20230323

日記73

階段の段差は恰好の椅子になる


今日

在宅仕事。『帝国の陰謀』を読み終わる。『遅れてきた青年』が重いので、それとは好対照な軽い読み物で都合が良い。この読み物自体が行為遂行的なテキストの実例だと思った。ポストモダンと近代との相克だったり、それらの往還だったり、輪郭の呈示ということも思うが、軽い読み物であることで著者の主張を行為遂行的に言い表しているという感じがもっとも印象としてつよい。まじめにやるな、深刻になるなということをまじめに言おうとしたらこういう言い方しかないのではないかと感じられる程度には真摯な試みだと思う。文学に対する文芸のような「芸能」という極め方があるということ、それは間違っても純文学などではないというところに励まされる。今を生きることにつながっているのは笑劇しかない。悲劇は断絶している。喜劇はかろうじてつながっているかもしれないが目を離したらすぐ切れるほどのきわどいつながりしかない。生活の中に残るのは笑いだけだ。

もっと文芸的なことを言おうと自分自身の書くものを方向づけようとしてもいいかもしれない。短い。最低限の言葉で伝えようとするのは詩文学的という評価か、あるいはモノグサの結果ということにしかならない。


雨が降っているなか昼飯を買いにでかける。夕方にはスタバに出かける。しかし満席だったためBROOKLYNのほうに行く。『遅れてきた青年』の第一部を読み終える。この小説を読んで懐かしいと感じるのはいつかこの小説の断片を読んだことがあるからだろう。受験勉強の現代文で読んだときの印象がまだ残っているのだから、作品の読み物としての強さと、当時の感受性の強さと両方の記念になっているのを嬉しく思う。

図書館で借りてきた『弱いロボット』シリーズのこり2冊を読み終える。内容にはこれといった違いや差がなく新書を読めばそれで済む。新書が一番よくまとまっている。


又吉の『月と散文』を買って読む。「はじめに」と表題作の「月と散文」とがよく出来ていて続きを読むのが楽しみになった。散文という言い方で表したいのは小説とエッセイの垣根をこえること、あるいはなくすことだろうと思う。そのあたりの境界を曖昧にしたいということであればその気持ちはわかる。

又吉の書くものを読んでいると、又吉ルールが厳然としてあるということを感じさせる。そしてそれは社会のルールとぴったり重なり合っている印象がある。砂場のルールや価値観に忠実なのは職業柄なのだろうと思うが、それでもたんなるプロ意識をこえて、アウト方向に安直に進んでいこうとするのを制しているのもこえて、そういう心性を嫌悪していると感じさせるところがある。自由より優先するいくつかのことがあるんだろうし、自由より優先するいくつかのことがあるんだろうと思われても構わないという頑なさがあるんだと思う。それが何なのかわからないし分析しようとも思わないが、自分とは相容れないものだという気がする。いや、自分にもたぶんそういう傾向はあって、しかもそれがより先鋭化されているのもわかるから、さすがにやりすぎでしょというやり方で引いてみせているだけという気がしてきた。有り体に言えば卑怯ということなんだけど、それを指して鷹揚さだと言って済ましていられるぐらいの鷹揚さが自分にはあると思う。しかも同じ方向で自分よりも「鷹揚なもの」を見ると、狭量にも「あまりに怠惰で見ていられない」とか言い出すんだから、これはもうきわめて鷹揚というほかない鷹揚さが自分にはあるということだろう。

簡単に言うと、常識に反発するようなことを言っておきながら、常識のうえに立って考えているように思えるのが恣意的な感じがして嫌なのだ。もっと根本からラディカルに言ってくれよということだが、他人にそれを要求するのは無理がある。

読みやすさがあることで誤魔化しが効かなくなるような状況があったとしたら、迷わず読みやすさを取るようなところがある。それはプロフェッショナルと言い表せるものなんだけど、それ以前の個人的な性格なんだろう。プロだなといって拍手するのはフェアじゃないかもしれない。相手が拍手を求めていることにかこつけて拍手して済ませるのは鷹揚さの枠をぎりぎりはみでることかもしれない。よっぽど充分に睡眠時間を確保していないとむずかしい。

彼の書くものを読むと、柔らかいのに固まっているという感じがある。じゅうぶん柔らかいのに柔らかいままでじゅうぶん固まっているとみえる。これは比較なのであんまり意味のある評価ではないのだが。何との比較かといえば当然私との比較で、私は彼と比べると硬いのに固まっていないという感じがする。ここですぐ固まっていないというのを定まっていないと言いたくなるのは、硬いのに固まっていないというのはあまりにあんまりだという気がするからだ。何にせよ考えることで情けない気持ちにはなりたくない。固いまま定まっていない。そこらへんに落ちてる石のようだ。石を売って生きたいという願望も全然捨てきれない。そのへんに落ちている小石を握ってグーを出す。せっかく拾ったものを捨てたくないからだ。柔らかいパーに負けるとしても、そのゲームのルールを信じないふりをしたり、できることは何でもやってやると思っている。「何でも」と言ってもその範囲は比較的狭いし、その範囲を広げることは握り込んだ拳を広げることぐらい不可能性に満ちているのだが。

これは良いと思ったものやそれの作者に対してはもっと信用をおいて、自分が感じたことについて率直に言うようにしないと慇懃無礼な結果になる。しかもここで自分が言おうとしていることを拾ってみると、短距離走の選手をつかまえてそれじゃ長くは走れないよと助言を与えようとしているようなものだ。自分のやりたいことは自分で実現するしかない。他人のやることを自分のやりたいことに引きつけようとするのは無意味だ。

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