20230330

日記79

 

無料ライブ(弾き語り)

昨日

カフェからの帰り道にスーパーで買い物をする。レシートの当たりクーポンでキリン一番搾りとスプリングバレーの100円引きと50円引きが当たる。カフェでの進捗もそれなりにあり気分も良かったし、さすがに飲んで帰ってもいいような空気が充満していたが、逆に飲まずに帰ろうと、反骨精神の残響が鳴り響いた結果、ただ音楽を聞いて帰ることにした。tofubeatsとSTUTSの『One』がこの日の帰り道に最高のBGMだった。このことと関係ないが、昨日か一昨日かに、結局一番搾りのビールが一番うまいんだよなといいながら鮮やかな金色の液体を舐めるように見つめつつゴクリと飲む夢を見たのを、一番搾りを買いながら思い出していた。それでも飲まなかったのだから、我ながらどうかしている。我ながらというか、完全に自分以外知らない知る由もないどうかしているだけど。

えらい。しかしただえらいといって感心していてもしょうがないのでここから今の体たらくを矯正するための方策を導き出そうとするとすれば、どちらを選んでもいいというときには自分は選びたい方を選ぶ、それが自由の表現だと考えるからだ。しかし、片方を選ぶのが当然と思われるときには、その当然に反抗してもう一方を選ぼうとする。それが自由の表現だと考えるからだ。つまり、酒を飲まないという方向づけをするためには、酒を飲むのが当然という状況を作り出すことが効果的だということになる。

とはいえ現実的には四六時中反抗していられるわけもなし、結局よくて五回に一回は反抗を見せるという結果になるだけで、のこりの四回を防ぐ手立てはない。

帰宅後インスタのハッシュタグについてアドバイスを受け、#tokyocool以外に何が良いか検討した。そんなことをしているうちに眠る機会を失い、ベッドに入ったのが23時半だったのに1時過ぎの就寝になってしまった。


今日

在宅仕事。3,4日ぶりに天気が良い日だった。嬉しくなって洗濯機を二度回す。窓を全開に開け放ち、日を受けながら洗濯物を干すのがまぎれもなく楽しかった。BGMはSTUTSのUNIQLOコラボ『音楽が生まれる時間のリズム』。これはちょうど30分間あって軽作業時のBGMにとくにおすすめ。それにしても、3回目洗濯機を回したくなるほどの春の陽気だった。ベランダに洗濯物を干すスペースが余っていなかったので断念。

洗濯物を干すという作業が嫌いではないのは、それが太陽の恩恵をわかりやすく受けようとする行為だからだ。太陽に感謝するというのは大層なことのようで、エレメンタルなとはいえまるで宗教じみているように感じられる言明だが、洗濯物を干すという作業においては主に実務的な面で太陽のありがたみを直接的にかつ自然に受け取ることができることなので、余計な引っ掛かりも、若干の白々しさの混じる「いい天気」というセリフとは無関係に実利としての太陽エネルギーを受け取れるから、素直にありがたいという気持ちになれて良いというのがある。この日から一年後の今日も洗濯物を干した。今日から一年後も天気さえ良ければたぶん洗濯物を干すだろう。

17時半の終業後に飛び出しでカフェに行く。食事とカフェの両方を提供している店なのだが、どうやらカフェ利用のための席が入口付近の数席しかないらしく、席が埋まっていたので回れ右して帰る。せっかく良い店を見つけたと思っていたのに残念だ。NY好きにとって居心地が良いことには変わりないので空いているときを見計らって使っていきたい。若干、というかかなりBGM音量が大きいことが気になるけど。しかもカフェ席のほうでガンガン鳴っている。ノイズキャンセルのヘッドフォンを突き抜けてBeat Itが聴こえてくるレベル。

安定のバックスにやってくる。この日は駅上の店舗にした。『芽むしり仔撃ち』と『他人の足』を読む。芽むしり仔撃ちの弟がやばい。このシチュエーションでこの弟を出す作者は意地悪すぎると思う。

ある時期の兄から見た弟というのはほとんど純然たる無垢の象徴なのだが、この本のこの場面でそれを登場させるということは、これから生贄になる娘の美しさを描写するような残酷さがあるという意味で、意地悪すぎると書いたのだった。上の言い方では何のことわからない。ネタバレに配慮するという規範意識と、かんたんに短く示唆するにとどめておきたいという物臭が配合された結果、あとから見て何のことなのかわかりにくい文章が置かれることになったようだ。

20230329

蟻を殺していった話

 蟻を殺していった話


マンションには公園が敷設されていた。ブランコ、滑り台、ベンチがある公園で、小学校を卒業するまではいつもそこで遊んだ。

小学校に入学する前、幼稚園に通っていた頃、滑り台のそばにある砂場でよく砂遊びをしていた。最初無目的に大きな山を作って、その山がだんだん大きくなっていく。そうすると誰かがトンネルを掘り始める。それを合図に向かい側からもトンネルを掘る。その頃にはだいぶ山が大きくなっているので身体をずらさないと屈んで作業している相手の姿が見えない。それでもトンネルを掘り始めたことは気配でわかる。こちらでは一生懸命に山を大きくしようと働いているのに、向こう側では手を止めているのがわかるからだ。だがもちろん、彼は手を止めているのではない。私たちは砂遊びをするときには信じられないほど勤勉だった。当時、サボるという発想など思い浮かびもしなかった。せっせと山を高くすることは、それがそのまま生の喜びだったのだ。となると、手を止めている理由はひとつしかない。高くするという目的をべつの目的に切り替えたのだ。こちらに断りなく黙って目的の切り替えをすることを咎めるわけにはいかない。昨日はこの自分が抜け駆けをしたのだったから。一昨日はどうだったか覚えていないが、順番で言うと向こうが抜け駆けをしたのだろう。

トンネルを掘り始めると、それまでのルールも変われば行動様式も変わる。ダイナミックさ・スピード重視でなくなり、より慎重で繊細な作業が要請されるようになる。しかし、私はそれまでの山作りの余勢を借りて、トンネル掘りの最初期には豪快に穴を掘ったものだった。それで失敗することが目に見えていたとしても、自分の行動によって失敗する分には失敗しても笑っていられた。私が楽しそうに笑ったら相手も笑った。それをひとつも不思議なことだと思わず、私は好き勝手に振る舞っていた。

しかし、同じ失敗を繰り返すとだんだん面白くなくなってくる。笑えないことをやる意味はないので、豪快さを維持しつつもべつの実践的な方法を考えつき、失敗を減らす必要が生じてきた。そこで考えついたのは豪快に掘り進めるときに、相手のいる方に向かって掘るのではなく、下に向かって掘るというやり方だった。穴から掘り出した土塊をそのまま山を高めるために用立てられるのも、いかにも一石二鳥という感じがして賢い気分を味わえた。私が発明したやり方はスタンダードになりセオリーになった。多くの量を掘りながらできるだけトンネルの開通を遅らせるのがこの遊びを存分に遊ぶための要諦だと、砂遊びを十分な回数遊んだ私たちは気づいていたのだ。たっぷり時間をかけて、いよいよ開通するというときの盛り上がり。水を使って開通をドラマチックなものにするという工夫を思いついた後にも、盛り上がりの根本にはいよいよ完成することへの予期とその共有があった。

ある日、砂場に蟻が出た日があった。いきなり蟻が出たのではないはずだが、あたかも蟻が湧き出たかのように、砂場に蟻がいることに突然気がついた日があった。友人のなかの猟奇的なひとりがおもむろに蟻を潰し始めた。

彼は穴を掘るときと変わらぬ自然な手付きで素手で蟻を潰していった。そこから、その日の遊びのルールは誰が一番多く蟻を潰せるかというものになった。遊びのルール変更について融通がきくこと、それはつねに私たちの遊びにおける美徳だったように思う。鬼ごっこのルールなど、誰かが新しいものを持ってきたらとりあえずその新しいやり方でやってみて、新しい動き方を楽しんでいた。

私は蟻を潰すことを一瞬躊躇した。手で潰すことは不可能に思われた。気色が悪いからだ。

もっとも仲の良い友人は勇敢にも手で蟻を潰し始めた。彼の手の下で蟻はつぎつぎにびりびり震えていった。私は足を振り上げて力いっぱい蟻を踏み潰した。容赦なく踏み潰すという印象を与えられるようにことさら膝を高く上げたり、わざわざ助走をつけてまで高く跳びあがってみせ、一疋の蟻を踏み潰した。ただ踏み潰すだけでは手で潰す勢に勝てないと感じたのだろう、踏みつけにしたあとに踏みにじって、蟻の身体をばらばらにしたうえ、運動靴を硬いコンクリートに擦りつけて蟻の残骸を一箇所に集め、得意になってその黒い点を指差した。

みんなが蟻を潰すゲームに飽きて家に帰っていった後も、私は執拗に蟻を踏み潰し続けた。膝を高く上げ、ジャンプして、全体重を踏みつける靴に集めた。その日、日が暮れるまで蟻を踏み潰し続け、一生分の蟻潰しゲームを楽しんだ。当時私は自分の残虐性を友人たちに誇示する必要を感じていた。手で蟻を潰せないことが後ろめたかったから、執拗に潰すことで、蟻の生命を執拗に奪い続けることで、何度も何度も繰り返し蟻を殺すことでその穴埋めをしたのだった。

帰る時間になり、友人たちが先にエレベータに乗りにいった後にもひとり蟻を殺し続けたのはなぜなのか、当時の私にはわかるべくもなかったが、今もなぜなのか明確な答えがあるわけではない。日没後暗くなっていく空を背にしてそういうテンションにはまり込んでいったのか、先に殺した蟻への供養のつもりで後の蟻を殺し、その蟻の魂を鎮めるために次の蟻を踏み潰したのか。それともこのゲームに徹底的に飽きる必要を感じたのか、確かなことはわからない。ただ、その日以降一度も蟻を潰すゲームはやらなかった。そのゲームをやっても笑えないし、面白くないと気づいたからだ。

その後、私たちは何かゲームを思いついては始め、そのたびに蟻を踏み潰すような愚行を繰り返した。新しいゲームを発見しそれに熱中するたび、毎回、すこしだけ歯止めが効かなくなった。愚行を繰り返す喜びが溢れてどうしようもなくなる瞬間がそのたびに押し寄せたからだ。ほんの短い時間にすぎないにせよ、愚かさをあえて実行する自分自身に笑っていられたからだ。私たちはいつもマンションの下の公園で遊んでいた。さも楽しそうに私が笑うと皆も笑った。

日記78

 

どっしり構えるのが大事

昨日

ブルックリンのあと2日連続で酒を飲まずに帰る。睡眠時間の確保のため23時には床につき。

寝ているときに掛け布団がはだけており寒さを感じる。そのせいで明け方に目覚めた。そのとき集団でプールに入る夢を見た。中学時代の友人たちと、べつの中学と合同でのプール演習に参加する。泳げるようなスペースはなく、水の色は濃い青緑、流れるプールの陰気なバージョンを歩くだけのよくわからないプール演習。遊泳ではなく別の目的があるかのようにも思える。友人のひとり[ぐっち]の名前を大きな声で呼んでからプールに入る。返事はなく、皆がどこにいるのかわからず、周りには知らない人だらけで心細いと感じる。


今日

在宅仕事。一応CCNPの勉強をする。生きるモチベーションが上がった反響から資格試験へのモチベーションが下がっている。資格試験の勉強なんてやってる場合じゃない。そんな時間があったら少しでも小説を読み進めたい。と、思いつつ仕事中には十分な集中ができないので小説は読めない。

仕事後にブルックリンにいく。雨がふりはじめそうな天気だったがギリギリ間に合い降られずにすむ。

『芽むしり仔撃ち』を読む。『遅れてきた青年』では省略された感化院での生活を重点的に描いた作品のように思える。もちろん違いはあるが、もっとも大きな違いはそこに弟が参加していること。不安だ。2章まで読んだ。疫病が流行り始めている兆候があり、そんななかで村の子供達にはさせない仕事を主人公たち感化院の子らが担わされている。弟は無垢な好奇心の塊のように描かれている。不安だ。


顎を突き出して歩く人は何を考えてそうやって歩いているのだろうか。気を張って歩くときに無意識に顎が突き出るというのが答えという気がするが、それは単純に見すぎだろうか。仮に正解だとした場合、気を張りすぎるあまり気が回っていないということになる。いわゆるおしゃれな場所でそういう人をよく見るので、しゃれた場所でリラックスできない人が気を張ってしまっているということだろう。洗練された場所で気後れを感じることはほとんどなく、むしろ洗練されていればいるほど居やすさを感じるので、そういう人の気持ちはわかってあげられないが、場に負けまいとする気概は感じられる。もちろん、洗練されているときでも方向が合わないということはある。そういうときには気詰まりに感じることはあれど負けまいとすることはない。自分はそういうときにはうつむきがちに歩く。顎を突き出している人は上を向いて歩いているので向上心や負けん気があるように見える。

おしゃれな場所には敗者を巧みに隠そうとする力学がはたらくもので、敗者はどこにもいないかのような空間演出に余念がない。そしてそのおかげで実際に「負け」が存在しないように見え、それがその場の洗練の度合いを確かにする。唯一、彼らの突き出した顎だけがその優しい空気を切り裂き、協力して醸そうとする甘い雰囲気を打ち壊す。偽善だ!とうわずった声で叫ぶ高校時代のクラスメイトに似ている。この世界は決して甘くなどなく、われわれは不断の闘争の過程にあり続ける、というステートメントを発表する行動主義者のようだ。彼らは打ち克とうとする。そしていつかは実際に打ち克つだろう。虚偽や虚飾の渦巻く場所では負けているように見えようと、現実という場所で最後に打ち克つのは、負けそうなときにも闘争心を失わない彼らのほうである。いくら負けているように見えようとも委細気にせず闘いを挑むことで相手を屈服させることに成功するだろう。彼らが前に出た分だけ相手は後ろに下がるからだ。

ひとりが顎を突き出して足早に向かってくる。もうひとりはその人に道を譲る。それがいつでもどんなカフェでも起こっていることである。

20230328

【Tokyo Cool Boys】上から目線で写真日記



Tokyo Cool Boysというユニットで活動をしている。
主な活動内容はメンバーで東京のどこかに集まり、
散歩と称して街歩きか飲酒、またはその両方を行うことだ。
それ以外の活動として、メンバー誰かの家に行き、
ラジオ番組と称してお喋りをインターネットに公開することもある。

2022年の活動実績として、
散歩はそれなりの回数実施した。しかし、
ラジオ番組は満足に実施できなかった。

Tokyo Cool Boysの公式プロフィールでは、
「中央線系人文ユニット」ということになっている。

ところが2022年中頃、メンバーのひとりが転居し、
武蔵野市(吉祥寺)から転出した。
これまではメンバーの家に行くためには、
ただ一本の電車に乗ればいいだけだったのが
引っ越し以降、電車の乗り換えが必要になった。
そのことでお互いの家への行き来が疎になり、
結果としてラジオ番組の回数が減少した。
Tokyo Cool Boysの活動は散歩だけになった。

散歩家には説明するまでもないことだが、
散歩はすばらしい。
娯楽として無限のポテンシャルを秘めている。
しかも東京の街はひとつひとつが距離的に近く、
ちょっと歩けば別の駅にたどり着ける。
巨大ターミナル駅からべつの巨大ターミナル駅まで
普通に歩いていける。
道すがらも色々な店舗があったり、
色んな人が歩いているのとすれ違ったりできる。

一応田舎の人に説明しておくと、
ポケモンGOやドラクエウォークのような
色とりどりの楽しみがスマートフォン画面を通さず
直接に、顔を上げた状態で享受できるのだ。
疲れたら適当にたどりついた駅から帰れば良い。
電車に乗ると目的地にすぐ着くというプチ感動を味わえる。
電車移動、それはまるでゲームのファストトラベルだ。

散歩の話が長くなったが、
話をもとに戻すと、
ラジオ活動ができなくなった今、なにか形に残るかたちで、
新たなTCBの活動を始めたいと考えていた。

そこで「TCB写真部」を始めることにした。

「TCB写真部」を始めることにした
活動場所はインスタグラムが適当だと思われたので、
とりあえずインスタグラムで始めることにした。
しかし、ただやるのでは面白くない。
そこで簡単なルールを設けることにした。

一日一回一投稿する
#tokyocoolというタグを付ける
可能なかぎりクールな写真をあげる

ルールはこの3つだけだ。
はじめてからまだ2週間そこそこだが、
毎日写真を上げるだけのことがそれなりに面白い。
ただ、残念なことに、
現時点でのメンバーの参加率はそこまで高くない。

そこでTCB写真部への参加は【自由】ということにする。
参加自由。
それは部員をTCBのメンバーに限らないということだ。

ちなみに活動場所も東京に限定しない。
ニューヨークでも、ニューデリーでも、メルボルンでも
上海でもロンドンでもミラノでもかまわない。
上に掲げた3つのルールを守って投稿してもらえれば
そのときからあなたもTCB写真部の仲間入りだ。

生活に張り合いを求めたいが、
しんどい思いはしたくない、
そんな精神的暇人の参加を待つ。

とくに連絡等いらないので
勝手に上記ルールを守って
インスタグラムアカウントを作成し
写真日記をはじめてください。

皆さん!
精神的暇人の皆さん!
自分では何も始められないのに
退屈だけは一丁前に感じる
「都会人」の皆さん!


