今日
在宅仕事。キングオブコントの会を見る。前回よりも面白くないコントが多かった。「ビジネスホテル」が飛び抜けて面白かった。
スタバで『遅れてきた青年』を読み終える。後半の途中で失速するのも小説全体からすれば必然性があったこともわかった。目まぐるしいような飽きさせない展開で、大きな石のような人物がずしんずしんと存在感ある音を立てながら流れていって、石の精巧さと流れの強さの両方に驚かされた。こんなに面白い小説を読んだのは初めてだという感想で、しばらく大江健三郎作品を読み続けることになるかもしれない。ただエネルギー消費が激しいので途中で嫌になる可能性も十分ある。とりあえず昨日の段階で『死者の奢り・飼育』を買っておいた。
嫌になることはなかったが、何冊か読んで大江健三郎を置いている。疲れるというよりは密度の濃さに飽きたというのが近い。もっというと他の作家を読みたくなったのが大きい。他の作家を読みたくなったことの動機にまで大江作品の影響が及んでいるといってもいいかもしれない。どうあれまた読みはじめることにはなるだろう。
この小説のいう「本来の自分」が誤解されて、誤解というより誰にでもわかるような簡単な話に変換されて、すこし前まで流行語のようになっていた「自分探し」に回収されていくのは必然だという気がする。その後、自分探しとか言ってる場合じゃない、本当の自分なんていうのは今ここにいる自分以外にはありえないという穏当な反対意見が「自分探し」にとって代わったのは良いことだが、その意見が通った後にも流されずに残る問題はあるという当然のことを思った。この「本来の自分」云々については目新しい発見というものではなく、確認作業のための答案シートのようなものだが、これもまた当然ながら、だから問題自体がないものになるというものではない。「本来の自分」というのは、嘘をついてはいけませんという道徳とは無関係の話だ。正直に生きる自分のイメージとその影に引きずられて歩くという、実人生にとってはマイナス方向にしか作用しないハンデの話だ。いつか考えなくなっていくことで外れていく重しのようなものかもしれない。張り合いがあるとか、価値があるとか、そういう言葉を使って言ってみてもそれ自体何の価値もないような種類の、ただ実感として足取りを鈍くさせるだけの、いわば全力疾走を防ぐためだけに設置されたハードルのたぐいなのかもしれない。そしてランナーは内的な必要と外的な必要との両面にせまられて新しい競技を発明するのだろう。
それにしても、大江健三郎と同時期かすこし遅れて小説家になった人は気の毒だと思う。大江健三郎をまったく読まないでいる以外に、自分が続けて自作を書き続けることはできないのではないか。実際にはそんなことを気にしないで自分の作品を書いていったんだろうから、『遅れてきた青年』を読んだことで大江と同時代の作家にも興味が出てきた。まあ当時の世代特有の厚かましさしか表さないかもしれないけど。
最後らへんで康が置かれた状況はよく考えられているなと感心する。どうやってその危機から逃れるのかわからないが、手記の書き手の言葉を信用するのであれば、康とその妻はなんとか危機的状況を抜け出したとのこと。
しかし、最後に康について書かれてある箇所については、どうにも書かれてあることを鵜呑みに出来ないようなところがある。錯乱していて本当のことがわからなくなっている場合、願望が事実であるかのようにとらえられている場合、読者への反感由来のユーモアで冗談を言おうとした場合、いろいろなパターンがあり、そのどれもが現実に起こったことではないとの立場を築き得る。ただそれらの対向にあるのはすべて「単純な事実」で、どれほど嘘のパターンを増やそうと真偽は50:50になる。報告された文書・書かれた言葉というのは力強い。騙そうとする意図はそれに比べるとあまり強くないということもある。どれだけ弱くてもこちら側で疑いを抱くことはできるので、ある程度以上は発信側の強弱に依拠しない問題ということになるけれども、嘘側のパターンを並べれば並べるほど真実側が相対的に強くなっていくというのは存在感の問題としてあり、受け手の側に影響することで結果に影響する。50:50で真というのは(ちょっと無理して突き詰めれば)結局のところ真ということだ。
今読んでいる数学の本『数学する精神』ともかぶっているところで驚いた。ちょっと無理して突き詰めるということは、ちょっとだろうが大幅にだろうが無理しているのは無理しているのだが、無理を程度問題にしてしまって、あるいは「そういうもの」として扱うことで次の問題に取り掛かるといったある意味ではいい加減な操作が必要になるということだ。生きるか死ぬかというのは0/1の問題のようでいて実質はそうじゃないというのに似ている。
アマゾンレビューでひどい感想を目にしてしまい一瞬気が滅入った。
いわく「作者の右傾感覚が出ていて拒否感をおぼえる」とのこと。左右で小説を読むやつがいるという驚きはおいておくにしても、この小説がすばらしいのはむしろ対岸にある自分ではないものについてどれほど想像力を働かせられるかというところにある。見当違いも甚だしい。ここまで寄り添えるのかというぐらい主人公に肉薄しているし、そこに作者の仕事が感じられる。もし自分がその立場だったらということを考え抜く度合いは凄まじいほどだ。
レビューを書いた人が作者と主人公を切り離して考えられないのはそれほど詳らかに心情を描いているからで、「自分というものを通して」という見え方をこえて「自分が」としてしか読めなかったということかもしれず、それは読む側の力量が明らかに低いということはあるにせよ、それほどすごい小説ということの証明になっているともいえる。
くそみたいな意見を読んで腹が立ちそれをガソリンにして文章を書くというのはよくない。よくない薬をつかってドーピングしているような感覚になる。それで書き続けていっても結局つまらないし、そのときは一時的に書けるようになったとしてもつまらないことしか書けるようにならない。
結局、人は自分のものの見方の範囲内でなにかをカテゴライズするしかなく、上のレビューはその範囲が小説を読むのに適していないほど狭すぎると感じて不満があるということになる。べつにどんな読者がいてもかまわないはずで、どんな感じ方があっても問題ないというのはその通りなのだから、そんなに反応しないでもいいことだったのだが、矮小化されたような気になって腹がたったのだった。もちろんそんなわけないのだから一時の気の迷いのようなものだった。気にするべきではないことを気にするな、以上。