20230313

日記66

一昨日

午前中はスタバに行く。午後から代々木公園にいく。下北沢の駅構内で権兵衛のおにぎりを、原宿のニューデイズでお酒を買ってピクニックスタイルで過ごす。

先週末にも代々木公園でモルックをやったし、代々木公園は春先の定番になっている。

アイルランドフェスがやっているという情報を持っていたのでNHK側に移動する。アイルランド味の薄い、しょぼいフェスだったのでぐるりと一周だけして、そのまま渋谷まで歩く。途中北谷公演で小休止、RAGTAGに寄って服を見る。PARCOからApple storeに下りていく道で彼女がiPadを買うと言い出し、本当にその場で買う。Apple storeから下った道から横断歩道を渡った先の突き当りが工事現場になっており、そのフェンスに昔彼女がデザインしたポスターが掲示されているのを見つけ、ふたりの(主に俺の)テンションが鯉のぼり式に上がる。「オシャレの中心地渋谷の街並みをクールなカラーで。」その余波で王将に行こうとするも店の前でぼーっとしていたらたちまちのうちに行列ができてしまい、高架下中華はやめにする。

下北沢のツタヤでブルージャイアントエクスプローラの6,7,8巻を買って帰る。

ブルージャイアントを読んでいると、エコーチャンバーという用語に思い当たる。エコーチャンバーとは全然違うのかもしれないが、知識や感情を新しく知るというよりはもともと自分が良いと思っている価値観をそのまま純度高く肯定してくれるようなところがこの漫画にはあって「気持ちよく」感動できる。そういうのは上手く使えれば効果的なブースターになると思うが、それだけに浸りきりになったらかえって不健全だという気がする。そういう気がしてうかうかしていられず居心地の悪さを感じるから結果的に良い漫画だとは思う。レッスン回で代役として教えた生徒たちを通してスティーブン先生と出会うシーンに、「はじめましてという気がしません」に、やっぱりグッときた。あとエコーチャンバーじゃなくてエコーチェンバーな。

おとぎ話を読んでもらうときの面白さには2種類あって、それは未知の物語を知ることと既知の物語と再会することだ。おとぎ話の受容については後者のほうが大きいのではないかと思う。自分の中にあるものと外にあって読まれるものが同じだというのを確認して安心するというのがおとぎ話の楽しみ方なのではないかと思う。正しい物語によって安心できる効果。ブルージャイアントの感動もそういうのに近い。

感動に良い感動とそうではない感動があると思っている人の意見だ。建前の上では感動に貴賎なしと言っておきたいが、実際には貴賤あるしな……という感じなのかもしれない。他人を考えの要素に含めるのであればやはり建前は重要だ。しかし、その言い方をしていたらありうべき「本音」がありそれが本質的だというミスリードにつながるのでこの言葉遣いはするべきではない。ただ単純に自分のことだけで考えるときと他人を勘定に入れて考えるときにはスタイル上の変更をきたすということで説明がつくのではないか。

寝ようと思いつつも三笘のブライトンの試合をフルで見てしまう。ブライトンはわかりやすくリスクを背負うサッカーをしていて面白い。

DFとGKを含めた最終ラインでもつなごうとするのはゲームのやり方だと思っていたがそれを現実のものにしているところに驚いた。


昨日

朝の時間は読書会。この日もみっちり2時間以上かける。空腹になったので昼すぎにピザを食べに行く。外席に座ってNYスタイルでピザを食べていると通りがかりの知り合いに声をかけられる。サウナに行ってきてこれから美容室に行くんだと教えてくれた。

まさに明るい人で、誰に対しても気後れすることとかないんだろうなと思わせる。

アンティーク雑貨屋に行く。彼女が皿を買う。薬局に寄って切れていたティッシュとついでに洗濯用洗剤の詰替え用を買う。帰って確認してみると詰め替え用の洗剤は新品がまるまる余っていた。

ストック癖は自分の生活上でわかりやすく攻撃をうけやすいポイントかもしれない。

帰宅して図書館で借りてきた『弱いロボットの思考』岡田美智男を読む。夜は日干しの骨なし冷凍縞ほっけをフライパンで蒸し焼きにしたものとオートミール粥を食べ、すこしの日本酒を飲む。

翌朝は早出なので9時過ぎ就寝目標を律儀に守り、9時半には寝てしまう。


今日

早出だったので15時半には退ける。渋谷スカイにme'の展示を見に行こうとしていたがスカイのチケットが売り切れだったので諦める。代わりに『Winny』を見に行く。あまり期待できないと思っていたので期待していなかったが、期待していなかったのは正解だった。残念。

演出がまずいので役者の演技がもったいない。それでも自走できる役者は、具体的には吹越満や皆川猿時、三浦貴大は、映画を力強く引っ張っていて存在感を示していた。自走はできないけど置き場所によっては輝く名の知れた俳優が割りを食っていたと思う。具体的には東出昌大、吉岡秀隆、吉田羊。このなかで吉田羊はとくにかわいそうで、短い出演でただ泣いていただけだが、かなりの無駄キャスティング無駄泣きだと思う。そういう賞があったら受賞するにちがいない。

社会的な意義を問い直す系の映画の責任は重い。面白くなかったりクオリティが低かったりすると、二度目の殺人のような結果になってしまう。

スタバに行って『弱いロボットの思考』を読む。

133p

では「倒れそうになる動作をむしろ歩行に生かす」とはどういうことだろう。発想のベースにあるのは、「倒れないようになんとか踏みとどまる」のが大変ならば、むしろ「倒れてしまうことを前提に、そのバランスが崩れたら、それを修復すればよいのではないか」という楽観的なスタンスであった。

地面と他者とを並置するピリオドもあって、感覚的に正しいと納得できる部分が多い。

自己完結できない倒れ込むようなコミュニケーションには身に覚えがある。そういうコミュニケーションしかやったことがないといっても全然過言ではない。教員を目指していたときには自立したとは言わないまでもある程度掴みどころを用意するコミュニケーションの必要性を感じていたと思うが、結局、それを身につけることはできなかった。面接は今でも苦手だ。

面接といえば、この前英語ではinterviewと訳されるということを知り、自分のなかで面接をインタビューと翻訳した上でそれに向けて準備するという意識でやってみればいいのではないかと思いついた。これが成功したら面接をインタビューと思うライフハックとして世に発表したい。インタビューの予定はいまのところまだないけど。

世にいう面接のことは以降面談ということにしている。受験者と試験官という立場のちがいを俺は一切許容しないことにした。その場合、面接という言葉遣いからあらためるべきだ。実質面接だったとしてもそれをこちらからは面談ということは自分のスタンスにとっては大事なことだ。

倒れ込むようなコミュニケーションに話を戻すと、文章作成も同様の進み方をすることがあり、むしろそうなってから書くスピードが上がるんだというのは覚えがあるとはいえないもののそうだろうなという気がする。この場合は書いたものにもたれかかるようにして書き継いでいくという意味らしい。自分の場合はそれを「書いたものに振り回される」と表現したことがあり、アンコントロールというニュアンスのみでそう書いたのだけど、質ではなく量書くと決めて書くような場合にはそれでわるいということはなくなるのでどんどんもたれかかって意図しないところにふらふらしながら書き継いでいけばいい。

もっと長く書こうとすると、一文の長さがどんどん長くなる。そういうことじゃないんだよ。まあそれでもいいんだけど、饒舌になるというのは、ドリブル試行の回数を増やすことであって一階のドリブルの距離を長くすることではない。まあそれもあるんだけど、それはドリブル距離を伸ばすための方法のひとつにすぎない。しかもあまり効率的なやり方ではない。

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