日記77

 

道端の公園

昨日

スタバに行った帰り道で酒を飲まなかった。帰ってそのまま寝たので一週間以上ぶりにアルコールを摂らない日ができた。アルコールを必要とするような生活をしていないのにアルコールを摂りたくなるのは変だし、動機もろもろを顧慮するに必ずしも享楽のためでなく惰性でしかないような気がするので一旦停止してみることにする。

この試みは長い中断を挟んで何度か施行されることになる。一年後のこっちでもそろそろ中断を中止しないと。

NHKのサイエンス番組で家畜の話をしていたので興味を持って見ていると、人間も自身を自己家畜化してきたという話になった。そこで頭蓋骨の額部分が出っ張っている人と出っ張っていない人との比較がされており、類人猿に近いのが出っ張っている人だと言っていた。別のことをしながら流し見程度に見ていたので詳細はわからないしどこまで信憑性があるのか不明だけど(頭蓋骨の形とか言っているのを聞くと「骨相学」を思い出すし、そうすると『ジャンゴ』に登場した魅力的であるが完全な敵役のディカプリオのことをイメージするので自動的に眉に唾することになる)、私は額の目の上の部分が出っ張っているので気になってしまった。家畜化されていない動物は自分に何かが近づいてきたときにストレスから攻撃的な反応をしてしまうらしく、それによって群れでの生活ができないという性質があるのだという。

それらを受けて私が思ったのは、私が人前に立ったとき、勝手に頭が痺れて緊張してしまうのは、ある種の生理的反応なのかもしれないということだ。こういう知見について、人間一般には百歩譲ってあてはまる部分があると考えられるにしても、個人には無関係だと思いたがる傾向が私個人にはある。だから眉に唾するのだけど、眉に唾しつつも、この意見は自分に都合良いということを嗅ぎ取って、つまり言い訳に使えることを察して、頭の片隅に残していきそうな気がする。私の父親もおそらく私に似て、額が出っ張っているし、そのせいでかはわからないが人前で緊張するタイプだと思う。私の母親は私の母親で神経質なところがある。私にもかつては神経質なところがあった。いろいろあったおかげで今や神経質なところはかなりの程度払拭できたと思うが、人前での緊張は全然克服できていない。他人を敵視してしまうというか、他人の視線を敵視と感じてしまうのだ。頭ではそんなのおかしいと思うのに、自分に起こっている反応を振り返ると、そういう敵対関係を感じとっているとしか思えない。

自分の性格や性質を自分のネイチャーだとするのが自分は嫌だ。それとはべつの考え方を採用したい。ガムのようにどうにでも変化できると思いたい。人前に立つ機会があるたび、できていないことは毎回これ以上ないほどの明るさで明らかになるのだが、それでも頑固に変化できると思い続けたい。その頑固さが私のネイチャーだとすればとりあえずそれだけを受け入れる準備はある。

緊張については、ちょうど去年の今頃、もうすこし手前の演劇祭出演頃からすこしずつマシになってきている。少なくともどんどんひどくなる時期はとっくに過ぎていてゆるやかにではあるが下降線を描き始められたのかもしれない。自分の発言前になるとまだビリビリするし、一〇〇だったものが九十九、九十八になったぐらいの変化でしかないが、それでも自分の緊張の総量が無限大のように思えていた頃からすると大幅な進歩だといえる。


今日

在宅仕事。『月と散文』を読み終わる。最近はおやつの時間に3分間だけだけスクワット運動をやり始め、この日はその三日目だった。3分間しかやらないのにしっかり息が上がるからスクワット運動とさいきんの運動不足はすごい。

運動をやっていてえらい。一年後の今、運動はラジオ体操さえしておらず、週に何度か一万歩ぐらい歩く以外は皆無だ。

『死者の奢り』を読む。大江を読む以上に大事なことが今の生活上にひとつもない。飛び抜けて重要だと思えることがはっきりあるのは良いことだが、それがいわゆる能動的な活動ではないのは残念なことだ。とはいえ、惰性でやれるほど受動的に済ませられることではなく積極性が必要になる読書ではあるので客観的に考えるよりはだいぶ能動的な活動だとは思う。こうやって誰にともなく言い訳しないといけないことが情けなくあることだが。黙ってやっている分には何でもない。

真剣に向き合えるかどうか、というよりどこまで真剣に向き合えるかということだと思う。流れができるとその分緩むので、そうならないように今のテンションを維持したい。読み慣れるということのないように。

読み慣れるということは気をつけていても起きる。飽きがこないような工夫などという小賢しさとは無縁だし、強い味・噛みごたえがあるので仕方がない。

それにしてもピンチョン以来の真剣な読書だ。再読が必要になるたぐいの著作にある程度の期間費やせるのは自分にとって貴重だ。そういうのが減ってきている最近の自分にとってはなお貴重。そういう作家にあとどれだけ出会えるかわからない。すでに見えている作家に再度出会い直すというのが今回起こったことなのでまた同じことが起きないとは思わないが、不意撃ちにあうような驚きが今回の『遅れてきた青年』によってもたらされたことで、それと同等の幸運がまたあるとは思えない。まあ想像してなかったことが起きたのが今回なので結局起こるときには起こるんだろう。

ピンチョンのときの真剣さはその世界に取り込まれたいという気持ちが主だったような気がする。大江健三郎への真剣さはそうではなく、読者たる自分と著者たる大江との対決図式があるような気がする。未知の世界への冒険と既知の世界への冒険とのちがいというか、水平方向への展開と垂直方向への下降とのちがいというか。ピンチョンにある明るさが大江にはない。その明るさは強迫観念的でもあるから見ていてどちらが明るい気持ちになるかというのは別だけど(どちらも見ていて明るくはならない)。ただどちらも陰惨な事件に対抗するだけのユーモアがあり、主人公の近くに主人公を励ます仲間がいる、地獄に仏スタイルをとっている。雑で強引なまとめ方をすれば、戦争がある世界の話。

俺は虫が怖いとか言っている場合じゃないのではという気にさせられる。英語ができないとか言っている場合でもないし、人前で緊張するとか言っている場合でもない。しかし現実に虫が出たら避けるし、英語ではろくにコミュニケーションとれないし、日本語でも人前では何も言えなくなるに等しいし、そういう条件に制限されたところに実際暮らしているわけだ。何でもできるような気分を保つためにはそういう条件については自然に目をつぶっていないといけない。自然にそういうことができるようになればなるほど自分から離れていくのだよという本来の自分に関する一般論をぶたれると返す言葉もないし、面白さの観点からもかなりの綱渡りだと思う。かなりのというのは綱に乗っているつもりで乗っていない、地面の上をはらはらしながら手をばたばたさせてバランスをとりながらゆっくり歩いているだけのことを真剣に歩いていると言っているにすぎない。しかも気持ちの上では真剣に歩いている。良いのか悪いのかでいうと良いということになるのだろうけど。その面白さは他人から見たときの面白さであって自分で自分を振り返り見たときの面白さではない。どこまでも真剣になれれば自分でも面白いと思えるんだろうか。そうしようとしたとき、こういうことにすぐ気づいた風の振る舞いをしてしまうのが邪魔になるのはわかる。でも意識が行くのを止めようとするのはナンセンスだ。思ったことを全部思うまでのことだ。できないことはできるようにならない、できることでやっていないことはできるようになるかもしれない。だから結局、できることは何だってできるし、できないことはできないってだけの話でしょ、ということになる。

反省するつもりがないのはわかる。自分の姿勢については反省する意味なんてないと思うし、そもそも反省する余地もとくにない。自分とはちがう人を見て、その人のやり方について考えて自分とはちがうと言っているだけの話。こういうとき、向こうが正しくてこっちが間違っているということはない。そう思わさせられることは非常にしばしばあるけれども、それはそれ。

20230327

日記76

 

雨も止んだし抗議行動

今日

在宅仕事。キングオブコントの会を見る。前回よりも面白くないコントが多かった。「ビジネスホテル」が飛び抜けて面白かった。

スタバで『遅れてきた青年』を読み終える。後半の途中で失速するのも小説全体からすれば必然性があったこともわかった。目まぐるしいような飽きさせない展開で、大きな石のような人物がずしんずしんと存在感ある音を立てながら流れていって、石の精巧さと流れの強さの両方に驚かされた。こんなに面白い小説を読んだのは初めてだという感想で、しばらく大江健三郎作品を読み続けることになるかもしれない。ただエネルギー消費が激しいので途中で嫌になる可能性も十分ある。とりあえず昨日の段階で『死者の奢り・飼育』を買っておいた。

嫌になることはなかったが、何冊か読んで大江健三郎を置いている。疲れるというよりは密度の濃さに飽きたというのが近い。もっというと他の作家を読みたくなったのが大きい。他の作家を読みたくなったことの動機にまで大江作品の影響が及んでいるといってもいいかもしれない。どうあれまた読みはじめることにはなるだろう。

この小説のいう「本来の自分」が誤解されて、誤解というより誰にでもわかるような簡単な話に変換されて、すこし前まで流行語のようになっていた「自分探し」に回収されていくのは必然だという気がする。その後、自分探しとか言ってる場合じゃない、本当の自分なんていうのは今ここにいる自分以外にはありえないという穏当な反対意見が「自分探し」にとって代わったのは良いことだが、その意見が通った後にも流されずに残る問題はあるという当然のことを思った。この「本来の自分」云々については目新しい発見というものではなく、確認作業のための答案シートのようなものだが、これもまた当然ながら、だから問題自体がないものになるというものではない。「本来の自分」というのは、嘘をついてはいけませんという道徳とは無関係の話だ。正直に生きる自分のイメージとその影に引きずられて歩くという、実人生にとってはマイナス方向にしか作用しないハンデの話だ。いつか考えなくなっていくことで外れていく重しのようなものかもしれない。張り合いがあるとか、価値があるとか、そういう言葉を使って言ってみてもそれ自体何の価値もないような種類の、ただ実感として足取りを鈍くさせるだけの、いわば全力疾走を防ぐためだけに設置されたハードルのたぐいなのかもしれない。そしてランナーは内的な必要と外的な必要との両面にせまられて新しい競技を発明するのだろう。

それにしても、大江健三郎と同時期かすこし遅れて小説家になった人は気の毒だと思う。大江健三郎をまったく読まないでいる以外に、自分が続けて自作を書き続けることはできないのではないか。実際にはそんなことを気にしないで自分の作品を書いていったんだろうから、『遅れてきた青年』を読んだことで大江と同時代の作家にも興味が出てきた。まあ当時の世代特有の厚かましさしか表さないかもしれないけど。

最後らへんで康が置かれた状況はよく考えられているなと感心する。どうやってその危機から逃れるのかわからないが、手記の書き手の言葉を信用するのであれば、康とその妻はなんとか危機的状況を抜け出したとのこと。

しかし、最後に康について書かれてある箇所については、どうにも書かれてあることを鵜呑みに出来ないようなところがある。錯乱していて本当のことがわからなくなっている場合、願望が事実であるかのようにとらえられている場合、読者への反感由来のユーモアで冗談を言おうとした場合、いろいろなパターンがあり、そのどれもが現実に起こったことではないとの立場を築き得る。ただそれらの対向にあるのはすべて「単純な事実」で、どれほど嘘のパターンを増やそうと真偽は50:50になる。報告された文書・書かれた言葉というのは力強い。騙そうとする意図はそれに比べるとあまり強くないということもある。どれだけ弱くてもこちら側で疑いを抱くことはできるので、ある程度以上は発信側の強弱に依拠しない問題ということになるけれども、嘘側のパターンを並べれば並べるほど真実側が相対的に強くなっていくというのは存在感の問題としてあり、受け手の側に影響することで結果に影響する。50:50で真というのは(ちょっと無理して突き詰めれば)結局のところ真ということだ。

今読んでいる数学の本『数学する精神』ともかぶっているところで驚いた。ちょっと無理して突き詰めるということは、ちょっとだろうが大幅にだろうが無理しているのは無理しているのだが、無理を程度問題にしてしまって、あるいは「そういうもの」として扱うことで次の問題に取り掛かるといったある意味ではいい加減な操作が必要になるということだ。生きるか死ぬかというのは0/1の問題のようでいて実質はそうじゃないというのに似ている。

アマゾンレビューでひどい感想を目にしてしまい一瞬気が滅入った。

いわく「作者の右傾感覚が出ていて拒否感をおぼえる」とのこと。左右で小説を読むやつがいるという驚きはおいておくにしても、この小説がすばらしいのはむしろ対岸にある自分ではないものについてどれほど想像力を働かせられるかというところにある。見当違いも甚だしい。ここまで寄り添えるのかというぐらい主人公に肉薄しているし、そこに作者の仕事が感じられる。もし自分がその立場だったらということを考え抜く度合いは凄まじいほどだ。

レビューを書いた人が作者と主人公を切り離して考えられないのはそれほど詳らかに心情を描いているからで、「自分というものを通して」という見え方をこえて「自分が」としてしか読めなかったということかもしれず、それは読む側の力量が明らかに低いということはあるにせよ、それほどすごい小説ということの証明になっているともいえる。

くそみたいな意見を読んで腹が立ちそれをガソリンにして文章を書くというのはよくない。よくない薬をつかってドーピングしているような感覚になる。それで書き続けていっても結局つまらないし、そのときは一時的に書けるようになったとしてもつまらないことしか書けるようにならない。

結局、人は自分のものの見方の範囲内でなにかをカテゴライズするしかなく、上のレビューはその範囲が小説を読むのに適していないほど狭すぎると感じて不満があるということになる。べつにどんな読者がいてもかまわないはずで、どんな感じ方があっても問題ないというのはその通りなのだから、そんなに反応しないでもいいことだったのだが、矮小化されたような気になって腹がたったのだった。もちろんそんなわけないのだから一時の気の迷いのようなものだった。気にするべきではないことを気にするな、以上。

