20230316

日記68

 

ゆるやかな坂とゆるやかなカーブとの調和

昨日
在宅仕事。筒井康隆と蓮實重彦の対談本を読む。対談や往復書簡の流儀がしっかりしていてやり取りで魅せることができる対談芸人の大御所同士の対談だけあって読み応えがあった。ふたりとも堂々として押し出しがあるので爺さんポジションが似合っているが、蓮實のほうがより長く爺さんをやっている感があり、板についた名人芸の域だとおもった。慇懃丁寧な語りが可笑しい。爆笑させてくるかと思えばその流れのままほろりとさせたりもしてくるし、まさに融通無碍だった。コース取りから何からすべてを創造していて、体操選手も真っ青なアクロバットを随所で決めつつ、きまった技を繰り出すというのに終始するのではなく見たことのない動きをやってくるので「なによりも自由」だという気がした。身体的な運動神経の発露はおのずから限界があるが、頭と口だけであれば運動神経の表現はその天井をつかわないでもいいので青天井とは言わないまでも、吹き抜けかと見紛うばかりのどこまでも高い天井でやっているため、音の響き方もホールを思わせる。形式的な宿命とたんに形式的以上の宿命のくだりが印象にのこった。その年まで生きていたらそりゃ他に載せる名前もなくなっていくんだから誌面上でかち合ってくるでしょ、とにやにやしていたらそういう話ではなく、まあそういう話ではあるんだけど、もうすこし現実感のある話をされたのできまり悪くなってしまった。爺さんはそういうことを仕掛けてくるからなと開き直って言ってしまってもいいんだけど、そうやって言うことはできても不自然でなく言うことはまあ難しい。まじめと不真面目の境界について考えた論考として蓮實本人が気に入っているという『帝国の陰謀』をつぎに読むことに決めて図書館で予約する。
周囲から期待される振る舞いを知悉しつつ、そこから抜け出して見せるというのが、曲芸的なアクロバットで見るものを楽しませるコツのようなものだ。脱出イリュージョン味がある。自分を縛る手錠や閉じ込められる箱を用意しているのは誰か。もちろんイリュージョニスト自身だ。

在宅仕事が18時半に終わってから、TCBの三人で新宿に集まり外飲みを敢行する。新宿駅南口の広場は気に入っている場所ではあるんだけど電車の音がうるさくて声が通りにくくなるという欠点があることを見つける。
それでもここから見る景色は良いのでたびたび使っている。
結局、代々木公園に桜を見に行きたいという話になり、いつものように歩き飲みになる。千駄ヶ谷から原宿を抜けて代々木公園に行ってちょっと休憩がてら座って飲み、吉野家の牛丼を食べる。竹下通りの店舗があまり良い状態ではないのか時間帯なのかわからないが、牛丼がちょっと臭った。NHKのほうに歩道橋を抜ける定番コースで渋谷まで行って、23時半ごろ帰る。19時半ごろからあるき始めたのでたっぷり4時間ちかく歩いている。いつも大体そのぐらいになるけれど結構な飲み方だと思う。ただ続けられるかぎり続けていきたい。安いし、街を歩きながらなので店で飲むよりある部分ではリッチな体験だと思う。あと安いし。
店での外飲みをしたがる人がいるというのはこのリッチ体験を追体験したいのだろう。しかし残念。彼らに移動の自由はない。ただ座るべき椅子は用意されているので一長一短といったところか。

今日
在宅仕事を今日はわりときちんとやる、つもりだったけど夕方以降に失速した。『帝国の陰謀』を予約したのに図書館に回送中だかで受け取れず、仕方ないので古本屋にいく。と、大江健三郎の『遅れてきた青年』の文庫を見つける。220円という破格で嬉しくなる。大江は『万延元年のフットボール』だけ読んでいてすごく面白いと思ったはずなのにべつの作品には手を伸ばしておらず、ほかに何があるのかタイトルも知らないぐらいで、あらすじもいつ頃書かれたものかもわからないが、遅れてきた青年という語感が今の気分に合ったのでもし3倍の値段がついていても買って帰ったと思う。図書カウンター近くのブルックリンスタイルのカフェですぐに読み始めると、中身はイメージしたものと全然違ったものの、自分の軽薄なところを度外視すれば妙にぴったりくるとも言え、最初の数ページから引き込まれた。必要ある小説だけがもつ何かがあって、それに触れているとすくなくとも触れているうちだけは背筋が伸びる感覚になる。
ブルックリンのカフェは雰囲気が良くて気に入って使いはじめようとしたのだが、カフェ席が飯席と区別されているということを知って止めにしてしまった。

これまで訃報には触れないというルールでやってきたが、90以上とかで死んだ人については触れてもいいのかなと思ったりもしてきたので近々ルールが緩和される見込み。
儀礼的な側面から止めておこうというのもあったが、より大きいのは死というものに言及したくないというのがある。そのため結局ルールが緩和されることはなかった。現実の死ほどつまらないものはない。フィクションならともかく。
あと、文体というものを無視してきたが、そろそろ取り組むべきなのかもしれない。べきというか取り組みたいと思いはじめているような気がする。文体のことを考えさえしなければ自分には文体はないで通せると思うようにしてきたがそんなことはないわけで、そんなことするのは遠回りなだけだし、遠回りは遠回りでも目的地のない遠回りという感じでただの「回り」にすぎない。
文体のことを考えないで何を考えているのかというと、こういう自己言及的な内容ばかりなわけだし、そこからストレートに文体をオブジェクトとして考えればいいだけのことだ。
でも、文体ってどう考えればいいんだ。調子を一定に保つみたいなことをイメージしているがそれで合うのか。ふらふらするならふらふらする、かっちりするならしばらくはかっちりでいく、みたいにある程度のスパンを同じような調子で書き通すということだと思っている。なので意識してそれをやる。
文体のことを考えるというのはニアリーイコール自分の使う文体を改造するということなんだと思うが、このとき自分には文体を改造するという意識はこれっぽっちもなかった。それよりは無意識に作られている自分の文体というものにライトを当てようとするのがこのとき思っていたことだと思う。結局それ自体にも進捗のようなものがあるわけではなく、ただ単に漠然と一文を引き伸ばそうとする傾向があるなと最初からわかっていたことに気づいただけだ。もっと短文を駆使していくやり方というように切り替えを意識してみても良いかもしれない。
この後新宿に『別れる決心』を見に行く。

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