20230302

下北沢演劇祭の演劇に出演した

私は、何かをやってみるときにあまり深く考えず、軽い気持ちでやってみるタイプの人間である。
昔はそうではなかった。どちらかといえば慎重を絵に描いたようなタイプで、自分の頭の中だけでいろいろ考え、しかも、それで完結できるだけの妄想力を俺は備えているのだ、とうそぶいていた。自分以外誰もいない部屋のなかで。
だから自分と向き合う時間は多かったと思う。そうすると、自分の傾向性とは真逆に振れてみたいとある日思うようになる。俺はこういう人間であると思っているが、ひょっとするとそうではないのかもしれない。その可能性について考えてみるというのは、どちらかといえば明るい気持ちに私を導いた。それまでの俺の延長線では選ばないような何かを選択してみて、俺には自由意思があるんだと自分自身に証したかった。たぶんそういうようなことを考えて、最初はただどこかに出かけていったんだと思う。東京に出てきた最初の夜、渋谷のクラブに出かけていったのもその一環でしかなかったが、何度か通ううちにまずはその場所での居方を学び、結果としてクラブでひとり踊るということの楽しさを知ることができた。
重要なのは、ひとりでいるために部屋に閉じこもっている必要はないということだ。行った先でひとりでいることと、部屋のなかでひとりでいることのあいだに大した違いはない。
何かをやってみるとき、誰かと一緒にやることが条件になる場合がある。そのときは一緒にやればいいだけで、それが終わった後にずっと一緒にいたり、それで気詰まりな思いをする必要はない。これも重要なポイントだ。ひとりの時間を多く部屋で過ごしていると、部屋から出ると四六時中ずっと人のそばにいなければならないというように考えがちだが、まずそれがそうではない。田舎ではそうなのかもしれないが、少なくとも都会ではそんなことはない。人はたくさんいるし、その効用もあり、誰も私に興味を持ってなどいない。もちろん礼儀として、あなたに興味がありますよというメッセージを送るためだけにやる通り一遍の会話は発生する。つねに礼儀正しい人間でありたいと思わないのであればそういった挨拶を無視したり、一切やらなくても問題ない。ただただ自分のやりたいことだけに集中すればいい。私には、やりたいことがそこまではっきりしていないのと、つねに礼儀正しい人間であらねばという強迫観念から、儀礼的メッセージを送ることに血道をあげているような瞬間が多くあるのだが、それも数をこなすうちに大した労力と感じなくなってくる。いつかほとんど自動的に社交上の礼儀を押さえられるようになるかもしれないし、べつに礼儀とかどうでもいいと思える日がくるかもしれない。いずれにせよ重要なのは、何かをやりたいと思ったとき、実際にそれがやれるかどうかのほうだ。
自分の傾向を踏まえてその逆を、とか、自分の延長線上にない動きを、とか、そういうある種の飛躍、つまり突飛な行動を、実際に行動に移せるかということを私は重要視している。そう思って行動するうち、いつの間にか、いい加減な気持ちで場当たり的に動くことが当たり前になってきた。
ひとり遊びをする場合、喜ばせたい相手はひとりしかいない。実際に行動に移してみなくても充分楽しいのは私にとっては言うまでもないことなのだが、それでも、実際に行動に移してみると私は驚く。その瞬間、意外に思いながらも私が嬉しそうなのを私は見逃さない。
自分ひとりで知ることのできることはたかが知れている。だから実際に本を読むのだし、実際に映画を見る。実際に演劇をやってみる。
ピンポンダッシュをやるものの気持ちは、実際にピンポンダッシュをしたものにしかわからない。私はこの手の言説には半分反対の立場である。実際にやらないでもなぜかわかるという不思議な状況をもたらしてきた数々のフィクションが私を反対の立場に押しやる。だから今でも半分反対だ。
しかし、実際に演劇に出演しライトを浴びたときの気持ちを、それをやらなかった架空の私に理解させることはできないのではないかという疑いをもってしまう。クラブで音圧を全身に受けて踊るときの気持ちを、それをしなかった私に理解させることは不可能ではないのかと思ってしまう。