20230325

日記75

急行が行く

昨日
カフェを出てからTSUTAYAに行き、ブルージャイアントシュプリームの5巻6巻7巻を買う。帰ってそれを読んでから寝る。

今日
朝起きてオートミールの朝食をとってからスタバに行く。つよめの雨が降っていて裾が濡れる。靴下も若干湿ってしまいせっかくの朝スタバなのに不快さがある。
『遅れてきた青年』を読む。東京編になった途端精彩に欠くような気がする。今の東京のイメージが自分の中にありすぎて昔の東京のイメージだったり他人の東京のイメージが受け入れられないだけかもしれないが、田舎の描写がすぐれていたのは明らかだし、それと比べると魅力が落ちる。
主人公の政治家になろうとする野心がみすぼらしいものに感じられる。ただ生き延びようとしているだけのようにみえる。
ようするに初めの方にあって途中までは持続していた勢いがなくなったということだ。小説全体を通してこの緩みは必要なものなのかもしれない。だから上のように感じたという感想はたんに部分を見てそう思ったということにすぎない。
『月と散文』の読書感想文の回を読んでいて「感想を書くときには作者に対して敬意を表することを忘れない」という内容にぶちあたった。敬意を表するからこそ、言いたいことをいえるというのはあるだろう。それに、まったく敬意を表せない何かを読んだ場合はそれについて何も言わなければいいだけだ。だから敬意を表するというのは正しい考え方だと思う。自分の場合、面白くないものについては触れたくないし触れないようにしているので、敬意を表することのハードルが下がっている。手前勝手な表し方なのでそれでは敬意に欠けるよと言われるかもしれないが、これで良いと思っている。だいたい敬意を表するってなんだよ。敬意なんてのはもよおしてしまうものだろう。本来誰に対しても抱く必要のないものをつい抱いてしまうというような、いってみれば「気後れ」のいい感じの言い換えだろう。もちろん勝ち負けではないが、面白いと思ったらそれはもう負けだ。敬意というのは負けたときに負けでいいと思う奴隷根性のようなものだが、面白い以上、そういうことでもべつにかまわないと思っている。そこへ追撃のように「負けでいいと思っていなければならないぞ」とまで言われると、仮に負けでいいと思っていたとしても反発してしまいそうになる。
つい敬意を抱きそうになったことに対してつい反発してしまいそうになって、でも面白いからと屈服させられて、ということが繰り返されると、簡単には面白いとは思わないぞなどとつまらないことをつい思いそうになるが、結局面白いものは面白いのでつい面白いと感じてしまい、つい敬意を抱きそうになり……、

一年前の日記を読み返すと、書いていることが少ないのが気になる。内容の薄さみたいなものはあまり感じられないが、前提にしていちいち書かない部分というものが多そうなのに比べて実際に書いてある分量が少ない。内容の薄さを感じられるほどの分量もないというのが実際のところだ。書いていないことを思っていそうな口ぶりに腹が立つ。口ぶりに注意を向けている暇があれば前提まで書いてしまえばいいのに。
長い文章を書くとボロが出ると思っているのだとすればそれは間違っている。短い文章のほうがその手のボロは出やすい。正確にいえば出る頻度は変わらないだろうが、短いと欠損が目立ち、長いと他の欠損にまぎれて目立ちにくくなる。欠損や不足を生まないように書いていこうとするのであれば訓練が欠かせないし、それは量を書くというところにしかない。何回同じことを言うのかと思うけど、べつに回数制限なんかないので何回でも言えばいい。
ただし、他に書くことがないとそればっかりになっているようにみえるので、すこしはバリエーションを意識して量と数を増やしていかないといけない。これも毎度の付け足しだ。
店の軒先の小屋根から雨だれが落ちている。かなり弱く締めた蛇口からシンクに水滴が落ちるぐらいのペースで間断なく雨だれが落ちていく。その様子をしばらく見ていると、だいたい50を数えたところぐらいで飽きてやめるぐらいの早いペースで雨だれが落ちていた。
今日はイングリッシュブレックファーストティーを飲んでいる。このスタバは値段が高い分、ティーをポットで提供してくれる。それにしてもドリップコーヒーが880円するのには引いてしまった。シングルオリジンかなにか知らないが、抽出方法も好きに選べるのか知らないが、そんなのいくらなんでも高すぎる。バーで飲むスコッチウイスキーじゃあるまいし。

20230324

セーブについて

スマートフォンのカメラを1秒で起動し目の前にある何かの写真を撮ることを「セーブする」と呼んでいる。撮影した写真の確認をすることもあれば確認しないまま済ませることもある。いずれにしても写真はクラウド保存される。
あとでそれを見返せる状態にするということを指してセーブするというのだが、ゲームでのセーブのようにそこからやり直せるという機能は付いていない。
それでもその写真が残っているのと残っていないのとでは全然ちがう未来になることだけは明らかだ。記憶力に対する信頼をとっくに無くしてしまったいま、今何の気無しに撮った写真だけが頼りで、それに縋って記憶をたどることになるだろう。その意味でもセーブするといえるし、やがてたどりきれないとしてもたどりきれないような記憶の盲点があるということの証明になる。痕跡を残し、存在しないものの存在させることができると思うのだ。
失われるのであれば失われるに任せればいいというのはニセの楽観主義だ。わたしはセーブする。わたしは楽観主義者を自認している。
わたしはセーブする。そしてセーブする人という意味で「セーバー」という言葉を使って自己紹介しようか「セービスト」という言葉を作り出してそう名乗ろうか迷っている。どちらにももう一方にはない利点がある。前者の利点は語感が壊滅的にわるいというわけではないこと、後者の利点は言葉の聞き馴染みのなさによって活動についての命名となり得ることだ。
既存のシステムで似たものに「日記」がある。日記は記憶喪失に対する強力な対抗手段だ。
ただ、日記を書かないひとにもセーブはできるし、日記が続かないひとにもセーブは続けられるというのが日記に対するセーブの利点だ。一日に何度でもできるというのも大きい。日記はに一日一回という制限があるが、セーブの場合、そこに意識が向くのであれば1時間に1回でも10分に1回でも好きなだけ行うことができる。しかもやることといえばカメラを起動しボタンを押すことだけだ。
日記と併用もできる。写真にキャプションをつけるということをすればそのまま日記にもなる。お手軽簡単でありながらやるのとやらないのとで全然ちがう未来が待っている。セーブする生活を今から始めるべきだ。

日記74

ビニールの雨除けを手に持って歩く


今日
在宅仕事。スタバの代わりになるカフェを見つけたのでそこで日記を書く。明日の読書会に備えて『21世紀の道徳』第4章を読む。自分がいま功利主義について考えること↓

功利主義について
あるゲームで遊んでいてその勝ち筋の最適化を目指しているときに有効な考え方である。
ゲームの目的が効率的な勝利条件の達成であるなら、ほかの考え方より有効かもしれない。
ただし、ゲームで遊ぶ理由がどこにあるのかという問いに直接答えるものではない。すべての個人にとって、つまり幸福概念にとってゲームで遊ぶ理由の追求は避けて通れない。社会全体がどのフェーズにあるかどうかによって、功利主義を選ぶべきかどうかも変わってくる。社会がまだ功利主義を選択するべき未成熟なフェーズにあるとしても、すべての個人が同じ状況を分け持っているとはかぎらない。功利主義的な幸福を追求しないでもいい幸運な人間はすでに社会に一定数いるだろうと考えられる。ラッキーマンたちにとって功利主義を選ぶのは簡単ではない。持っているものを手放すという判断が必要になるからだ。おそらく功利主義は多く持っている人間たちからそれを手放すよう説得する必要がどこかの段階で生じるはずだが、今の形のままではそれを実現するのはむずかしいと考えられる。大幅なアップデートが必要だが、そうすると変容後のそれはもはや功利主義とは呼ばれない別物になるのではないか。
奴隷制を持ち出して功利主義に対して向けられる反論をしりぞけるためにグリーンが「奴隷制度における奴隷たちの不幸は奴隷主やほかの人の幸福を上回ることはありえない」と主張したが、それでは生贄制度ではどうなるのか、もたらされる不幸は幸福を上回ることが考えられるのではないか。仕方ない犠牲として社会は生贄を受け入れることになる。それと同時に生贄を説得することは不可能だ。
通常より幸運な人間を生贄として彼の幸運部分を取り除くこと、通常の人間を生贄として彼に不運を背負わせること、いずれも少数者に不利を強いる方法だが、前者は後者に比べると心情的には受け入れやすいかもしれない。


「権利」とは、わたしたちの内側にある感情を正当化して強弁するために、その感情が実在する物体であるかのようなもっともらしい表現を与えたもの、であるのかもしれない

この主張は「権利」にかぎらず、「良識」にも使える。ある概念や考え方をつかまえて「それはイメージの領域にすぎない」とする攻撃は、イメージがもっている力を考えると長期的に見れば大した有効打にはならない(功が少ない)ので、筋がわるいだろう。
どこからどこの範囲をとるかによって「正しさ」は変わってくる。人類にとって何が良いのかということを考えるにあたり、長い目で見るとすれば何が良いのかということはわからなくなるはずだが、どこからどこの範囲での最良をとるのか。それは常識によってこのぐらいと考えるとして、それはどの程度妥当であるだろうか。
たとえば「禁煙は正しい」という主張でさえ、すべての個人に当てはまるものではない。とくに喫煙習慣のある老人にとっては全然正しくない。社会を良くしようとするためには彼を説得することが必要なのだが功利主義のやり方でうまくいくとは思えない。愚かな立場をとるものに「お前の考え方は愚かだ」と言っても無益なのは、『北風と太陽』の寓意をとりあげるまでもなく明らかなことだ。功利主義は有効打を繰り出すために個人主義的な考え方を導入しなければならないだろう。明るい場所で正直に、誰にとっても合理的、きちんと考えればわかるやり方でという信条を捨てて、個人の心情に寄り添い、騙しうちにするような形を部分的に採用する必要がある。そしてそれは功利主義を選ぶ利点をまるごと失うような変更にならざるをえない。このためであればそういう汚れ仕事もこなせるという上位概念とともにある場合のみ功利主義は有効な選択だろう。そして、功利主義者はその上位概念については口にしないまま済ませようとする。まるでタブーなどないかのような強気の態度で何でもかんでも俎上に載せる功利主義的アプローチが、意識的にか無意識的にか、かたくなにテーブルの上に置こうとしないあるものに同意できるかどうかに懸かっていると個人的には思う。あるものを指してこれはアンタッチャブルだと誰かが言い、同じものを指してそれはアンタッチャブルではないとべつの誰かが言ったとすれば、それを調停する機能がどこかにあるわけではないということはこのゲームをクリアするために押さえておかなければならないポイントだろう。

その後大江健三郎『遅れてきた青年』を読み、つづけて『21世紀の道徳』第5章を読む。トロッコ問題がつまらないと思うのはそれが「最低ライン」を策定しようとしているところだ。しかも論理学や法学ほどの厳密さはないように思えるので、感情に流されないよう考えることの訓練にしかならない。べつに訓練なら訓練で良いのだが、もし実戦がなければためにする訓練でしかない。だったら実戦を想定すればいいと言ってそんな単純な話でもなく、単純に言うのであれば実戦は願い下げだ。そもそもこの程度の訓練を積んだだけで自信満々で実戦に繰り出せるとは思えない。実戦に行かない者同士でおれは訓練を積んだんだぞとエバれるぐらいが関の山だろう。だとすればますます興味ない。
トロッコ問題で浮かび上がる「二重結果論」を意識的に行為するものの物語として『悪霊』はあったのだと思うし、ああいう特別な物語はためにする思考実験では到底到達できない地点に読者を導いてくれる。私はそういうものに興味がある。何かひとつ知れるのだとすれば「最高到達点」を知りたい。
ただ、社会において自分の居場所を見つけるために「最低ライン」を知っておくのは有効だと思う。ルールの間隙をついて生き延びるためにはその手の知識を持ち活用することが欠かせないのだろう。
又吉直樹の『月と散文』を読む。龍三が登場する『カレーとライス』が面白い。こういう登場人物が登場する読み物はいくらでも読んでいたいと思える。龍三が登場できるということひとつだけでも『月と散文』は読む価値がある。

20230323

日記73

階段の段差は恰好の椅子になる


今日

在宅仕事。『帝国の陰謀』を読み終わる。『遅れてきた青年』が重いので、それとは好対照な軽い読み物で都合が良い。この読み物自体が行為遂行的なテキストの実例だと思った。ポストモダンと近代との相克だったり、それらの往還だったり、輪郭の呈示ということも思うが、軽い読み物であることで著者の主張を行為遂行的に言い表しているという感じがもっとも印象としてつよい。まじめにやるな、深刻になるなということをまじめに言おうとしたらこういう言い方しかないのではないかと感じられる程度には真摯な試みだと思う。文学に対する文芸のような「芸能」という極め方があるということ、それは間違っても純文学などではないというところに励まされる。今を生きることにつながっているのは笑劇しかない。悲劇は断絶している。喜劇はかろうじてつながっているかもしれないが目を離したらすぐ切れるほどのきわどいつながりしかない。生活の中に残るのは笑いだけだ。

もっと文芸的なことを言おうと自分自身の書くものを方向づけようとしてもいいかもしれない。短い。最低限の言葉で伝えようとするのは詩文学的という評価か、あるいはモノグサの結果ということにしかならない。


雨が降っているなか昼飯を買いにでかける。夕方にはスタバに出かける。しかし満席だったためBROOKLYNのほうに行く。『遅れてきた青年』の第一部を読み終える。この小説を読んで懐かしいと感じるのはいつかこの小説の断片を読んだことがあるからだろう。受験勉強の現代文で読んだときの印象がまだ残っているのだから、作品の読み物としての強さと、当時の感受性の強さと両方の記念になっているのを嬉しく思う。

図書館で借りてきた『弱いロボット』シリーズのこり2冊を読み終える。内容にはこれといった違いや差がなく新書を読めばそれで済む。新書が一番よくまとまっている。


又吉の『月と散文』を買って読む。「はじめに」と表題作の「月と散文」とがよく出来ていて続きを読むのが楽しみになった。散文という言い方で表したいのは小説とエッセイの垣根をこえること、あるいはなくすことだろうと思う。そのあたりの境界を曖昧にしたいということであればその気持ちはわかる。

又吉の書くものを読んでいると、又吉ルールが厳然としてあるということを感じさせる。そしてそれは社会のルールとぴったり重なり合っている印象がある。砂場のルールや価値観に忠実なのは職業柄なのだろうと思うが、それでもたんなるプロ意識をこえて、アウト方向に安直に進んでいこうとするのを制しているのもこえて、そういう心性を嫌悪していると感じさせるところがある。自由より優先するいくつかのことがあるんだろうし、自由より優先するいくつかのことがあるんだろうと思われても構わないという頑なさがあるんだと思う。それが何なのかわからないし分析しようとも思わないが、自分とは相容れないものだという気がする。いや、自分にもたぶんそういう傾向はあって、しかもそれがより先鋭化されているのもわかるから、さすがにやりすぎでしょというやり方で引いてみせているだけという気がしてきた。有り体に言えば卑怯ということなんだけど、それを指して鷹揚さだと言って済ましていられるぐらいの鷹揚さが自分にはあると思う。しかも同じ方向で自分よりも「鷹揚なもの」を見ると、狭量にも「あまりに怠惰で見ていられない」とか言い出すんだから、これはもうきわめて鷹揚というほかない鷹揚さが自分にはあるということだろう。

簡単に言うと、常識に反発するようなことを言っておきながら、常識のうえに立って考えているように思えるのが恣意的な感じがして嫌なのだ。もっと根本からラディカルに言ってくれよということだが、他人にそれを要求するのは無理がある。

読みやすさがあることで誤魔化しが効かなくなるような状況があったとしたら、迷わず読みやすさを取るようなところがある。それはプロフェッショナルと言い表せるものなんだけど、それ以前の個人的な性格なんだろう。プロだなといって拍手するのはフェアじゃないかもしれない。相手が拍手を求めていることにかこつけて拍手して済ませるのは鷹揚さの枠をぎりぎりはみでることかもしれない。よっぽど充分に睡眠時間を確保していないとむずかしい。

