昨日
スタバの後さすがに酒のんで帰る。ビレバンでブルージャイアント買おうと思うも置いていなかったので蔦屋で5巻まで買う。帰って読むと4巻までは読んでいたことがわかる。しかし今読んでよかったと思えるので結果オーライ。いつ読んでも今読んでよかったと思える疑惑があるけど。
一応プランクもする。一応というのは180秒一気にではなく60秒×3セットにしたから。だいぶイージーになったので追加でもう60秒。
彼女のpixel6aの設定が押して寝るのが遅くなる。1時過ぎに就寝。
今日
在宅仕事。集中してやれば1時間半で終わる仕事をだらだら7時間かけてやる癖が発動。1時間半で終わらせた後勉強するのがベストなんだけど、勉強するのも面倒なのでだらだらオーディブル聞きながら仕事しているふりをする。しかしオーディブルのほうに集中できるほど無になれる作業でもないので結局どっちつかずになってしまう。レイモンド・チャンドラー『高い窓』は読みやすいというか聞きやすいのでぎりぎり何とかなる。聞いているうちに誰かが誰かに殺された。何のことかわからないし全然何とかなっていないのかもしれない。誰に殺されたのかは謎だけど、誰が殺されたのかは謎ではないはず。ちなみに朗読サービスは図書館で借りれた芥川龍之介の河童(c.v橋爪功)がベスト。江守徹の中島敦『山月記』もだいぶ良かった。日下武史の漱石『硝子戸の中』も。オーディブルはイントネーションも完璧とはいかず数勝負という感じがある。
スタバにいってドリップコーヒーをたのむ。夕方までに一日分の紅茶はすでに飲んでいたし、さすがに摂取カフェインが多い。
隣の席の女子高校生だか大学生の二人組が予定にどの男を誘うかの打ち合わせをしている。決まったらその場ですぐに連絡し、しばらくしたら「来るって」と報告していた。スピード感がある。ひとりはなんか言うときに指パッチンをする癖があってべつにいいんだけどちょっと気になる。いつもするわけではなくしないときもあるのがまた。
飲むときの話とかしているので高校生の線は消えた。最近高校生は中学生にみえるし、大学生は高校生にみえるのだけど、年齢がいくとそうなるのか、実際に見た目があれしているのか、どっちなんだろうか。べつにどっちでもいいが。
小説を書かなければという謎の使命感と久しぶりのカフェインとが相互に作用して、下の文章を書かせた。
情報ハムレット
通称:情ハム
ミュートのまま5分ぐらい喋っていた。
だれか教えてくれよと思う。無理な話ではあるんだけどそう思うことは止められない。逆ギレというと激しい反撃のニュアンスが伴うので、そこまでいかないのは当然だとしても、自分がわるいしそれを認めるのにもかかわらず、心情的には反感をおぼえるという状況は普通によくあると思う。普通によくあるのにそれを言い表す言葉がないというのははっきり言ってチャンスなのだが、こういう場合によくあるのは、そういう言葉がすでに存在していて、それを自分が知らないというケースだ。そうやって悔しさの上塗りをするのも癪なので反動思考もいい加減にしておく。ミュートを解除し、何食わぬ顔で5分前と同じことをリピートする。
0か1か、それが問題だ。
情報社会とは言っても、煎じ詰めると、やり取りされるのは0か1どちらかの信号でしかない。さまざまなプロトコルでがちがちに構築されたデータ通信も、一枚一枚ヴェールを剥がす手間を惜しみさえしなければ0か1かにたどり着く。
途中、暗号化という謎掛けをされることもしばしばではある。だが、その謎にしても解読できないというところにしかない。鍵があってそれによって解読されるということがわかっていれば同上である。
これらはすべて古典の話である。今は0と1のそれぞれにグラデーションがある。文字通り”無数の”グラデーションで、弱い1、もっと弱い1、それよりは弱くないもののやはり弱い1というように、0か1かとばかりは言っていられない状況にある。もちろん弱い0や強い0もある。昔の人は知っていなかっただろうと思われる0があって、今の人たちのあいだではそのことは常識になっている。ただし、当然そんなグラデーションを扱うのは人間の手に余ることである。グラデーションを計測する専用の機械がその任にあたっている。つまり状況を簡単に説明するとこういうことになる。われわれには知ってはいるけれどわかっていない事柄があり、それがこの社会を動かしている。
システムがどういう仕組みで動いているのかを人間にもわかる言語で説明するシステムもある。専門的には「翻訳システム」とよばれているが、可逆性はなく、翻訳された言語を再度システムの側に流し込んでもエラーを返すだけである。システムに言語をインストールしている場合には自動的に再翻訳し、もとに戻すことはできる。この場合、言語はひとつの暗号鍵の役割を果たしているといえる。
ここから導出される結論は「システムはいい加減な説明をしている」というものであり、そのことで腹を立てる人間は一定数いるものの、大半は仕方ないことだと考えており、有り体に言って受け入れムードである。言語の側、あるいは人間の理解の側に問題があり(問題というのは先天的機能不全のことだ)、それにもかかわらず伝達しようと頭を悩ましたシステムの側で、なんとかひねり出した説明形式ということになる。腹を立てて破れかぶれになった一定数の人間はそれをマキグソと呼ぶのだが、一般にそれはシステミ(systemi)と呼ばれることになった。
システミ systemi
