加味しても、あきらかに良い役だった。彼女は自分がカンパネルラでもジョバンニでもなく、ザネリでもないと思っている。カンパネルラにしてもジョバンニにしてもザネリにしても、相手にとっての自分というものを考えたときに浮かび上がってくる考え方のようなもので、すくなくとも作中での彼女は、そこを目指したいと考えながらもそこに至れないものとして描かれていた。二本のレールの隣を並走する余剰のレールとして無駄に引かれている一本の線という見え方もしたし、その寂しいあり方は、見えない力で物語を支えていたといえるのではないか。

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