彼の書くものを読むと、柔らかいのに固まっているという感じがある。じゅうぶん柔らかいのに柔らかいままでじゅうぶん固まっているとみえる。これは比較なのであんまり意味のある評価ではないのだが。何との比較かといえば当然私との比較で、私は彼と比べると硬いのに固まっていないという感じがする。ここですぐ固まっていないというのを定まっていないと言いたくなるのは、硬いのに固まっていないというのはあまりにあんまりだという気がするからだ。何にせよ考えることで情けない気持ちにはなりたくない。固いまま定まっていない。そこらへんに落ちてる石のようだ。石を売って生きたいという願望も全然捨てきれない。そのへんに落ちている小石を握ってグーを出す。せっかく拾ったものを捨てたくないからだ。柔らかいパーに負けるとしても、そのゲームのルールを信じないふりをしたり、できることは何でもやってやると思っている。「何でも」と言ってもその範囲は比較的狭いし、その範囲を広げることは握り込んだ拳を広げることぐらい不可能性に満ちているのだが。

これは良いと思ったものやそれの作者に対してはもっと信用をおいて、自分が感じたことについて率直に言うようにしないと慇懃無礼な結果になる。しかもここで自分が言おうとしていることを拾ってみると、短距離走の選手をつかまえてそれじゃ長くは走れないよと助言を与えようとしているようなものだ。自分のやりたいことは自分で実現するしかない。他人のやることを自分のやりたいことに引きつけようとするのは無意味だ。

20230322

『たぶんこれ銀河鉄道の夜』を見た

新宿のサザンシアターで上演されていた『たぶんこれ銀河鉄道の夜』を見に行った。

『たぶんこれ銀河鉄道の夜』は何よりもまず舞台装置のクオリティが高かった。内容のクオリティと道具立てのクオリティとは自分がこれまで考えていたより不可分のもので、関心させられるのがプロジェクトマッピング風の映像だったとしても、それを効果的に演出できているかというのはまた別問題だし、そこに関心する以上、一定の効果を挙げられていると考えてよく、総じて演出の成果ととらえて問題ないと思う。

宮沢賢治の有名すぎる小説を原作にした作品だが、列車が左から右の一方向へ横スクロールしていく映像を基本線に据え、ときおり停車したり発車するのを映像の切り替わりと役者の演技で表現することを大枠にしたところでこの舞台の成否は決まっていたように思う。見ていて面白いと感じられる「動き」が土台となり、それが物語の推進力にも一役買っていた。

『銀河鉄道の夜』は有名すぎるし、読者に喚起するイメージの力もかなり大きい。読者ひとりひとりに「純粋な思い」を届けるからハマると抜け出せないところがある。銀河鉄道の夜にふれているときには、誰しもが「善き人」になる。いろいろ言及されることが多い作品ではあるが、そこにこそ稀有な特徴があると思う。世界的により有名な『星の王子さま』もそうだが、宇宙規模の美を言い表そうとしたときに必然的に生じる力がある。そして、どのような力にもいえることだが、力は力であることにより良く作用することもあれば悪く作用してしまうこともあり得る。そうするとたちまち良い悪いの二分化の影響をうけることになり、それと純粋な想像力の働きとが合わさることで「あの物語は素晴らしいと言われているのだけどじつは……」というような単純なスキャンダルの餌食にもなる。『銀河鉄道の夜』の二次創作は、良い面にフォーカスし、それ単体ではつまらないスキャンダルの原因ともなる悪い面には目を向けないということをするのが無難といえば無難な方策である。

誰もが自分をジョバンニだと思い、カンパネルラでありたいと思うことそれ自体は、そのこと単体で見れば良いことなのだろう。ただその過程で、あるいはそれをする条件次第では、排他的な要素だったり、排外主義のようなものが絡み合ってくることになる。それは「純粋」ということについて考えるとき不可避的についてまわる汚濁にも近い。そしてその条件というのは、どの立場の人にも基本的には当てはまる事項であり、ジョバンニでありカンパネルラであると心底信じられるケースがあったとして、それは浮世離れして「自分だけは」と考えていられる鉄面皮だけが回避できるたぐいの例外主義的なコースにすぎない。


『銀河鉄道の夜』を「原作『銀河鉄道の夜』」にし、言葉を歌にし、夢を現実にするとき、いずれの場合も何らかの変化をこうむる。前者と後者のあいだにある距離がその変化の生みの親だ。ある距離を移動するときには始点と終点があり、両者をつなぐ固有の線がある。瞬間移動が可能でないとするなら、そこには移動時間があり、道中があるということになる。すべての移動には変化が、位置の変化にとどまらない変化がつきものである。その条件のもとでは、どこかへ向かう列車の中にべつの時間が流れていて、たとえばそこにおいて交わされる会話が列車の運行に影響を与えるというような特定の事態を引き起こす。

前者と後者は同一のものではありえない。銀河鉄道と銀河鉄道をもとにした作品、ジョバンニと自分とジョバンニと同一視したジョバンニ、作中に書かれてある文章とその文章を読み上げる声・歌はいずれも同一のものではない。本当の幸いというものがあるとして、それは本当の幸いという言葉とは違ってしまうのと同じ事情によって、両者は隔たっている。それでもわれわれはしばしば両者を同一視しようとしてしまう。それどころかいつの間にか両者を同一視している。両者という区分を設けずにいることも多い。

『銀河鉄道の夜』を原作にする作品は、ある点で原作を越えていかなければならない。それは無謬ではいられないという認識からの必然である。追いかけるものは追い越すものでなければならない。

「私はカンパネルラじゃない」と言う。当然である。「私はザネリだ」と言う。当然そうではない。自分と作中人物のあいだに単純な線を引いて同じものだとしてしまおうとするのは物語読者の習い性のようなもので、それがなければそもそも十全に物語を楽しめないのは確からしい。しかし、彼らに固有の事情によって、その線引きはどこまでいっても線引きにほかならず、どこまで行こうとも同一視とはならない。

「私は善人だ」と言いたかったり、「私は悪人だ」と言いたかったりすることが起こるとしても、私は私に固有の事情によって、私をどちらかに片付けるということはできない。たどり着くべきところへ不断に向かっていながらいつまで経ってもたどり着かない物語が『銀河鉄道の夜』であるとするなら、おそらく『たぶんこれ銀河鉄道の夜』もそれに似た物語であるだろう。乗客の多さからくる混み合った車両と、それに付随する雑然とした雰囲気が『銀河鉄道の夜』の先を行くものであることは、正確を期すためにたぶんという留保をつけなくてもいいほど明らかなことである。また、藤谷理子演じる美容室の先輩が純粋な二項関係に付け足す第三項になっていたことで、本作が原作の均衡を崩し不純な物語になり得ていたというのは、物語平面上の図画としてすぐ目につくところで、彼女がもっとも脚本上の役得を得ていたと思う。動きと声にキレがあり、舞台上でも目を引く俳優であるということを加味しても、あきらかに良い役だった。彼女は自分がカンパネルラでもジョバンニでもなく、ザネリでもないと思っている。カンパネルラにしてもジョバンニにしてもザネリにしても、相手にとっての自分というものを考えたときに浮かび上がってくる考え方のようなもので、すくなくとも作中での彼女は、そこを目指したいと考えながらもそこに至れないものとして描かれていた。二本のレールの隣を並走する余剰のレールとして無駄に引かれている一本の線という見え方もしたし、その寂しいあり方は、見えない力で物語を支えていたといえるのではないか。

日記72

そこそこライドされている

 

昨日

スタバで読んだ『遅れてきた青年』が面白くて仕方ない。ひとりぼっちで夜の山に入る恐ろしさが経験のない者にもわかるように書かれている。小学6年生の主人公が、弟に嗜虐的に接するところ、それでいながら庇護する気持ちもあるところ、幼さから仲間とは見なしていないところなど、その年代の兄弟関係がよく書けている。

今日で5章まで読み終わったところだが、密度があって硬質な小説でありながら読みやすい。事件が展開していくからかもしれない。あとは読み応えがあるからそれによって続きを読みたくさせるのだろう。




今日

テレビで野球の決勝戦を見る。最後、大谷が相手のエースで所属球団のチームメイトを三振に討ち取って優勝を決めるところなどは誰もが少年漫画の展開だと認めざるを得ないだろう。

在宅仕事終わりにスタバにきて『遅れてきた青年』を読む。周囲が間違った行動に出ていることでわるい結果がもたらされることが予想されるのに、その行動の主導権が自分にないことや結果が最悪なものになるともかぎらないという楽観によって、何も行動を起こさずじっとして事態の推移を見守るときの諦観が、身に覚えがあるものとして感じられて苦しくなるほどよく描けていた。それだけに、あとに続く展開で康が無事だっただけでなく仲直りの契機となる積極的な行動を起こして主人公の前にふたたび現れたときの安堵と高揚とは著しい効果をあげていたし、これまででいちばん感動的な場面でありながら同時に、不穏な方向に進む一歩になっているのを予感させて章を閉じるのがひどく良くできていて読ませる。

目に触れたとき最低だと感じさせる物事を一切ごまかさず描くのは大江の作風なんだろうと思う。これは真似したくてもできないし、できると仮定してみても真似したくない。目を見開いて小説を書くから結果的に読む価値のある小説ができるのだろうが、そこに憧れるわけにはいかない。ただ、そっちに行くかどうかは別として指標ができたのはたしかだ。身を削りながら書いたんだろうということがわかる。その痕跡が小説の中に充満しているし、本を開いたときに対峙するような緊張感がある。


いつ見た夢か忘れたが最近の夢で「満天の星空」を見た。満天の星空というのは何かで見聞きしたとおり黒い画用紙にミルクをこぼしたように一面星で満たされているのだなと思って感心した。感動もあったが、どこかわざとらしいような不自然なところのある感動で、それがかえって満天の星空をリアルに感じさせた。満天の星空を自分はとうとう目にしたという気にさせて、目の前にある満天の星空を凝視することを回避させたので、感動に目がくらんだと言ってよかったと思う。美術館にある絵を見に行って、その絵の出来に感動するあまり途中から絵を見ていないという事態に似ていた。なにか物事に感動するとき、それを受け持つ姿勢をとることになるが、ひとたび受け取ったと認識した後、対象はどうでもよくなることがある。受け取って自分の手の中にある感動がメインになって、感動が強ければ強いほどそれだけしか見えなくなる。光量が多いあまり周囲の輪郭をぼやかす発光体のようなもので、それでもシルエットが見えているではないかと主張しようとしても、それは目の錯覚にすぎないと言われたら返す言葉を失い不安になる。そもそもシルエットは対象の良さをかなり限定的にしか表現しないということを、対象を見た後ではなおさら知っているので、それが目の錯覚であろうがそうでなかろうが、問いかけによって不安に晒され、念のため参照しようとするときにはその役を果たさない不完全な対象とならざるをえない。ここにある感動こそが本質なのだと強弁するのもむなしいことだが、しいてそのような弁解をしたい気持ちになるのは、当の感動によって気が大きくなるからだ。たとえいい加減な表現になったとしてもかまわないと思ってしまう。どのように料理されようと感動だけはフェイクにはなりえないと知っているからだ。

20230321

日記71

水上中華チェーン


昨日

出社日だった。仕事終わりに四ツ谷の友人宅に荷物をおいて夜桜狩りに出かける。 四ツ谷市ヶ谷九段下千鳥ヶ淵飯田橋市ヶ谷四ツ谷の順に歩く。


今日

自宅読書会をする。良い悪いで判断するところにべつの尺度を導入するのが合理性には必要になるはずだという主張を展開する。べつの尺度とは「近さ」だ。どんな社会的指標であっても各人にとっての「私」を織り込まないようではどこまでいっても合理性に欠けたままだ。

昼食にチーズナンを食べるため「印度」という店に出かける。炭焼きチーズナンというメニューだったが、チーズナンにおける我が故郷「ナマステトウキョウ」には遠く及ばず。なんだかんだでお腹いっぱいに食べて即帰宅し、昼寝をする。

参加した演劇作品の上映会に5分遅刻して行く。その後、新雪園の地階で打ち上げをする。あんまり喋れるようになっておらず、何だったらもとの黙阿弥で、緊張してぐびぐびとビールをあおってしまったが、みんなの話を聞いているのは楽しかった。自分の話がもうすこしできるようになりたいと思わないでもないが、飲み会でできる話の持ち合わせがないから、という言い訳と、三週間で本当に恐ろしいくらい忘れているという言い訳とがあった。あとは個人的には過去の振り返りに興味がないという言い訳もある。

言い訳ばかりだが、話がうまくドライブしていかないときと何も考えないでも転がっていくときとがある。昨日の花見ウォークでもおしゃべりには花が咲かず、よく口の動く友人のあまりパッとしない話の時間が長くなったりして、それに対処できずただ黙っている時間が長くしまったし、場のコントロールがうまくできるときとそうではないときとがある。テンションが上がらないというかチル状態のときには酒の場に参加してもあまりおもしろくならない。自分がその場に貢献できることなどわずかだが、わずかでもおもりになるのか浮きになるのかで全然違ってくると思う。第一自分の気持ちが違う。

自分は自分のやるべきことをやらないといけない。未踏という自費出版文芸誌を近所のイベントスペースで売っているのを見つけてどうも気になってしまった。手に取るところまではいかなかったが、やらなければならないことが今あるのだとすればそれは小説を書くことだろうとあらためて思った。資格の勉強という概念が行方不明になっているような気もするがそんなことは関係ない。飲み会とか桜狩りとか削れる時間はたくさんある。

ビールを二杯にとどめ、終わってまだ7時半だったこともあるしスタバに行こうとしたが満席だった。仕方ないので屋外に設置されているソファに座って日記だけ書く。

演劇に行って思うのは「フリーライドをさせてもらった」ということで、振り返ってみても、人の用意した面白い滑り台を滑ったという経験に過ぎないと思う。フリーライドというには言い過ぎにしても自分の支払える運賃は、自分には簡単に出せるものにすぎない。それを発揮したところで周りに面白がってもらえるほど自分自身は面白くない。不満があるとは言わないが、皆が社交上の礼儀として褒めてくれる箇所は自分にとっては面映い部分で感謝の意を伝えないとと思う気持ちに反して、嬉しくなさそうな表情になってしまわないように必死になるしかなく、微妙な空気にしてしまう。ちょっとしたおもりを越えて、まあまあのストッパーになっていながら気分が良いと思えるほど人間ができていない。もう一度スタバをのぞいてみて満席だったらおとなしく帰ることにする。

運良く一席だけ空いていたので滑り込む。昼間のチーズナン合わせでいつもたのまないチャイティーラテをたのむ。さっきの飲み会でうまく話せなかったことの理由をさまざまに分析しようとしていたが、ああいう集まりに遅刻していくのがはっきり良くない。それで一切気まずくならないのであればまだしもだが、時間に遅れていったことですこしでも気後れを感じるとするなら、ごちゃごちゃ言う前にまずはそういうあきらかなマイナス要素を減らすべきだ。話はそれから。

あと、小説を書かないといけないみたいなことを書いている時間のほうが肝心の小説に費やしている時間よりも長くなっているのではないか。思ったことを書くという心がけは日記を書くにあたって自ら決めたルールではあるのだけど、そればっかりになって一向に進めるターンがやってこないのは、決意なり志向なりやるぞという気持ちなりが虚しくなることだからやめたほうがいい。それでもスタバにくるだけマシだが。

20230319

日記70

 

三種の上昇方法

昨日

雨。朝から散髪に行く。フェードカットが気に入ったので前回の店をリピートする。現金のみ対応のため散髪後に現金をおろしにいく。

その後スタバで『遅れてきた青年』を読む。

昼からは結婚式に出席する。余興のピアノ演奏のためキーボード持参だったのでタクシーで目黒まで移動し結婚式に出る。この日はほかに演劇を見に行く予定もあり、いろいろとミスが起こる。