システミの見分け方は簡単で、それが怪文書であるかどうかである。怪文書と呼べるかどうか、それがリトマス試験紙の見分け方になっている。読んでみると書かれてある内容は理解できるのに、内容の中身が理解できないというのがここでの怪文書である。よくある間違いとしては内容そのものが理解できないように構成された文書を怪文書と捉えることが挙げられる。
やがて暇な人間は、自分たちの手で擬システミを書き上げようとした。システミの「理解できるのにわからない」という特徴に面白みを感じ、それを制作したいと考えたのである。人間の制作した擬システミの完成度を計測するシステムもすぐに開発され、これで遊んでいろと砂場とスコップを渡されたかたちの彼らは、おとなしく、それでも彼らなりには過激に、擬システミの作成に奔走した。
優れた点数が付けられる文章を探してきて計測システムに通してみる遊びも発明された。しかし、全文書アーカイブを計測システムに通して上から順に点数をつけるシステムがすぐにあてがわれ、遊びはすぐに終息した。そのことで既存の文書の可能性はすべてが明らかになるというかたちで絶たれ、新しく文書を作る以外の遊び方はできなくなった。
擬システミは、それが未完であれば高い点数が付けられる傾向がある。そこに目をつけ、わざと未完の作を提出するものが現れたが、その場合には点数はあまり捗々しくなかった。制作者の不慮の死によって途中で終わってしまった未完の作は、同じ制作者による他の文書よりも高い点数がつけられることが多かった。そのことで結果的に彼らは、少なくとも点数の観点からは希望を持って制作できることになった。自己ベストは自らの死後更新できるという見込みは、彼らの薄暗い人生観を仄明るくした。
ロッドとは
パーマをかけるための器具を髪の毛に巻きつけたまま長いエスカレーターを降りていく女の人を見た。エスカレーターを降りるということはコンコースに向かっているということであり、それは彼女が電車に乗り込もうとしているということを意味していた。急いで美容室を飛び出したのではないことは、彼女がエスカレーターを歩くという禁を犯していないことからもうかがえた。ベルトに左手を乗せ、目線はまっすぐ前より少し下に固定されており、おかしな様子は見受けられなかった。格好も20代後半の女がこのあたりでよくする服装から逸脱しているわけではなく、頭をのぞけば何もおかしなところはなかった。しかしパーマを掛けるための器具一点だけが奇妙で、彼女の落ち着いている様子がかえって好奇心を掻き立てた。これほどまできれいに普通が奇妙に反転する例をすぐには思いつけない。
たまらず検索したところ、今春から始まりつつある新たな流行のヘアスタイルなのだということがわかった。反転した奇妙はもう一回転して、もとの普通へと戻っていった。
しかし、それからしばらく経って気づいたのだが、それ以降一度も外出先でそのヘアスタイルを見ることはなかった。そのことに気づいてたまらず検索したところ、その奇妙なヘアスタイルの情報は見つけられなかった。そもそも何と検索すればいいのかもわからない。あのとき長いエスカレーターを降りながらどうやって検索したのか思い出せないし、ひょっとするとあれは夢なのではないかと思い始めた。しかし、どう思い返しても夢だったという気がしない。ただ、寒い日だったから季節は冬だとしても、あの日私は電車に乗ってどこに向かっていたのだったか、それを思い出せない。
私には日常的に写真を撮る習慣がある。また、位置情報を記録するデバイスをつねに身につけている。仕事以外で電車に乗って出かけた日というだけで、それなりに候補をしぼれるし、候補日の写真を見ているとなんとなく一日の過ごし方を思い出せることも多い。2月9日か、2月15日のふたつの候補にまでしぼることができた。その日の検索履歴を確認する。2月15日はそもそも検索をしておらず、結果、2月9日がイベントの日ということになった。検索履歴のなかにそれらしいものがあった。
【ロッド ファッション】
ロッドというのは調べてみると「パーマをかける際に髪の毛を巻く、プラスチックなどでできた筒状の用具」だという。私は、今このときにも「ロッド」という単語を知らなかった。だが検索履歴には「ロッド」という単語が使われている。そのことを不思議に思っていると、だんだんと、その日私はひとりで行動していたのではなかったという記憶がうっすら浮かび上がってきた。誰と一緒だったかということは思い出せず、誰かと一緒だった気がするというところまでしか思い出せない。
私はいくらお酒を飲んでも記憶を失ったことがなく、酔って記憶をなくすという経験に憧れを抱いていたぐらい、記憶については確かである、はずだった。しかし、実際には、その日なぜかひとりで行動していたと思い込んでいたし、今も誰かと一緒にいた気がするという不確かな状況しか思い出せない。そもそもなぜ電車に乗ったのか、どこに向かっていたのだったか、これらすべてが全然思い出せないという事態を目の当たりにして、私の記憶にはぽっかりと穴が空いているということに気がついた。おそらくは、ついに、やっと、とうとう気がついたのだろう。起きた瞬間に見ていた夢のことをまったく思い出せなくなるあの感触が寝る前から現前している。置かれている状況からすると、もうすこし途方に暮れてみても良さそうなものなのに、現実感のなさと私の知らない私の存在の予感とに、そしてこの私のものにほかならない好奇心によって、随分わくわくしている。少なくとも今このときまでは。