ほとんど毎日ペースでスタバにはお世話になっているが、地下席のあるスタバ(通称クラシックスタバ)は、一週間のうち一日ぐらいしか行かない。それもエキウエのほうが満席で座れなかったときの代替案だ。通うにあたっては何よりもまず距離の問題が大きいということの証左だと思う。ジムなんかも施設の充実度より生活動線上にあるかどうかを最優先にするのが良い。
NEATのパンツをおろす。去年、グレーブルーの色味がきれいで一目惚れして買ったはいいが、合わせるのが難しくて全然履けていない。そういう難しいアイテムがちょっとずつ増えていっている。クローゼットの前で頭悩ませるけれど心強い感じがする。今日もあったけど好きなもの同士を組み合わせてもうまくいかないときはどちらかを引かなければならない。たくさん仲間になる系のRPGでパーティメンバーに頭悩ませるときの感覚に近い。好きだけを優先した無茶なメンバーにしてみたい欲求もあるが、せっかく好きな服を着ているのにそれを着てテンションが上がらない事態はまあまあの悲劇なので、冷静になって上着をクローゼットに戻した。
このパンツは本当に履いていない。そのうえもう一本履かないパンツを買ってしまって我ながら愚かだと思う。
昨日は酒を飲まないで帰ったのでアルコール中毒ではないのを自分に証明できた。ただしプランクをやらなかったのでプラマイゼロ。今日はさすがに飲んで帰ると思うが、その代わりプランクはやろう。
去年の冬前からだったか、カフェインを抑えるという試みをしていてそれがずっと続いている。スタバにきても基本はティーで、今日はカフェイン摂りたいなという気分のときだけカフェラテを飲んでいる。有無を言わせずドリップコーヒーだった頃がすこし懐かしい。書こうとしているわけだからコーヒーを飲む生活に戻してもいいかと思っている。さすがにもうカフェイン中毒を治す実験は成功したと考えていいだろうし。
カフェイン断ちの期間はもう終わっている。とはいえ一日の摂取量はスタバのショートドリップ程度なので経度の依存に抑えられている。それよりもアルコールのほうがきつい。あとは体感でもっときついのは運動不足。
そういえば昨日ネットニュースで流れてきたニコボのことをずっと考えている。弱いロボットというコンセプトはくるのではないか。言おうと思えばいろいろ言えるだろうけど、感情を持っていかれているというのが大きい。
弱いロボットの良さは弱いところにある。ロボットに背負わせるのにこれほど適した特徴はないのではないか。人間は保護欲求をある程度満たされると、自分が被保護対象になるとしてもそのことによる不満はかなり低減されるような気がする。AIなどの知で人間をサポートさせるためのボトルネックになっているのはもはやAIの性能ではなく、サポートされる側の感情なのだろうから、それをケアする体制として弱いロボットという概念は今の状況にスポッと嵌るような気がする。
たとえばうちのルンバなどはわりと旧式の型番で、きっちり掃除するということはそこまで期待できない状況になっていることに気づいて久しいが、だから買い換えようというよりはむしろ個体としての愛着が湧くフェーズに入っている。ある程度はルンバにやってもらって、ちゃんとした掃除は自分たちですればいいか、というのは少なくともルンバを導入したときの感覚ではない。
ところで、こういうことを考えるのはNetflixで『PLUTO』がアニメ化されるニュースを知ったからでもある。なんだかタイミングが良い。これはニコボのメーカーが『PLUTO』放送のタイミングをはかって発売することを発表したのだろうかと最初は考えて、そうならとてもクレバーだなと思ったりしたのだが、もうひとつの可能性としては、検索エンジンで『PLUTO』を再生したことで、誰かがこういうのもありますよとさりげなくニュースをサジェストした結果、たまたま(のように演出されて)ニコボにたどり着いたというものがあり、もしそうだとすると導線・結果ともに申し分なく、『PLUTO』を読んでいるときに近未来だったものと現在がすでにつながっているような感慨をおぼえる。あまりの見事さにニコボを購入しようかなと本気で検討しはじめたぐらいだ。
結局、いっしょにPLUTOを見ることになったんだから面白い。しかもPLUTOを見たときの反応というのはこのときには想像することさえできなかった。今から見てもこのときのビジョンはクリアだったと思うが、ビジョンを実現した後のリアルにはその先がある。
ニコボの機能で良いなと思うのは、自分では移動できないが移動したことはわかるというところだ。それによって部屋の中を連れ回したくなるのは明らかだが、ルンバに押されるニコボを想像しただけで、その光景がかわいすぎて顔が綻んでしまう。押されるニコボももちろんかわいいし、仕事熱心なあまりニコボを押すルンバもかわいい。両者かわいいというのが味噌で、相乗効果というのはこういうときに使う言葉だと思う。
幸か不幸かこのビジョンはまだ実現していない。Bに対してルンバがあまりにも凶暴そうに見えるのでとてもじゃないがその絵を見ようという気になれない。
↑2023年5月からメーカーに売られることになるニコボ
↑型落ちになったが元気に部屋を掃除してくれているルンバ641
最近、服やら何やら、お金を使って何かを買うことで楽しみや満足を得ているような気がして、楽しいし満足はあるんだけどやっぱり馬鹿らしいなと思う。
この前なんか「有名人の2022年ベストバイ」みたいな記事をとくに何も思わず、へえー、すげー、かっこいいなーとか言いながら面白く読んでいて、昔の自分だったらもっと反感を持っていたはずなのに、あの気持ちはどこに行ったのかと不思議な感じがする。
まあ、当時は自分の好きに使えるお金が今よりもっと全然なかったから。そういう反感おぼえてもまあしょうがなかった。でもあのとき軽薄だとかそんなものつまらないと思っていたのは半分当たっていると思う。好きな服を買ったり美味しいものを食べたり、ちょっとは良いんだけど、ちょっとしか良くはない。もっと図書館で借りた本読んだほうが絶対良い。間違いない。ただちょっと良いことをするのはわりとラクだし、それなりに満足も得られる。もっとそれがやりたいの度合いを増やせればいいんだけど、手に入るものはどこまでいっても手に入るものでしかないので自ずから限界がありむずかしい。ここは一発あほらしいお金の使い方をして溜飲を下げようかという結論に流れていきやすい。それはそれでもうすこしすぐのところに限度があるんだけど。使えるお金は使える分しかない。
すこしのお金でやっていける能力をこれ以上鈍麻させないようにしたい。