1.タクシーアプリでタクシーがつかまらず、余興の打ち合わせ時間に遅刻する。

2.演劇の開演時間が思ってたよりも早い17時からだったので、目黒の式場を飛び出して若干遅れて新宿サザンシアターに到着する。

3.式場のクロークにキーボードを預けていくことにするも、そのとき「ついでに」とかばんを預けたところ、そのなかに公演チケットが入っていてチケット忘れになる。

細かいミスもあわせればほかにもいくつかの失敗をしたが、肝心の結婚式はとても良かったし、演劇も値段に見合うほどのクオリティだった。とくに結婚式はホスト側の楽しんでもらおうというサービス精神がちゃんと表現されていて、楽しめたのはもちろん、出席できて嬉しいと思った。

演劇に関して言うと、980円のサービス利用手数料が席ごとにかかるのはどう考えても高すぎる。と思っていたのだけどチケット忘れというミスを犯したのにもかかわらず柔軟に対応してもらえたので価格に見合うのかもと思いそうになった。しかしよく考えてみるとスマホチケットに対応しているべきだ。980円もかかるのにコンビニで発券しないといけないというのは不可解だし納得できない。なんの言い訳も効かないぐらい完全に忘れ物したのを棚に上げて言うけど。

まあ一番良くなかったのは遅刻しそうになってテンパってしまい態度をわるくする小心者の部分だ。沖縄人的なパワーを自分の中に持つようにしないといけない。どう考えてもパンクチュアルすぎる。自分の頭のなかで捏ね上げる自己イメージからするともっと時間なんて気にしない姿勢を維持しないといけない。このあたり確実に労働に毒されている。


『たぶんこれ銀河鉄道の夜』は何よりもまず舞台装置のクオリティが高かった。内容のクオリティと道具立てのクオリティとは自分がこれまで考えていたより不可分のもので、関心させられるのがプロジェクトマッピング風の映像だったとしても、それを効果的に演出できているかというのはまた別問題だし、そこに関心する以上、一定の効果を挙げられていると考えてよく、総じて演出の成果ととらえて問題ないと思う。

宮沢賢治の有名すぎる小説を原作にした作品だが、列車が左から右の一方向へ横スクロールしていく映像を基本線に据え、ときおり停車したり発車するのを映像の切り替わりと役者の演技で表現することを大枠にしたところでこの舞台の成否は決まっていたように思う。見ていて面白いと感じられる「動き」が土台となり、それが物語の推進力にも一役買っていた。

『銀河鉄道の夜』は有名すぎるし、読者に喚起するイメージの力もかなり大きい。読者ひとりひとりに「純粋な思い」を届けるからハマると抜け出せないところがある。銀河鉄道の夜にふれているときには、誰しもが「善き人」になる。いろいろ言及されることが多い作品ではあるが、そこにこそ稀有な特徴があると思う。世界的により有名な『星の王子さま』もそうだが、宇宙規模の美を言い表そうとしたときに必然的に生じる力がある。そして、どのような力にもいえることだが、力は力であることにより良く作用することもあれば悪く作用してしまうこともあり得る。そうするとたちまち良い悪いの二分化の影響をうけることになり、それと純粋な想像力の働きとが合わさることで「あの物語は素晴らしいと言われているのだけどじつは……」というような単純なスキャンダルの餌食にもなる。『銀河鉄道の夜』の二次創作は、良い面にフォーカスし、それ単体ではつまらないスキャンダルの原因ともなる悪い面には目を向けないということをするのが無難といえば無難な方策である。

誰もが自分をジョバンニだと思い、カンパネルラでありたいと思うことそれ自体は、そのこと単体で見れば良いことなのだろう。ただその過程で、あるいはそれをする条件次第では、排他的な要素だったり、排外主義のようなものが絡み合ってくることになる。それは「純粋」ということについて考えるとき不可避的についてまわる汚濁にも近い。そしてその条件というのは、どの立場の人にも基本的には当てはまる事項であり、ジョバンニでありカンパネルラであると心底信じられるケースがあったとして、それは浮世離れして「自分だけは」と考えていられる鉄面皮だけが回避できるたぐいの例外主義的なコースにすぎない。


『銀河鉄道の夜』を「原作『銀河鉄道の夜』」にし、言葉を歌にし、夢を現実にするとき、いずれの場合も何らかの変化をこうむる。前者と後者のあいだにある距離がその変化の生みの親だ。ある距離を移動するときには始点と終点があり、両者をつなぐ固有の線がある。瞬間移動が可能でないとするなら、そこには移動時間があり、道中があるということになる。すべての移動には変化が、位置の変化にとどまらない変化がつきものである。その条件のもとでは、どこかへ向かう列車の中にべつの時間が流れていて、たとえばそこにおいて交わされる会話が列車の運行に影響を与えるというような特定の事態を引き起こす。

前者と後者は同一のものではありえない。銀河鉄道と銀河鉄道をもとにした作品、ジョバンニと自分とジョバンニと同一視したジョバンニ、作中に書かれてある文章とその文章を読み上げる声・歌はいずれも同一のものではない。本当の幸いというものがあるとして、それは本当の幸いという言葉とは違ってしまうのと同じ事情によって、両者は隔たっている。それでもわれわれはしばしば両者を同一視しようとしてしまう。それどころかいつの間にか両者を同一視している。両者という区分を設けずにいることも多い。

『銀河鉄道の夜』を原作にする作品は、ある点で原作を越えていかなければならない。それは無謬ではいられないという認識からの必然である。追いかけるものは追い越すものでなければならない。

「私はカンパネルラじゃない」と言う。当然である。「私はザネリだ」と言う。当然そうではない。自分と作中人物のあいだに単純な線を引いて同じものだとしてしまおうとするのは物語読者の習い性のようなもので、それがなければそもそも十全に物語を楽しめないのは確からしい。しかし、彼らに固有の事情によって、その線引きはどこまでいっても線引きにほかならず、どこまで行こうとも同一視とはならない。

「私は善人だ」と言いたかったり、「私は悪人だ」と言いたかったりすることが起こるとしても、私は私に固有の事情によって、私をどちらかに片付けるということはできない。たどり着くべきところへ不断に向かっていながらいつまで経ってもたどり着かない物語が『銀河鉄道の夜』であるとするなら、おそらく『たぶんこれ銀河鉄道の夜』もそれに似た物語であるだろう。乗客の多さからくる混み合った車両と、それに付随する雑然とした雰囲気が『銀河鉄道の夜』の先を行くものであることは、正確を期すためにたぶんという留保をつけなくてもいいほど明らかなことである。また、藤谷理子演じる美容室の先輩が純粋な二項関係に付け足す第三項になっていたことで、本作が原作の均衡を崩し不純な物語になり得ていたというのは、物語平面上の図画としてすぐ目につくところで、彼女がもっとも脚本上の役得を得ていたと思う。動きと声にキレがあり、舞台上でも目を引く俳優であるということを加味しても、あきらかに良い役だった。彼女は自分がカンパネルラでもジョバンニでもなく、ザネリでもないと思っている。カンパネルラにしてもジョバンニにしてもザネリにしても、相手にとっての自分というものを考えたときに浮かび上がってくる考え方のようなもので、すくなくとも作中での彼女は、そこを目指したいと考えながらもそこに至れないものとして描かれていた。二本のレールの隣を並走する余剰のレールとして無駄に引かれている一本の線という見え方もしたし、その寂しいあり方は、見えない力で物語を支えていたといえるのではないか。

20230317

日記69

未来方向に横切っていく一行

在宅仕事。昼休憩時間に家を出て予約していた『帝国の陰謀』を受け取りに行く。昼飯は富士そばのミニメンチカツ丼セットにする。昼からは打ち合わせなどもありまじめに働く。

仕事終わりの夕方からは雨予報が的中したので外出せず。眠気に従って遅めの昼寝をする。頭の中にジャンクファイルが溜まってきているのを感じていたので睡眠でクリアにしようと思った。期待ほどのスッキリは得られないもののそこそこ整理できたように感じる。

昨日の『別れる決心』は面白かった。物語についてこさせるためにわざとある程度の認知負荷をかけたりして観客を退屈させない工夫が見られたのだが、3回に1回ぐらいはちょっと冷静にさせられてしまうような攻めた工夫も多く、見ていてちょっと疲れてしまった。ただ3回に2回は決まっていると思ったし、面白みを感じた。ふたりで夜の山に登るシーン、ヘルメットにつけた探照灯の白い光がこっちを振り返るところと、そのシーンの終わりに白い光が大きくなってホワイトアウトするようにシーンが切り替わるところがとくによかった。全体を見通せる位置まできたらコメディなんだけど、あまりコメディコメディさせすぎず、大人な演出だと思った。最後の空撮で真上から車をとらえるカットから砂遊びまで、映っている人の必死さとは裏腹に突き放したみたいに距離をおいて撮るのはその案配としてちょうどよく上品だと思った。第一感ではすこし長いかなと感じたけど、これ以上短いと寒々しい感じが出ないので仕方なかったとも思う。実際ノリノリのカメラワークとタートルネックには笑った。



20230316

日記68

 

ゆるやかな坂とゆるやかなカーブとの調和

昨日
在宅仕事。筒井康隆と蓮實重彦の対談本を読む。対談や往復書簡の流儀がしっかりしていてやり取りで魅せることができる対談芸人の大御所同士の対談だけあって読み応えがあった。ふたりとも堂々として押し出しがあるので爺さんポジションが似合っているが、蓮實のほうがより長く爺さんをやっている感があり、板についた名人芸の域だとおもった。慇懃丁寧な語りが可笑しい。爆笑させてくるかと思えばその流れのままほろりとさせたりもしてくるし、まさに融通無碍だった。コース取りから何からすべてを創造していて、体操選手も真っ青なアクロバットを随所で決めつつ、きまった技を繰り出すというのに終始するのではなく見たことのない動きをやってくるので「なによりも自由」だという気がした。身体的な運動神経の発露はおのずから限界があるが、頭と口だけであれば運動神経の表現はその天井をつかわないでもいいので青天井とは言わないまでも、吹き抜けかと見紛うばかりのどこまでも高い天井でやっているため、音の響き方もホールを思わせる。形式的な宿命とたんに形式的以上の宿命のくだりが印象にのこった。その年まで生きていたらそりゃ他に載せる名前もなくなっていくんだから誌面上でかち合ってくるでしょ、とにやにやしていたらそういう話ではなく、まあそういう話ではあるんだけど、もうすこし現実感のある話をされたのできまり悪くなってしまった。爺さんはそういうことを仕掛けてくるからなと開き直って言ってしまってもいいんだけど、そうやって言うことはできても不自然でなく言うことはまあ難しい。まじめと不真面目の境界について考えた論考として蓮實本人が気に入っているという『帝国の陰謀』をつぎに読むことに決めて図書館で予約する。
周囲から期待される振る舞いを知悉しつつ、そこから抜け出して見せるというのが、曲芸的なアクロバットで見るものを楽しませるコツのようなものだ。脱出イリュージョン味がある。自分を縛る手錠や閉じ込められる箱を用意しているのは誰か。もちろんイリュージョニスト自身だ。

在宅仕事が18時半に終わってから、TCBの三人で新宿に集まり外飲みを敢行する。新宿駅南口の広場は気に入っている場所ではあるんだけど電車の音がうるさくて声が通りにくくなるという欠点があることを見つける。
それでもここから見る景色は良いのでたびたび使っている。
結局、代々木公園に桜を見に行きたいという話になり、いつものように歩き飲みになる。千駄ヶ谷から原宿を抜けて代々木公園に行ってちょっと休憩がてら座って飲み、吉野家の牛丼を食べる。竹下通りの店舗があまり良い状態ではないのか時間帯なのかわからないが、牛丼がちょっと臭った。NHKのほうに歩道橋を抜ける定番コースで渋谷まで行って、23時半ごろ帰る。19時半ごろからあるき始めたのでたっぷり4時間ちかく歩いている。いつも大体そのぐらいになるけれど結構な飲み方だと思う。ただ続けられるかぎり続けていきたい。安いし、街を歩きながらなので店で飲むよりある部分ではリッチな体験だと思う。あと安いし。
店での外飲みをしたがる人がいるというのはこのリッチ体験を追体験したいのだろう。しかし残念。彼らに移動の自由はない。ただ座るべき椅子は用意されているので一長一短といったところか。

今日
在宅仕事を今日はわりときちんとやる、つもりだったけど夕方以降に失速した。『帝国の陰謀』を予約したのに図書館に回送中だかで受け取れず、仕方ないので古本屋にいく。と、大江健三郎の『遅れてきた青年』の文庫を見つける。220円という破格で嬉しくなる。大江は『万延元年のフットボール』だけ読んでいてすごく面白いと思ったはずなのにべつの作品には手を伸ばしておらず、ほかに何があるのかタイトルも知らないぐらいで、あらすじもいつ頃書かれたものかもわからないが、遅れてきた青年という語感が今の気分に合ったのでもし3倍の値段がついていても買って帰ったと思う。図書カウンター近くのブルックリンスタイルのカフェですぐに読み始めると、中身はイメージしたものと全然違ったものの、自分の軽薄なところを度外視すれば妙にぴったりくるとも言え、最初の数ページから引き込まれた。必要ある小説だけがもつ何かがあって、それに触れているとすくなくとも触れているうちだけは背筋が伸びる感覚になる。
ブルックリンのカフェは雰囲気が良くて気に入って使いはじめようとしたのだが、カフェ席が飯席と区別されているということを知って止めにしてしまった。

これまで訃報には触れないというルールでやってきたが、90以上とかで死んだ人については触れてもいいのかなと思ったりもしてきたので近々ルールが緩和される見込み。
儀礼的な側面から止めておこうというのもあったが、より大きいのは死というものに言及したくないというのがある。そのため結局ルールが緩和されることはなかった。現実の死ほどつまらないものはない。フィクションならともかく。
あと、文体というものを無視してきたが、そろそろ取り組むべきなのかもしれない。べきというか取り組みたいと思いはじめているような気がする。文体のことを考えさえしなければ自分には文体はないで通せると思うようにしてきたがそんなことはないわけで、そんなことするのは遠回りなだけだし、遠回りは遠回りでも目的地のない遠回りという感じでただの「回り」にすぎない。
文体のことを考えないで何を考えているのかというと、こういう自己言及的な内容ばかりなわけだし、そこからストレートに文体をオブジェクトとして考えればいいだけのことだ。
でも、文体ってどう考えればいいんだ。調子を一定に保つみたいなことをイメージしているがそれで合うのか。ふらふらするならふらふらする、かっちりするならしばらくはかっちりでいく、みたいにある程度のスパンを同じような調子で書き通すということだと思っている。なので意識してそれをやる。
文体のことを考えるというのはニアリーイコール自分の使う文体を改造するということなんだと思うが、このとき自分には文体を改造するという意識はこれっぽっちもなかった。それよりは無意識に作られている自分の文体というものにライトを当てようとするのがこのとき思っていたことだと思う。結局それ自体にも進捗のようなものがあるわけではなく、ただ単に漠然と一文を引き伸ばそうとする傾向があるなと最初からわかっていたことに気づいただけだ。もっと短文を駆使していくやり方というように切り替えを意識してみても良いかもしれない。
この後新宿に『別れる決心』を見に行く。

