20230328

日記77

 

道端の公園

昨日

スタバに行った帰り道で酒を飲まなかった。帰ってそのまま寝たので一週間以上ぶりにアルコールを摂らない日ができた。アルコールを必要とするような生活をしていないのにアルコールを摂りたくなるのは変だし、動機もろもろを顧慮するに必ずしも享楽のためでなく惰性でしかないような気がするので一旦停止してみることにする。

この試みは長い中断を挟んで何度か施行されることになる。一年後のこっちでもそろそろ中断を中止しないと。

NHKのサイエンス番組で家畜の話をしていたので興味を持って見ていると、人間も自身を自己家畜化してきたという話になった。そこで頭蓋骨の額部分が出っ張っている人と出っ張っていない人との比較がされており、類人猿に近いのが出っ張っている人だと言っていた。別のことをしながら流し見程度に見ていたので詳細はわからないしどこまで信憑性があるのか不明だけど(頭蓋骨の形とか言っているのを聞くと「骨相学」を思い出すし、そうすると『ジャンゴ』に登場した魅力的であるが完全な敵役のディカプリオのことをイメージするので自動的に眉に唾することになる)、私は額の目の上の部分が出っ張っているので気になってしまった。家畜化されていない動物は自分に何かが近づいてきたときにストレスから攻撃的な反応をしてしまうらしく、それによって群れでの生活ができないという性質があるのだという。

それらを受けて私が思ったのは、私が人前に立ったとき、勝手に頭が痺れて緊張してしまうのは、ある種の生理的反応なのかもしれないということだ。こういう知見について、人間一般には百歩譲ってあてはまる部分があると考えられるにしても、個人には無関係だと思いたがる傾向が私個人にはある。だから眉に唾するのだけど、眉に唾しつつも、この意見は自分に都合良いということを嗅ぎ取って、つまり言い訳に使えることを察して、頭の片隅に残していきそうな気がする。私の父親もおそらく私に似て、額が出っ張っているし、そのせいでかはわからないが人前で緊張するタイプだと思う。私の母親は私の母親で神経質なところがある。私にもかつては神経質なところがあった。いろいろあったおかげで今や神経質なところはかなりの程度払拭できたと思うが、人前での緊張は全然克服できていない。他人を敵視してしまうというか、他人の視線を敵視と感じてしまうのだ。頭ではそんなのおかしいと思うのに、自分に起こっている反応を振り返ると、そういう敵対関係を感じとっているとしか思えない。

自分の性格や性質を自分のネイチャーだとするのが自分は嫌だ。それとはべつの考え方を採用したい。ガムのようにどうにでも変化できると思いたい。人前に立つ機会があるたび、できていないことは毎回これ以上ないほどの明るさで明らかになるのだが、それでも頑固に変化できると思い続けたい。その頑固さが私のネイチャーだとすればとりあえずそれだけを受け入れる準備はある。

緊張については、ちょうど去年の今頃、もうすこし手前の演劇祭出演頃からすこしずつマシになってきている。少なくともどんどんひどくなる時期はとっくに過ぎていてゆるやかにではあるが下降線を描き始められたのかもしれない。自分の発言前になるとまだビリビリするし、一〇〇だったものが九十九、九十八になったぐらいの変化でしかないが、それでも自分の緊張の総量が無限大のように思えていた頃からすると大幅な進歩だといえる。


今日

在宅仕事。『月と散文』を読み終わる。最近はおやつの時間に3分間だけだけスクワット運動をやり始め、この日はその三日目だった。3分間しかやらないのにしっかり息が上がるからスクワット運動とさいきんの運動不足はすごい。

運動をやっていてえらい。一年後の今、運動はラジオ体操さえしておらず、週に何度か一万歩ぐらい歩く以外は皆無だ。

『死者の奢り』を読む。大江を読む以上に大事なことが今の生活上にひとつもない。飛び抜けて重要だと思えることがはっきりあるのは良いことだが、それがいわゆる能動的な活動ではないのは残念なことだ。とはいえ、惰性でやれるほど受動的に済ませられることではなく積極性が必要になる読書ではあるので客観的に考えるよりはだいぶ能動的な活動だとは思う。こうやって誰にともなく言い訳しないといけないことが情けなくあることだが。黙ってやっている分には何でもない。

