20230324

日記74

ビニールの雨除けを手に持って歩く


今日
在宅仕事。スタバの代わりになるカフェを見つけたのでそこで日記を書く。明日の読書会に備えて『21世紀の道徳』第4章を読む。自分がいま功利主義について考えること↓

功利主義について
あるゲームで遊んでいてその勝ち筋の最適化を目指しているときに有効な考え方である。
ゲームの目的が効率的な勝利条件の達成であるなら、ほかの考え方より有効かもしれない。
ただし、ゲームで遊ぶ理由がどこにあるのかという問いに直接答えるものではない。すべての個人にとって、つまり幸福概念にとってゲームで遊ぶ理由の追求は避けて通れない。社会全体がどのフェーズにあるかどうかによって、功利主義を選ぶべきかどうかも変わってくる。社会がまだ功利主義を選択するべき未成熟なフェーズにあるとしても、すべての個人が同じ状況を分け持っているとはかぎらない。功利主義的な幸福を追求しないでもいい幸運な人間はすでに社会に一定数いるだろうと考えられる。ラッキーマンたちにとって功利主義を選ぶのは簡単ではない。持っているものを手放すという判断が必要になるからだ。おそらく功利主義は多く持っている人間たちからそれを手放すよう説得する必要がどこかの段階で生じるはずだが、今の形のままではそれを実現するのはむずかしいと考えられる。大幅なアップデートが必要だが、そうすると変容後のそれはもはや功利主義とは呼ばれない別物になるのではないか。
奴隷制を持ち出して功利主義に対して向けられる反論をしりぞけるためにグリーンが「奴隷制度における奴隷たちの不幸は奴隷主やほかの人の幸福を上回ることはありえない」と主張したが、それでは生贄制度ではどうなるのか、もたらされる不幸は幸福を上回ることが考えられるのではないか。仕方ない犠牲として社会は生贄を受け入れることになる。それと同時に生贄を説得することは不可能だ。
通常より幸運な人間を生贄として彼の幸運部分を取り除くこと、通常の人間を生贄として彼に不運を背負わせること、いずれも少数者に不利を強いる方法だが、前者は後者に比べると心情的には受け入れやすいかもしれない。


「権利」とは、わたしたちの内側にある感情を正当化して強弁するために、その感情が実在する物体であるかのようなもっともらしい表現を与えたもの、であるのかもしれない

この主張は「権利」にかぎらず、「良識」にも使える。ある概念や考え方をつかまえて「それはイメージの領域にすぎない」とする攻撃は、イメージがもっている力を考えると長期的に見れば大した有効打にはならない(功が少ない)ので、筋がわるいだろう。
どこからどこの範囲をとるかによって「正しさ」は変わってくる。人類にとって何が良いのかということを考えるにあたり、長い目で見るとすれば何が良いのかということはわからなくなるはずだが、どこからどこの範囲での最良をとるのか。それは常識によってこのぐらいと考えるとして、それはどの程度妥当であるだろうか。
たとえば「禁煙は正しい」という主張でさえ、すべての個人に当てはまるものではない。とくに喫煙習慣のある老人にとっては全然正しくない。社会を良くしようとするためには彼を説得することが必要なのだが功利主義のやり方でうまくいくとは思えない。愚かな立場をとるものに「お前の考え方は愚かだ」と言っても無益なのは、『北風と太陽』の寓意をとりあげるまでもなく明らかなことだ。功利主義は有効打を繰り出すために個人主義的な考え方を導入しなければならないだろう。明るい場所で正直に、誰にとっても合理的、きちんと考えればわかるやり方でという信条を捨てて、個人の心情に寄り添い、騙しうちにするような形を部分的に採用する必要がある。そしてそれは功利主義を選ぶ利点をまるごと失うような変更にならざるをえない。このためであればそういう汚れ仕事もこなせるという上位概念とともにある場合のみ功利主義は有効な選択だろう。そして、功利主義者はその上位概念については口にしないまま済ませようとする。まるでタブーなどないかのような強気の態度で何でもかんでも俎上に載せる功利主義的アプローチが、意識的にか無意識的にか、かたくなにテーブルの上に置こうとしないあるものに同意できるかどうかに懸かっていると個人的には思う。あるものを指してこれはアンタッチャブルだと誰かが言い、同じものを指してそれはアンタッチャブルではないとべつの誰かが言ったとすれば、それを調停する機能がどこかにあるわけではないということはこのゲームをクリアするために押さえておかなければならないポイントだろう。

その後大江健三郎『遅れてきた青年』を読み、つづけて『21世紀の道徳』第5章を読む。トロッコ問題がつまらないと思うのはそれが「最低ライン」を策定しようとしているところだ。しかも論理学や法学ほどの厳密さはないように思えるので、感情に流されないよう考えることの訓練にしかならない。べつに訓練なら訓練で良いのだが、もし実戦がなければためにする訓練でしかない。だったら実戦を想定すればいいと言ってそんな単純な話でもなく、単純に言うのであれば実戦は願い下げだ。そもそもこの程度の訓練を積んだだけで自信満々で実戦に繰り出せるとは思えない。実戦に行かない者同士でおれは訓練を積んだんだぞとエバれるぐらいが関の山だろう。だとすればますます興味ない。
トロッコ問題で浮かび上がる「二重結果論」を意識的に行為するものの物語として『悪霊』はあったのだと思うし、ああいう特別な物語はためにする思考実験では到底到達できない地点に読者を導いてくれる。私はそういうものに興味がある。何かひとつ知れるのだとすれば「最高到達点」を知りたい。
ただ、社会において自分の居場所を見つけるために「最低ライン」を知っておくのは有効だと思う。ルールの間隙をついて生き延びるためにはその手の知識を持ち活用することが欠かせないのだろう。
又吉直樹の『月と散文』を読む。龍三が登場する『カレーとライス』が面白い。こういう登場人物が登場する読み物はいくらでも読んでいたいと思える。龍三が登場できるということひとつだけでも『月と散文』は読む価値がある。

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