20230314

弱いロボットの思考を読んで

ロボットは機械なので「弱い」という性質を黙って受け取ってくれる。コミュニケーションについて相手にもたれかかることを前提とするような性質を「弱い」と表現するとして、「弱い人間の思考」というのでは粗が出るところだが、客体がロボットであれば文句も問題もでない。それにかこつけて、通りが良いように弱いと言ってしまうのは、それが理解される感性の限界を示してしまうことになるのではないか。
それを回避するためにはふたつやり方がある。ひとつは「弱い」という性質の意味を押し広げ軟化させること。もうひとつはロボットを完全下位の存在として定位してしまうこと。前者は遠い道のりになってしまうこと、後者は示唆されるヒントを条件付きのものにしてしまうことがデメリットとして挙げられる。
志の高さを感じさせるためには前者を選ぶしかないが、実際にどういったことが起こるかといえば、暗黙に想定される志の高さに隠れて、受容自体は後者の捉えられ方にとどまるということが起こると考えられる。自分が得をするかたちでの誤解を訂正せずに黙っているのは、明らかに機械にはない性質だが、それはこの本で切り分けられる「弱い」とは異なるものであるだろう。実際には同じものなのかもしれないが、少なくともこの本のなかで語られる「弱い」ではない。
そもそもロボットを対象とする形容としての「弱い」は、それに対置される「強い」とともにかなり限定的なものであり、その定義は人間的な弱さよりだいぶ狭い。にもかかわらず、人間的な弱さをイメージさせる力を持っていて、まるで「弱い」一般のようにそれを利用しさえするので話がややこしくなっている。ただ個々のエピソードというか開発されるロボたちの話は具体例として適格という以上に魅力的で、あくまで理解のために引かれている補助線が良くない。
とはいえ、その惹句に惹かれてその概念を知り、その題の本を読もうと思ったのは事実なので仕方ないと思う部分もある。読む側で微修正すればいいだけのことだとも思うし。
続けて同著者の『ロボット 共生に向けたインタラクション』を読んでいるが、4分の1ほど読んだ段階でほとんど同じ内容なのが気になる。おかげで読みやすいは読みやすいのだけど、新しい箇所がないと読む意義はうすい。

日記67

舗道の下には土がある



昨日
スタバからの帰り道に酒を飲む。ちょっと調子に乗ってちょっと飲みすぎる。帰ってから『ノーカントリー』を見たくなったので見る。1時ごろに寝る。
最初から終いまで見通したわけではないと思うが、もしかすると終いまで見通したかもしれない。いずれにせよこの映画は何回も見ている。十回は越えないと思うがわからない。
インスタグラムの新アカウントを開設する。コンセプトと簡単な運用ルールだけ決まった。固定ハッシュタグがまだ決まらない。とりあえずは#tokyocoolだが、それ以外の被らないハッシュタグはないか。一日一投稿。1年で365投稿。腕を上に伸ばして下向きの角度で撮ること。
uekaramesen_street
これが一日も欠かさず一年中続いている。毎日投稿なので厳選するのは土台無理な話だが、それでも良い写真はいくつか撮れた。それに全体を通して見ると傾向がある。自分だけにわかる微妙なものかもしれないけどやっぱり傾向はあると思う。

今日
『弱いロボットの思考』を読み終える。結局、弱いことによるコミュニケーション機能が与えられているという感じがしてしまう。ルンバのように機能から始まって結果的に愛着が出るというかたちがきれいだと感じる。愛玩目的というようになると何かがちがってくるような気がする。犬猫のことを考えると違ってはいないんだろうけど、弱いロボの場合、仕組みを知った上で楽しめるものではないような。ただ、コミュニケーションに関しての考え方のヒントになるのは間違いないし、応用できたら面白いと思う。
弱いロボットに親密さをおぼえ始めるとその過程で「弱い」と形容することが嫌になるというのがある。弱いというのが必ずしもネガティブなものではないと考えようとするけど、それでもいいんだろうけど、どちらかといえば言葉遣いのほうを変えたくなる。
大江健三郎の訃報が出る。読もうと思って本屋を探し回っていた筒井康隆と蓮實重彦の対談本で大江が対談テーマになっているのを知り、アマゾンで購入し読み始める。
在宅仕事が終わってすぐスタバにくる。途中、駅前で上から写真を撮る。
そういえば昨日からマスクしなくてもいいよというおおやけのアナウンスが流れた。マスクなしは楽だし、マスクなしの人が増えてくるのも良くて、やっと収束しはじめたという実感がある。
マスクをしたい人はマスクをしていて不審でもないし、マスクをしている人の割合自体はぐっと下がっていてちょうどいい塩梅になっている気がする。今自分は花粉症がひどすぎる場合にマスクをするような感じで、一年中ほとんどマスクはつけていない。

20230313

日記66

一昨日

午前中はスタバに行く。午後から代々木公園にいく。下北沢の駅構内で権兵衛のおにぎりを、原宿のニューデイズでお酒を買ってピクニックスタイルで過ごす。

先週末にも代々木公園でモルックをやったし、代々木公園は春先の定番になっている。

アイルランドフェスがやっているという情報を持っていたのでNHK側に移動する。アイルランド味の薄い、しょぼいフェスだったのでぐるりと一周だけして、そのまま渋谷まで歩く。途中北谷公演で小休止、RAGTAGに寄って服を見る。PARCOからApple storeに下りていく道で彼女がiPadを買うと言い出し、本当にその場で買う。Apple storeから下った道から横断歩道を渡った先の突き当りが工事現場になっており、そのフェンスに昔彼女がデザインしたポスターが掲示されているのを見つけ、ふたりの(主に俺の)テンションが鯉のぼり式に上がる。「オシャレの中心地渋谷の街並みをクールなカラーで。」その余波で王将に行こうとするも店の前でぼーっとしていたらたちまちのうちに行列ができてしまい、高架下中華はやめにする。

下北沢のツタヤでブルージャイアントエクスプローラの6,7,8巻を買って帰る。

ブルージャイアントを読んでいると、エコーチャンバーという用語に思い当たる。エコーチャンバーとは全然違うのかもしれないが、知識や感情を新しく知るというよりはもともと自分が良いと思っている価値観をそのまま純度高く肯定してくれるようなところがこの漫画にはあって「気持ちよく」感動できる。そういうのは上手く使えれば効果的なブースターになると思うが、それだけに浸りきりになったらかえって不健全だという気がする。そういう気がしてうかうかしていられず居心地の悪さを感じるから結果的に良い漫画だとは思う。レッスン回で代役として教えた生徒たちを通してスティーブン先生と出会うシーンに、「はじめましてという気がしません」に、やっぱりグッときた。あとエコーチャンバーじゃなくてエコーチェンバーな。

おとぎ話を読んでもらうときの面白さには2種類あって、それは未知の物語を知ることと既知の物語と再会することだ。おとぎ話の受容については後者のほうが大きいのではないかと思う。自分の中にあるものと外にあって読まれるものが同じだというのを確認して安心するというのがおとぎ話の楽しみ方なのではないかと思う。正しい物語によって安心できる効果。ブルージャイアントの感動もそういうのに近い。

感動に良い感動とそうではない感動があると思っている人の意見だ。建前の上では感動に貴賎なしと言っておきたいが、実際には貴賤あるしな……という感じなのかもしれない。他人を考えの要素に含めるのであればやはり建前は重要だ。しかし、その言い方をしていたらありうべき「本音」がありそれが本質的だというミスリードにつながるのでこの言葉遣いはするべきではない。ただ単純に自分のことだけで考えるときと他人を勘定に入れて考えるときにはスタイル上の変更をきたすということで説明がつくのではないか。

寝ようと思いつつも三笘のブライトンの試合をフルで見てしまう。ブライトンはわかりやすくリスクを背負うサッカーをしていて面白い。

DFとGKを含めた最終ラインでもつなごうとするのはゲームのやり方だと思っていたがそれを現実のものにしているところに驚いた。


昨日

朝の時間は読書会。この日もみっちり2時間以上かける。空腹になったので昼すぎにピザを食べに行く。外席に座ってNYスタイルでピザを食べていると通りがかりの知り合いに声をかけられる。サウナに行ってきてこれから美容室に行くんだと教えてくれた。

まさに明るい人で、誰に対しても気後れすることとかないんだろうなと思わせる。

アンティーク雑貨屋に行く。彼女が皿を買う。薬局に寄って切れていたティッシュとついでに洗濯用洗剤の詰替え用を買う。帰って確認してみると詰め替え用の洗剤は新品がまるまる余っていた。

ストック癖は自分の生活上でわかりやすく攻撃をうけやすいポイントかもしれない。

帰宅して図書館で借りてきた『弱いロボットの思考』岡田美智男を読む。夜は日干しの骨なし冷凍縞ほっけをフライパンで蒸し焼きにしたものとオートミール粥を食べ、すこしの日本酒を飲む。

翌朝は早出なので9時過ぎ就寝目標を律儀に守り、9時半には寝てしまう。


今日

早出だったので15時半には退ける。渋谷スカイにme'の展示を見に行こうとしていたがスカイのチケットが売り切れだったので諦める。代わりに『Winny』を見に行く。あまり期待できないと思っていたので期待していなかったが、期待していなかったのは正解だった。残念。

演出がまずいので役者の演技がもったいない。それでも自走できる役者は、具体的には吹越満や皆川猿時、三浦貴大は、映画を力強く引っ張っていて存在感を示していた。自走はできないけど置き場所によっては輝く名の知れた俳優が割りを食っていたと思う。具体的には東出昌大、吉岡秀隆、吉田羊。このなかで吉田羊はとくにかわいそうで、短い出演でただ泣いていただけだが、かなりの無駄キャスティング無駄泣きだと思う。そういう賞があったら受賞するにちがいない。

社会的な意義を問い直す系の映画の責任は重い。面白くなかったりクオリティが低かったりすると、二度目の殺人のような結果になってしまう。

スタバに行って『弱いロボットの思考』を読む。

133p

では「倒れそうになる動作をむしろ歩行に生かす」とはどういうことだろう。発想のベースにあるのは、「倒れないようになんとか踏みとどまる」のが大変ならば、むしろ「倒れてしまうことを前提に、そのバランスが崩れたら、それを修復すればよいのではないか」という楽観的なスタンスであった。

地面と他者とを並置するピリオドもあって、感覚的に正しいと納得できる部分が多い。

自己完結できない倒れ込むようなコミュニケーションには身に覚えがある。そういうコミュニケーションしかやったことがないといっても全然過言ではない。教員を目指していたときには自立したとは言わないまでもある程度掴みどころを用意するコミュニケーションの必要性を感じていたと思うが、結局、それを身につけることはできなかった。面接は今でも苦手だ。

面接といえば、この前英語ではinterviewと訳されるということを知り、自分のなかで面接をインタビューと翻訳した上でそれに向けて準備するという意識でやってみればいいのではないかと思いついた。これが成功したら面接をインタビューと思うライフハックとして世に発表したい。インタビューの予定はいまのところまだないけど。

世にいう面接のことは以降面談ということにしている。受験者と試験官という立場のちがいを俺は一切許容しないことにした。その場合、面接という言葉遣いからあらためるべきだ。実質面接だったとしてもそれをこちらからは面談ということは自分のスタンスにとっては大事なことだ。

倒れ込むようなコミュニケーションに話を戻すと、文章作成も同様の進み方をすることがあり、むしろそうなってから書くスピードが上がるんだというのは覚えがあるとはいえないもののそうだろうなという気がする。この場合は書いたものにもたれかかるようにして書き継いでいくという意味らしい。自分の場合はそれを「書いたものに振り回される」と表現したことがあり、アンコントロールというニュアンスのみでそう書いたのだけど、質ではなく量書くと決めて書くような場合にはそれでわるいということはなくなるのでどんどんもたれかかって意図しないところにふらふらしながら書き継いでいけばいい。

もっと長く書こうとすると、一文の長さがどんどん長くなる。そういうことじゃないんだよ。まあそれでもいいんだけど、饒舌になるというのは、ドリブル試行の回数を増やすことであって一階のドリブルの距離を長くすることではない。まあそれもあるんだけど、それはドリブル距離を伸ばすための方法のひとつにすぎない。しかもあまり効率的なやり方ではない。

20230311

西播磨展望台でのこと

情ハム


西播磨展望台でのこと

高校の時の友人たちと、卒業旅行の一環で西播磨展望台に併設されているコテージに泊まりにいった。卒業旅行といっても高校卒業後専門学校に通っていた友人の卒業旅行だったため、大学にいった私はまだまだのんきな学生の身分であった。

時期は3月でまだまだ寒かったのだが、道中でBBQの食材と酒と花火を買い込み、旅行のテンションでなぜかトランプとプラスチックバットも買っていった。到着してすぐの昼間は、これまた併設されていたバスケットコートで3on3をやって、夕方ぐらいから飯の準備をして飯を食い終わるとあっという間に夜の時間になっていた。星を見たのはほんの言い訳程度の短い時間にすぎず、そのあとは酒を飲みながら罰ゲームありのトランプゲーム(たしか大富豪だった)に興じた。夜通し飲んで、何を喋ったのかもろくに覚えていないのだが、とにかくプラスチックバットが「ケツバット」という罰ゲームの役に立ったということだけは覚えている。

3時すぎになって、友人のひとりが急に翌日の用事を思い出したようで「帰らないと」と言い出した。展望台は山の上に位置していて、基本的には車がなければ来られない場所にある。しかし30〜40分歩いた先に駅があった。友人はその駅から電車で帰るという。まだ暗いしその駅まで歩くのは大変ではないかと思ったが、酔っているのもあって、面白そうだし付いていくと申し出た。

当時の携帯電話のライトは申し訳程度の貧弱な光しか発することができなかった。コテージがある場所から一歩離れるごとにありえないほど暗くなった。一寸先は闇という言葉が言い表しているのはこういうことだったのかという発見があり、夜の山のおそろしさを初めて知った体験だった。歩こうとした道は、獣道でさえなく、舗装こそされていないものの普通の山道だった。しかし、帰ろうと焦っていた友人でも全然無理だと諦めるぐらいの本当の暗さがそこにはあった。あそこまで暗いということは月のない夜だったのかもしれない。一歩ごとに深まる闇に視覚が奪われていくにつれ、森のやかましさがぐんぐん前に出てきた。星を見上げるということは思いつきもしなかった。友人と私は、自分の足で真っ暗闇へと近づいていく過程で「これは無理だ」という感覚を、たまらず振り返った先のコテージから漏れる光のありがたさを共有した。

われわれは20歳を過ぎてもまだ山の夜道というのは歩けたものではないということすら知らなかった。街で生まれて街で暮らしてきたからだ。

朝日が空を明るくするのをコテージでしばらく待ってから、友人はひとりで駅まで歩いていった。


20230310

日記65

昨日
スタバの後さすがに酒のんで帰る。ビレバンでブルージャイアント買おうと思うも置いていなかったので蔦屋で5巻まで買う。帰って読むと4巻までは読んでいたことがわかる。しかし今読んでよかったと思えるので結果オーライ。いつ読んでも今読んでよかったと思える疑惑があるけど。
一応プランクもする。一応というのは180秒一気にではなく60秒×3セットにしたから。だいぶイージーになったので追加でもう60秒。
彼女のpixel6aの設定が押して寝るのが遅くなる。1時過ぎに就寝。

今日
在宅仕事。集中してやれば1時間半で終わる仕事をだらだら7時間かけてやる癖が発動。1時間半で終わらせた後勉強するのがベストなんだけど、勉強するのも面倒なのでだらだらオーディブル聞きながら仕事しているふりをする。しかしオーディブルのほうに集中できるほど無になれる作業でもないので結局どっちつかずになってしまう。レイモンド・チャンドラー『高い窓』は読みやすいというか聞きやすいのでぎりぎり何とかなる。聞いているうちに誰かが誰かに殺された。何のことかわからないし全然何とかなっていないのかもしれない。誰に殺されたのかは謎だけど、誰が殺されたのかは謎ではないはず。
ちなみに朗読サービスは図書館で借りれた芥川龍之介の河童(c.v橋爪功)がベスト。江守徹の中島敦『山月記』もだいぶ良かった。日下武史の漱石『硝子戸の中』も。オーディブルはイントネーションも完璧とはいかず数勝負という感じがある。
スタバにいってドリップコーヒーをたのむ。夕方までに一日分の紅茶はすでに飲んでいたし、さすがに摂取カフェインが多い。
隣の席の女子高校生だか大学生の二人組が予定にどの男を誘うかの打ち合わせをしている。決まったらその場ですぐに連絡し、しばらくしたら「来るって」と報告していた。スピード感がある。ひとりはなんか言うときに指パッチンをする癖があってべつにいいんだけどちょっと気になる。いつもするわけではなくしないときもあるのがまた。
飲むときの話とかしているので高校生の線は消えた。最近高校生は中学生にみえるし、大学生は高校生にみえるのだけど、年齢がいくとそうなるのか、実際に見た目があれしているのか、どっちなんだろうか。べつにどっちでもいいが。
小説を書かなければという謎の使命感と久しぶりのカフェインとが相互に作用して、下の文章を書かせた。