真剣に向き合えるかどうか、というよりどこまで真剣に向き合えるかということだと思う。流れができるとその分緩むので、そうならないように今のテンションを維持したい。読み慣れるということのないように。

読み慣れるということは気をつけていても起きる。飽きがこないような工夫などという小賢しさとは無縁だし、強い味・噛みごたえがあるので仕方がない。

それにしてもピンチョン以来の真剣な読書だ。再読が必要になるたぐいの著作にある程度の期間費やせるのは自分にとって貴重だ。そういうのが減ってきている最近の自分にとってはなお貴重。そういう作家にあとどれだけ出会えるかわからない。すでに見えている作家に再度出会い直すというのが今回起こったことなのでまた同じことが起きないとは思わないが、不意撃ちにあうような驚きが今回の『遅れてきた青年』によってもたらされたことで、それと同等の幸運がまたあるとは思えない。まあ想像してなかったことが起きたのが今回なので結局起こるときには起こるんだろう。

ピンチョンのときの真剣さはその世界に取り込まれたいという気持ちが主だったような気がする。大江健三郎への真剣さはそうではなく、読者たる自分と著者たる大江との対決図式があるような気がする。未知の世界への冒険と既知の世界への冒険とのちがいというか、水平方向への展開と垂直方向への下降とのちがいというか。ピンチョンにある明るさが大江にはない。その明るさは強迫観念的でもあるから見ていてどちらが明るい気持ちになるかというのは別だけど(どちらも見ていて明るくはならない)。ただどちらも陰惨な事件に対抗するだけのユーモアがあり、主人公の近くに主人公を励ます仲間がいる、地獄に仏スタイルをとっている。雑で強引なまとめ方をすれば、戦争がある世界の話。

俺は虫が怖いとか言っている場合じゃないのではという気にさせられる。英語ができないとか言っている場合でもないし、人前で緊張するとか言っている場合でもない。しかし現実に虫が出たら避けるし、英語ではろくにコミュニケーションとれないし、日本語でも人前では何も言えなくなるに等しいし、そういう条件に制限されたところに実際暮らしているわけだ。何でもできるような気分を保つためにはそういう条件については自然に目をつぶっていないといけない。自然にそういうことができるようになればなるほど自分から離れていくのだよという本来の自分に関する一般論をぶたれると返す言葉もないし、面白さの観点からもかなりの綱渡りだと思う。かなりのというのは綱に乗っているつもりで乗っていない、地面の上をはらはらしながら手をばたばたさせてバランスをとりながらゆっくり歩いているだけのことを真剣に歩いていると言っているにすぎない。しかも気持ちの上では真剣に歩いている。良いのか悪いのかでいうと良いということになるのだろうけど。その面白さは他人から見たときの面白さであって自分で自分を振り返り見たときの面白さではない。どこまでも真剣になれれば自分でも面白いと思えるんだろうか。そうしようとしたとき、こういうことにすぐ気づいた風の振る舞いをしてしまうのが邪魔になるのはわかる。でも意識が行くのを止めようとするのはナンセンスだ。思ったことを全部思うまでのことだ。できないことはできるようにならない、できることでやっていないことはできるようになるかもしれない。だから結局、できることは何だってできるし、できないことはできないってだけの話でしょ、ということになる。

反省するつもりがないのはわかる。自分の姿勢については反省する意味なんてないと思うし、そもそも反省する余地もとくにない。自分とはちがう人を見て、その人のやり方について考えて自分とはちがうと言っているだけの話。こういうとき、向こうが正しくてこっちが間違っているということはない。そう思わさせられることは非常にしばしばあるけれども、それはそれ。

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