他人に何かを伝えるというのは、私にとって縁遠い営みであるように思う。しかし、それを体験しなかった架空の私に向けてその実態を教えてやるという形式であれば幾分興味を持つことができるようだ。
演劇のWS(ワークショップ)を通して、これが客にどう見えるかということには興味を持てなかった。ただ、カメラを通して自分がそれを見るということであれば、見え方にも興味を持って取り組むことができた。若干興味がありすぎて、せっかく撮影してもらった動画を最初のうちは見ようとすることができないほどだった。
人に演劇WSを勧めたいかと聞かれると、答えはYES一択である。しかしそれは人が私と同じ考え方をするだろうといういい加減な他人観からのものだ。すこし人に寄せて考えると、リスクの概念がちょっとずれている人には勧められる。物事について、何もやらないことをリスクと考えるタイプの人には演劇WSを勧めたい。逆に勧められないのは人前で絶対に恥をかきたくないというタイプの人だ。私は人前で絶対に恥をかきたくないと考えて何もしないでいるのを恥だと考えてしまうクチなので、同様の考え方をする人であれば、いろいろ考えた末参加するのも全然ありだろうと思う。
その場にどうやって居るかというのが重要なのだろうと直観している。思いついたことを思いついたまま口にすることができるということ、思ったままに動くことができるということ、そういうのを目の前で見せられて、なぜそんなことができるのだと驚嘆した。ポジティブな驚きというよりはもっと強烈で、感情的にはほとんど憤慨に近かったと思う。「自己が主であり、他は賓である」という当然のことを、私は頭で理解しているにすぎないということを見せつけられたようで胸が苦しかった。
理解していることと、経験して知っていることのあいだには超えがたい溝があるということを思い知らされた。こういうことをいくら言葉でいってもナンセンスなようだが、それでもそう言うしかない。こうしか言えないというそのことを示すためにこう言うしかない。
ひとりの俳優が見せつけた権能は、本来私が発揮するべきはずのもので、しかし実際にはそうなっていないという苦痛は私にとって屈辱以外の何物でもなかった。やりたいことをやっているのは俺であるべきはずなのに、比較して優位なのは相手であるという事実。私の私用に歪ませたレンズを通してもなお歴然とした”違い”があった。技術で来てくれるならむしろ格好の餌食にできた。何しろ初心者という最強の盾を持っているので。しかしジェスチャーがうまいとかマイムがどうとかそういうのではなく、やりたいことをやるためにそこに居るという居方の面で圧倒的だった。場面に居合わせる力が図抜けていて、どんな場面にでも居られるという自信があり、しかもそれを隠そうともしない傲岸不遜なところに強烈な反感をおぼえたし、無茶苦茶に魅力を感じないではいられなかった。あの場に直面した私は「自己が主であり、他は賓である」と思うのを止めていた。そのときに限っていえば現実問題としてそうではなかったから。もし私が俳優としてあの場面に居合わせなかったら味わえなかった屈辱だったかもしれない。プレーヤーでいるということは「悔しい」の連続なんだろうと思う。
私はこれまでのほほん・のんびり・のうのうと歩いてきたし、これからも3Nを崩すつもりは微塵もないが、たまにはちょっと自分には似合わないことをやってみて楽しむということは止められそうもない。自分なりの居方を極めて、どこにでも居られるようになるという当面の目標もできた。この件に関して、仮想敵を架空の私のうちのひとりにするのではなく、他人にその任を預けられるというのが今回ひとりで外に出かけてみて得た一番の効能だったと思う。スポットライトを浴びるという奇妙な体験をのぞけば。どちらもしっかり理解させたいことなので、演劇をやったことがない私を見つけたら、実際にやってみることをつよく勧めたい。

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