情報ハムレット
通称:情ハム

ミュートのまま5分ぐらい喋っていた。
だれか教えてくれよと思う。無理な話ではあるんだけどそう思うことは止められない。逆ギレというと激しい反撃のニュアンスが伴うので、そこまでいかないのは当然だとしても、自分がわるいしそれを認めるのにもかかわらず、心情的には反感をおぼえるという状況は普通によくあると思う。普通によくあるのにそれを言い表す言葉がないというのははっきり言ってチャンスなのだが、こういう場合によくあるのは、そういう言葉がすでに存在していて、それを自分が知らないというケースだ。そうやって悔しさの上塗りをするのも癪なので反動思考もいい加減にしておく。ミュートを解除し、何食わぬ顔で5分前と同じことをリピートする。

0か1か、それが問題だ。
情報社会とは言っても、煎じ詰めると、やり取りされるのは0か1どちらかの信号でしかない。さまざまなプロトコルでがちがちに構築されたデータ通信も、一枚一枚ヴェールを剥がす手間を惜しみさえしなければ0か1かにたどり着く。
途中、暗号化という謎掛けをされることもしばしばではある。だが、その謎にしても解読できないというところにしかない。鍵があってそれによって解読されるということがわかっていれば同上である。
これらはすべて古典の話である。今は0と1のそれぞれにグラデーションがある。文字通り”無数の”グラデーションで、弱い1、もっと弱い1、それよりは弱くないもののやはり弱い1というように、0か1かとばかりは言っていられない状況にある。もちろん弱い0や強い0もある。昔の人は知っていなかっただろうと思われる0があって、今の人たちのあいだではそのことは常識になっている。ただし、当然そんなグラデーションを扱うのは人間の手に余ることである。グラデーションを計測する専用の機械がその任にあたっている。つまり状況を簡単に説明するとこういうことになる。われわれには知ってはいるけれどわかっていない事柄があり、それがこの社会を動かしている。
システムがどういう仕組みで動いているのかを人間にもわかる言語で説明するシステムもある。専門的には「翻訳システム」とよばれているが、可逆性はなく、翻訳された言語を再度システムの側に流し込んでもエラーを返すだけである。システムに言語をインストールしている場合には自動的に再翻訳し、もとに戻すことはできる。この場合、言語はひとつの暗号鍵の役割を果たしているといえる。
ここから導出される結論は「システムはいい加減な説明をしている」というものであり、そのことで腹を立てる人間は一定数いるものの、大半は仕方ないことだと考えており、有り体に言って受け入れムードである。言語の側、あるいは人間の理解の側に問題があり(問題というのは先天的機能不全のことだ)、それにもかかわらず伝達しようと頭を悩ましたシステムの側で、なんとかひねり出した説明形式ということになる。腹を立てて破れかぶれになった一定数の人間はそれをマキグソと呼ぶのだが、一般にそれはシステミ(systemi)と呼ばれることになった。

システミ systemi
システミの見分け方は簡単で、それが怪文書であるかどうかである。怪文書と呼べるかどうか、それがリトマス試験紙の見分け方になっている。読んでみると書かれてある内容は理解できるのに、内容の中身が理解できないというのがここでの怪文書である。よくある間違いとしては内容そのものが理解できないように構成された文書を怪文書と捉えることが挙げられる。
やがて暇な人間は、自分たちの手で擬システミを書き上げようとした。システミの「理解できるのにわからない」という特徴に面白みを感じ、それを制作したいと考えたのである。人間の制作した擬システミの完成度を計測するシステムもすぐに開発され、これで遊んでいろと砂場とスコップを渡されたかたちの彼らは、おとなしく、それでも彼らなりには過激に、擬システミの作成に奔走した。
優れた点数が付けられる文章を探してきて計測システムに通してみる遊びも発明された。しかし、全文書アーカイブを計測システムに通して上から順に点数をつけるシステムがすぐにあてがわれ、遊びはすぐに終息した。そのことで既存の文書の可能性はすべてが明らかになるというかたちで絶たれ、新しく文書を作る以外の遊び方はできなくなった。
擬システミは、それが未完であれば高い点数が付けられる傾向がある。そこに目をつけ、わざと未完の作を提出するものが現れたが、その場合には点数はあまり捗々しくなかった。制作者の不慮の死によって途中で終わってしまった未完の作は、同じ制作者による他の文書よりも高い点数がつけられることが多かった。そのことで結果的に彼らは、少なくとも点数の観点からは希望を持って制作できることになった。自己ベストは自らの死後更新できるという見込みは、彼らの薄暗い人生観を仄明るくした。

ロッドとは
パーマをかけるための器具を髪の毛に巻きつけたまま長いエスカレーターを降りていく女の人を見た。エスカレーターを降りるということはコンコースに向かっているということであり、それは彼女が電車に乗り込もうとしているということを意味していた。急いで美容室を飛び出したのではないことは、彼女がエスカレーターを歩くという禁を犯していないことからもうかがえた。ベルトに左手を乗せ、目線はまっすぐ前より少し下に固定されており、おかしな様子は見受けられなかった。格好も20代後半の女がこのあたりでよくする服装から逸脱しているわけではなく、頭をのぞけば何もおかしなところはなかった。しかしパーマを掛けるための器具一点だけが奇妙で、彼女の落ち着いている様子がかえって好奇心を掻き立てた。これほどまできれいに普通が奇妙に反転する例をすぐには思いつけない。
たまらず検索したところ、今春から始まりつつある新たな流行のヘアスタイルなのだということがわかった。反転した奇妙はもう一回転して、もとの普通へと戻っていった。
しかし、それからしばらく経って気づいたのだが、それ以降一度も外出先でそのヘアスタイルを見ることはなかった。そのことに気づいてたまらず検索したところ、その奇妙なヘアスタイルの情報は見つけられなかった。そもそも何と検索すればいいのかもわからない。あのとき長いエスカレーターを降りながらどうやって検索したのか思い出せないし、ひょっとするとあれは夢なのではないかと思い始めた。しかし、どう思い返しても夢だったという気がしない。ただ、寒い日だったから季節は冬だとしても、あの日私は電車に乗ってどこに向かっていたのだったか、それを思い出せない。
私には日常的に写真を撮る習慣がある。また、位置情報を記録するデバイスをつねに身につけている。仕事以外で電車に乗って出かけた日というだけで、それなりに候補をしぼれるし、候補日の写真を見ているとなんとなく一日の過ごし方を思い出せることも多い。2月9日か、2月15日のふたつの候補にまでしぼることができた。その日の検索履歴を確認する。2月15日はそもそも検索をしておらず、結果、2月9日がイベントの日ということになった。検索履歴のなかにそれらしいものがあった。
【ロッド ファッション】
ロッドというのは調べてみると「パーマをかける際に髪の毛を巻く、プラスチックなどでできた筒状の用具」だという。私は、今このときにも「ロッド」という単語を知らなかった。だが検索履歴には「ロッド」という単語が使われている。そのことを不思議に思っていると、だんだんと、その日私はひとりで行動していたのではなかったという記憶がうっすら浮かび上がってきた。誰と一緒だったかということは思い出せず、誰かと一緒だった気がするというところまでしか思い出せない。
私はいくらお酒を飲んでも記憶を失ったことがなく、酔って記憶をなくすという経験に憧れを抱いていたぐらい、記憶については確かである、はずだった。しかし、実際には、その日なぜかひとりで行動していたと思い込んでいたし、今も誰かと一緒にいた気がするという不確かな状況しか思い出せない。そもそもなぜ電車に乗ったのか、どこに向かっていたのだったか、これらすべてが全然思い出せないという事態を目の当たりにして、私の記憶にはぽっかりと穴が空いているということに気がついた。おそらくは、ついに、やっと、とうとう気がついたのだろう。起きた瞬間に見ていた夢のことをまったく思い出せなくなるあの感触が寝る前から現前している。置かれている状況からすると、もうすこし途方に暮れてみても良さそうなものなのに、現実感のなさと私の知らない私の存在の予感とに、そしてこの私のものにほかならない好奇心によって、随分わくわくしている。少なくとも今このときまでは。


20230309

日記64

今日も在宅仕事。終わりにスタバに出かける。最近行っている最寄りのちょいおしゃれスタバではなく、駅向こうの地下席のあるスタバ。数年前にほぼ毎日通って一作目の小説を書いた場所でもあるので懐かしい。
ほとんど毎日ペースでスタバにはお世話になっているが、地下席のあるスタバ(通称クラシックスタバ)は、一週間のうち一日ぐらいしか行かない。それもエキウエのほうが満席で座れなかったときの代替案だ。通うにあたっては何よりもまず距離の問題が大きいということの証左だと思う。ジムなんかも施設の充実度より生活動線上にあるかどうかを最優先にするのが良い。

NEATのパンツをおろす。去年、グレーブルーの色味がきれいで一目惚れして買ったはいいが、合わせるのが難しくて全然履けていない。そういう難しいアイテムがちょっとずつ増えていっている。クローゼットの前で頭悩ませるけれど心強い感じがする。今日もあったけど好きなもの同士を組み合わせてもうまくいかないときはどちらかを引かなければならない。たくさん仲間になる系のRPGでパーティメンバーに頭悩ませるときの感覚に近い。好きだけを優先した無茶なメンバーにしてみたい欲求もあるが、せっかく好きな服を着ているのにそれを着てテンションが上がらない事態はまあまあの悲劇なので、冷静になって上着をクローゼットに戻した。
このパンツは本当に履いていない。そのうえもう一本履かないパンツを買ってしまって我ながら愚かだと思う。

昨日は酒を飲まないで帰ったのでアルコール中毒ではないのを自分に証明できた。ただしプランクをやらなかったのでプラマイゼロ。今日はさすがに飲んで帰ると思うが、その代わりプランクはやろう。
去年の冬前からだったか、カフェインを抑えるという試みをしていてそれがずっと続いている。スタバにきても基本はティーで、今日はカフェイン摂りたいなという気分のときだけカフェラテを飲んでいる。有無を言わせずドリップコーヒーだった頃がすこし懐かしい。書こうとしているわけだからコーヒーを飲む生活に戻してもいいかと思っている。さすがにもうカフェイン中毒を治す実験は成功したと考えていいだろうし。
カフェイン断ちの期間はもう終わっている。とはいえ一日の摂取量はスタバのショートドリップ程度なので経度の依存に抑えられている。それよりもアルコールのほうがきつい。あとは体感でもっときついのは運動不足。

そういえば昨日ネットニュースで流れてきたニコボのことをずっと考えている。弱いロボットというコンセプトはくるのではないか。言おうと思えばいろいろ言えるだろうけど、感情を持っていかれているというのが大きい。
弱いロボットの良さは弱いところにある。ロボットに背負わせるのにこれほど適した特徴はないのではないか。人間は保護欲求をある程度満たされると、自分が被保護対象になるとしてもそのことによる不満はかなり低減されるような気がする。AIなどの知で人間をサポートさせるためのボトルネックになっているのはもはやAIの性能ではなく、サポートされる側の感情なのだろうから、それをケアする体制として弱いロボットという概念は今の状況にスポッと嵌るような気がする。
たとえばうちのルンバなどはわりと旧式の型番で、きっちり掃除するということはそこまで期待できない状況になっていることに気づいて久しいが、だから買い換えようというよりはむしろ個体としての愛着が湧くフェーズに入っている。ある程度はルンバにやってもらって、ちゃんとした掃除は自分たちですればいいか、というのは少なくともルンバを導入したときの感覚ではない。
ところで、こういうことを考えるのはNetflixで『PLUTO』がアニメ化されるニュースを知ったからでもある。なんだかタイミングが良い。これはニコボのメーカーが『PLUTO』放送のタイミングをはかって発売することを発表したのだろうかと最初は考えて、そうならとてもクレバーだなと思ったりしたのだが、もうひとつの可能性としては、検索エンジンで『PLUTO』を再生したことで、誰かがこういうのもありますよとさりげなくニュースをサジェストした結果、たまたま(のように演出されて)ニコボにたどり着いたというものがあり、もしそうだとすると導線・結果ともに申し分なく、『PLUTO』を読んでいるときに近未来だったものと現在がすでにつながっているような感慨をおぼえる。あまりの見事さにニコボを購入しようかなと本気で検討しはじめたぐらいだ。
結局、いっしょにPLUTOを見ることになったんだから面白い。しかもPLUTOを見たときの反応というのはこのときには想像することさえできなかった。今から見てもこのときのビジョンはクリアだったと思うが、ビジョンを実現した後のリアルにはその先がある。

ニコボの機能で良いなと思うのは、自分では移動できないが移動したことはわかるというところだ。それによって部屋の中を連れ回したくなるのは明らかだが、ルンバに押されるニコボを想像しただけで、その光景がかわいすぎて顔が綻んでしまう。押されるニコボももちろんかわいいし、仕事熱心なあまりニコボを押すルンバもかわいい。両者かわいいというのが味噌で、相乗効果というのはこういうときに使う言葉だと思う。
幸か不幸かこのビジョンはまだ実現していない。Bに対してルンバがあまりにも凶暴そうに見えるのでとてもじゃないがその絵を見ようという気になれない。

↑2023年5月からメーカーに売られることになるニコボ


↑型落ちになったが元気に部屋を掃除してくれているルンバ641


最近、服やら何やら、お金を使って何かを買うことで楽しみや満足を得ているような気がして、楽しいし満足はあるんだけどやっぱり馬鹿らしいなと思う。
この前なんか「有名人の2022年ベストバイ」みたいな記事をとくに何も思わず、へえー、すげー、かっこいいなーとか言いながら面白く読んでいて、昔の自分だったらもっと反感を持っていたはずなのに、あの気持ちはどこに行ったのかと不思議な感じがする。
まあ、当時は自分の好きに使えるお金が今よりもっと全然なかったから。そういう反感おぼえてもまあしょうがなかった。でもあのとき軽薄だとかそんなものつまらないと思っていたのは半分当たっていると思う。好きな服を買ったり美味しいものを食べたり、ちょっとは良いんだけど、ちょっとしか良くはない。もっと図書館で借りた本読んだほうが絶対良い。間違いない。ただちょっと良いことをするのはわりとラクだし、それなりに満足も得られる。もっとそれがやりたいの度合いを増やせればいいんだけど、手に入るものはどこまでいっても手に入るものでしかないので自ずから限界がありむずかしい。ここは一発あほらしいお金の使い方をして溜飲を下げようかという結論に流れていきやすい。それはそれでもうすこしすぐのところに限度があるんだけど。使えるお金は使える分しかない。
すこしのお金でやっていける能力をこれ以上鈍麻させないようにしたい。

20230308

日記63

昨日
仕事後にいつものスタバに行って日記や映画の感想を書いたあと、誘われて焼き鳥屋にいく。一本50円という破格の焼き鳥屋だが、ビールが580円するので、満足いくまで鶏肉を食えるものの飲み物をたった一杯に押さえたのにもかかわらず3000円した。これでも充分安いのだけど、こっちは破格の値段という錦の御旗のもとに集っている志士という気持ちなので、若干、ほんの気持ち、高く感じられてしまった。食事の最後に買ったほうが奢るという格好良いじゃんけんをして見事勝ったためそう思ったのかもしれない。この日は映画に行かなかったけど、なんだかんだ毎日お金を使っている。
ネクストインファッションS1の最終話を見る。ひとりで見るよりふたりで、この服が好きこれはあんまりとか好き勝手いいながら見るのが楽しいということを知る。もう書いたことかもしれないけど。ちなみにネクストインファッションの感情面の演出はとてもチャチで、CM以上に時間の無駄だと思う。それがなくても十分面白いのに、客を一人残らず楽しませるというポリシーのため余計なことをしている。べつにそれによって台無しになるというものでもないからみんな目をつぶるんだろうけど。
プランク30日間チャレンジはいま何日目かわからないけど180秒まできた。ラスト20秒は気力だけで耐えていたが、いかんせん身体が無理で、プランクの姿勢のままだんだん膝が落ちてきた。最後1秒は際どく膝をつきそうになったし、これ以上はもう無理なのかも。
24時には就寝する。最近は睡眠スコアが90を上回る日も珍しくなくなってきた。

