昨日
スタバで読んだ『遅れてきた青年』が面白くて仕方ない。ひとりぼっちで夜の山に入る恐ろしさが経験のない者にもわかるように書かれている。小学6年生の主人公が、弟に嗜虐的に接するところ、それでいながら庇護する気持ちもあるところ、幼さから仲間とは見なしていないところなど、その年代の兄弟関係がよく書けている。
今日で5章まで読み終わったところだが、密度があって硬質な小説でありながら読みやすい。事件が展開していくからかもしれない。あとは読み応えがあるからそれによって続きを読みたくさせるのだろう。
今日
テレビで野球の決勝戦を見る。最後、大谷が相手のエースで所属球団のチームメイトを三振に討ち取って優勝を決めるところなどは誰もが少年漫画の展開だと認めざるを得ないだろう。
在宅仕事終わりにスタバにきて『遅れてきた青年』を読む。周囲が間違った行動に出ていることでわるい結果がもたらされることが予想されるのに、その行動の主導権が自分にないことや結果が最悪なものになるともかぎらないという楽観によって、何も行動を起こさずじっとして事態の推移を見守るときの諦観が、身に覚えがあるものとして感じられて苦しくなるほどよく描けていた。それだけに、あとに続く展開で康が無事だっただけでなく仲直りの契機となる積極的な行動を起こして主人公の前にふたたび現れたときの安堵と高揚とは著しい効果をあげていたし、これまででいちばん感動的な場面でありながら同時に、不穏な方向に進む一歩になっているのを予感させて章を閉じるのがひどく良くできていて読ませる。
目に触れたとき最低だと感じさせる物事を一切ごまかさず描くのは大江の作風なんだろうと思う。これは真似したくてもできないし、できると仮定してみても真似したくない。目を見開いて小説を書くから結果的に読む価値のある小説ができるのだろうが、そこに憧れるわけにはいかない。ただ、そっちに行くかどうかは別として指標ができたのはたしかだ。身を削りながら書いたんだろうということがわかる。その痕跡が小説の中に充満しているし、本を開いたときに対峙するような緊張感がある。
いつ見た夢か忘れたが最近の夢で「満天の星空」を見た。満天の星空というのは何かで見聞きしたとおり黒い画用紙にミルクをこぼしたように一面星で満たされているのだなと思って感心した。感動もあったが、どこかわざとらしいような不自然なところのある感動で、それがかえって満天の星空をリアルに感じさせた。満天の星空を自分はとうとう目にしたという気にさせて、目の前にある満天の星空を凝視することを回避させたので、感動に目がくらんだと言ってよかったと思う。美術館にある絵を見に行って、その絵の出来に感動するあまり途中から絵を見ていないという事態に似ていた。なにか物事に感動するとき、それを受け持つ姿勢をとることになるが、ひとたび受け取ったと認識した後、対象はどうでもよくなることがある。受け取って自分の手の中にある感動がメインになって、感動が強ければ強いほどそれだけしか見えなくなる。光量が多いあまり周囲の輪郭をぼやかす発光体のようなもので、それでもシルエットが見えているではないかと主張しようとしても、それは目の錯覚にすぎないと言われたら返す言葉を失い不安になる。そもそもシルエットは対象の良さをかなり限定的にしか表現しないということを、対象を見た後ではなおさら知っているので、それが目の錯覚であろうがそうでなかろうが、問いかけによって不安に晒され、念のため参照しようとするときにはその役を果たさない不完全な対象とならざるをえない。ここにある感動こそが本質なのだと強弁するのもむなしいことだが、しいてそのような弁解をしたい気持ちになるのは、当の感動によって気が大きくなるからだ。たとえいい加減な表現になったとしてもかまわないと思ってしまう。どのように料理されようと感動だけはフェイクにはなりえないと知っているからだ。