今日
在宅仕事。朝は洗濯機を回す。昼は近所の弁当屋まででかけのり弁当と豚汁を買う。とくに豚汁はセルフサービスなのでこれでもかというぐらい大量に具を入れることができ、とてもお得である。日によっては弁当を買わないで豚汁だけ買うこともある。
とても規則正しい生活が出来ていると思うし、そのおかげで毎日楽しい。でもこうやって安定していると、安定しすぎているのではないかと不安になる。やっていないことはまだたくさんある。できることはまだやっていないことをやっていくことしかないのだけど、全然ちがっていて、そもそもそういうことじゃないのかもしれない。
人を巻き込んで何かをやって、その結果で自分を満足させることはできない。それに挑戦するための能力にさえ欠けている。充分検討したとはいえないけど、それはなんとなくわかった。腹立たしいことに時間もそんなに多くない。遊んでたのしいという以上の何かをやらないとだめだ。誰かに期待していないでひとりでやるしかない。結局誰かに期待してしまうことになるんだろうけど、それでも「自分の思い通りに足を動かしたり手を動かしたりできるのは自分の足や自分の手しかない」ということを肝に銘じておかなければならない。人を動かすのは難しい。そのうえ「思い通りに」となると全然無理。
誰かに見てほしいという気持ちがまったくないというのは、自分で思っているよりアドバンテージになるのかもしれない。アドバンテージと言ってもそれは誰かに見てほしいという願望を抱えた者同士のあがる土俵上のことだから結局ナンセンスなんだけど。それとも、本当はそこで勝ちたい? そうだと思ってみるとそう思えるし、実際そうなのかも。しかしその場合、アドバンテージはそのまま立ち消えになり、ただただひかえめで大人しい性格のひとりの人間がいるだけのことになる。だからとりあえずは前者で押していくことにする。
しかし書くべき小説がない。仮に小説を書くとしてだが、これをやるしかないという切迫感をともなったテーマがないし、それと前者の結果としてナラティブもない。とにかくじたばたしてみるという分別(無分別)もなければやる気もない。
いや、やる気だけはなくはない。ただそれを持続させるだけの気力・体力がない。集中力もない。時間は作ろうと思えばいくらでも作れるが、時間がふんだんにあっても結局はだらだらするだけのこと。
誰かに見てほしいわけではないが、誰かに見てもらう必要はあるということを今思った。主観を磨くためにべつの主観を利用する必要と言い換えてもいい。だから、そのことを踏まえた上で皆、自分のことや自分の成果を見てほしいと言うのか。たんにそういう変な欲求があるだけだと思っていた。迂闊だった。そういう変な欲求があるやつが周りにいるから、それにとらわれて、誰かに見てほしい人間のモチベーションを十把一絡げにして考えていた。
嘘をついているやつがいる。願望を願望するときに、まるでその願望が欲求由来のものであるような顔をして、周りに同調しながら、自分のアドバンテージを駆使してたくみに立ち回っているやつがいる。そいつはべつに嘘をついているわけでもなんでもないのだけど、現にこの俺は騙されていたんだし、嘘をついている嘘つき野郎と言っても(俺の主観上)過言ではない。
騙されていたことは腹立たしいが実際良い戦略だと思うので、これからはその線で行くことにする。
どの意味でも、どんな立場でも「ひかえめ」で良いことはひとつもない。矢面に立たないでいるということはできるが、ここら一帯は一本の矢も一個の石も、泥団子すら飛んでいないのだから、ここで見晴らしの良さを求めないのは高所恐怖症ということでしか説明がつかない。昔から私は、高いところだけは得意だったし、今も高いところにいるのが性に合う。見られることにはなると思うけれど、べつに見られて死ぬわけじゃないんだから、多少の居心地の悪さは飲んで、今よりもっと高いところにのぼるべきだ。誰かに見てほしいからということはわざわざ言わないでもいいが、高いところに上ろうとするのは誰かに見てほしいからじゃないとは言うべきではない。べつに言ってもいいんだけど、戦略上言わないと決めたなら言わないでいるほうが理にかなっている。

20230307

日記62

音楽をやっている友人から連絡がある。DJとして出演が決まっているらしく、その練習をしているという。自分もこれから何をしようかなと思う。
ひとつ思いついていてやりたいと思うことがあるのだが、やる前にそれを日記などに書いてしまうとそれで満足して始めないということをすでに学んでいるので、ここには書かない。
いわゆるひとつのゲームで、期間長めのゲームになることを見込んでいる。ルール・レギュレーションの策定など、準備を進めないといけないなと思っている。誰かの船に載せてもらうのではなく自分ひとりで企画する場合、見切り発車してもすぐに止まるだけのことなので、それなりに用意して臨むことが必要になる。いい加減に何かを始めたりすぐに止めたりするうちにも、どうやら学んでいることもあるらしい。
……やばい。完全に忘れている。ゲームを成立させるために内容を書かなかったことで何のことやらわからなくなった。生きているといろんなことがある……。
在宅勤務なのだが仕事の量が着実に増えてきており、実際に残業はしないまでも勉強にあてる余地がなくなっているのには困った。終業後勉強をするのは、それはもうサービス残業にほかならないという真っ当なコンプライアンス意識がすでに私のなかには醸成されている。
ホットオートミールを食べていると、お粥という料理の完成形は米ではなくオートミールなのだという観念が生じてきた。お茶漬けも然り。お茶を使ったお茶漬けはわからないが、お湯を使ったお茶漬けであれば、オートミールが正解だと確信する日も近い。ただ昼夜どっちもオートミールにするとお腹が減る。ファスティング終えてからもなんとなく糖質制限を軽く続けていて体重が減り、とくに上半身の上半身が薄っぺらくなってきた。肝心の上半身の下半身にうすくなってもらいたい。
この頃はまだ体型に気を遣えているようでえらい。今の自分も感心していないですこしは運動しないと。

『フェイブルマンズ』を見た

面白い映画には2種類ある。
ひとつは何もしない映画、もうひとつはこちら側の面白いと思おうとする気持ちを伸ばしてくれる映画である。
スティーブン・スピルバーグ監督作『フェイブルマンズ』は前者であった。これまで私はスピルバーグ監督の映画を素通りしてきたに等しい。いつも話題作になることもあって一応目を通すということはしてきたのだが、『ブリッジ・オブ・スパイ』を除いて本当に面白いと思うことはなかった。過去の名作『E.T』や『ジョーズ』は見ていないし、『プライベート・ライアン』もスルーしてきた。子供の頃に『ジュラシック・パーク』は見たものの、恐竜が好きなのであって映画が好きだったわけでもなし、この作品によって映画が好きになるということもとくになかった。ただ、今から思い返すと、そのとき、つまり数えるほどしか映画を見ていないときでも、漠然と映画は面白いものだという感覚は持っていたように思う。見る機会は少ないものの、映画を見るということになれば、それは退屈な時間なんかではなく、つねにお楽しみの時間だった。
とくに何の気もなく見た『ジュラシック・パーク』が自分の中でそういったイメージが作り上げられる柱のひとつなっていたことは確実だろうと思われる。それでもドラえもんやゴジラ、ジブリが果たした役割のほうが私個人のなかでは大きいのだが、普通に海外の映画があって、しかもそれが面白いに違いないと疑いなく思えたのは、『ジュラシック・パーク』の経験があったからだ。そういったことはとくに意識していなかったし、これを書いている今も若干こじつけている感があるものの、今回『フェイブルマンズ』を見て、時間遡行的にそういうことを思った。この映画は、他の映画で私がほとんど無意識的にそうするように面白いと思おうとすることなく見られて、しかも無上に面白いと思えるのだ。
積極的に面白いと思おうとする心性は私にとっては癖のようになっているし、とくに小説などの場合、それをしてはじめて面白いと感じられることがほとんどなので、これで合っている、これが正しい姿勢であるとも思っている。面白いはずだと考えて積極的に作品に向き合わないのは、私に言わせれば、とげとげの厄介な殻があるからという理由で栗を見捨てることになる森の動物に近い。森には他に食べ物があるし、べつに栗に固執しないでもかまわないのかもしれないが、それでもひとつ言えるのは、栗には他に代えがたい美味しさがあるということだ。一度栗の味を知ったら、それがない生活というのはその分がへこんだ形となってあらわれるしかない。
『フェイブルマンズ』が良かったのは、いつも人の顔が中心にくるところだ。
スピルバーグの「自伝的映画」ということで、昨今のミュージシャンを題にとった伝記映画のように、すごいけど面白いと思おうとする心が多く必要とされる映画になるのではないかと危ぶんだところがなくはなかったが、実際に見てみると、それはまったくの杞憂だった。
自伝的映画ではあっても、他の伝記映画にある残念な部分がないのは、スピルバーグが監督としてスタートするまでのいわば前夜譚を映画にしているというのがひとつ、あとはスピルバーグ自身の願望が入っているというのがひとつだ。スピルバーグの願望というのは、それはセリフや文字の形で一言も言い表されていないことだが、家族がどんな顔をしていたのかを確かめたいというところに尽きると思う。場面場面で少年スピルバーグの心に残る言葉を発した家族は一体どういう顔をしていたのだろうというのは、時制こそ過去であるものの、スピルバーグ本人にとっては後ろではなく前にあるものであり、探しあてるべき表情だったのにちがいない。
学生時代に撮った戦争映画で主演したドイツ将校がどんな悲しみの顔をしていたのか、それを撮れ(見れ)なかった心残りと同じような、心残りというにはもうすこし強烈な、それを知りたいという欲求がスピルバーグを突き動かしたのだと思われる。
ポール・ダノとミシェル・ウィリアムズは、言うまでもなく素晴らしい俳優であるが、それを超えて、誰よりも幸運な俳優であると言わざるを得ないだろう。とくにミシェル・ウィリアムズが見せた、特別上映された映画を見る顔(顔というのは動きとともにあるものだということがはっきり浮かび上がってくる)は、特別な才能があればできるというレベルを超えている。俳優が映画を助けるというケースは数少なくないと思うし、映画が俳優を輝かせるというのも多くある幸運なケースだろうと思うが、その最上の形があらわれている。顔を撮るということ、それが映画のやることだという「答え」に、私は最近になってたどり着いたのだが、この映画はその傍証になるはずだ。
「思うように生きなければ私ではなくなる」という言葉と、「私たちの
あいだにエンドはない」という言葉だけが頭の中に残っていて、それを言った当人の顔がどんな表情をたたえていたかということを忘れてしまっていたとすれば、それが映像として残っていなかったとすれば、それを撮影したいというのはもっとも自然な欲求のように思われる。私は映画監督ではないけれど、なぜかこの欲求こそが一番強く自然のものであるという確信を持つことができる。それは映画『フェイブルマンズ』がある点において一貫しているからだ。
面白いと思おうとする余地がまったくないほど隙間なくみっちり、『フェイブルマンズ』はただ面白いだけの何もしない映画である。

20230306

日記61

昨日朝、オートミールを食べ、昼からは久しぶりに新宿西口に行った。あるでん亭という店でパスタを食べる。三角広場という最高のスペースの芝生コーナーでのんびりしたあと、iPhoneを購入しにいく彼女について電気店に向かう。auの謎の「総合的な判断」で分割の審査がおりず、待たされた挙げ句、結局購入できなかった。彼女は前日に美容室で髪の毛に赤っぽい色を足していたのだが、それが全部逆立ち、まさに怒髪天を衝く鬼の形相で、道行く人と肩でもぶつかろうものならボコしてやるというものすごい剣幕で歌舞伎町を早足で歩いていた。怒りのあまり手もぶるぶると震えており、そのことを指摘すると、その手でみぞおちを殴られそうになった。指摘しながらそうなることを予期していたので飛び退いて躱したが。
三角広場の居心地はとてもよかった。その後M-1の敗者復活戦で使われることになるとは予想していなかった。しかし正直漫才するのに適した空間とはいいがたい。天井が抜けるように高いし。

大塚家具で理想のソファについて考えながら実際に休憩してみる。その後ちょうどいいサイズのカバンを探して、駅のミロードの買い物に付き合う。とくに良いのがなかったからここでも購入せず。前行ったRAGTAGについてきてもらう。例のモッズコートを着てみせると悪からずということで、結局これも購入してしまう。ついでに3000円で青シャツを買う。
このモッズコート、それなりに着ているもののすべての春物コートがそうであるように費用対効果が高いとは言いがたい。間違った買い物ではなかったと自分に言い聞かせるためにできるだけ袖を通そうとしているきらいがある。

下北沢の観光客向けっぽい古着屋で黒い布カバンを購入。その後ThePIZZAで二切れピザを誂えて帰宅。最高の休日だったので、終わるのが惜しくて悲しくなった。とはいえ週明け月曜は7時出勤のため、速攻で床につき、速攻で床についたのにもかかわらずちょっと動画を見てしまい寝る。

今日
早出のため仕事が15時半で退け、渋谷駅のエクセルシオールカフェでブログ記事を書く。この後18:15からは『フェイブルマンズ』を見る。若干の寝不足は否めないものの楽しみ。
寝不足をものともしない面白さで、ぐいぐいと引き込まれた。スピルバーグが面白いというのは当たり前のことなので面白いのだが、昔もっと冷淡だった頃がすこし懐かしくもある。質の高低を横目に見ながらもほぼ好みだけで突っ走っていたあの頃。大学一年から二年のあいだ。

『エブリシング・エブリウェア・オールアットワンス』を見た

下北沢のOscarというビーガンアメリカンチャイニーズのお店で昼食をとったあと、TOHO新宿のIMAXレーザーで『エブリシング・エブリウェア・オールアットワンス』を見た。

SFの特徴のひとつに「愛の物語を真っ向から描ける」というものがある。「何度生まれ変わってもあなたと結ばれる」という仮定の話について、それに近い内容を示すことができる。たとえばパラレルワールドやいわゆるマルチバースのなかで、いろいろな選択があり得るということを示した上で、結局、どの世界でも隣にいるのは同じ人だったと描くことで運命というものの輪郭を描出することができる。それがSF的な舞台装置によってなされることのひとつだ。
いろいろなディテールがあるにせよそのメッセージはどれも似通っていて、物語上の新鮮味はSFという言葉からイメージされるほどない。もちろんSFを初めて見る場合には、「なんだこれは」という驚きはあるだろうが、小説・漫画・映画などの主だった作品に2,3作品ほど触れれば、どれもコア部分は代わり映えしないということに気がつくだろう。
映画などのビジュアル作品の場合は、これまでになかったような新しい描写を発明することによって「見たことない」という驚きを与えることはできるし、映画好きやSF好きにとってはおそらくそこの部分を多く楽しみにするものなのだろう。
私はSFとされる特定の作品に触れた当初から、そのキーメッセージのほうに惹かれてきた。今になってもやっぱりキーメッセージの部分にもっとも心動かされる。経験上「そうなるんだろうな」という方向そのままに物語が進んでいったとしても、毎回どうしても感動してしまう。SF映画については、感動するということを確認するために映画を見に行くようなところがある。それを不健全だとは思わないまでも、客観的にみてセンス・オブ・ワンダーには欠けると感じる。
しかし、『エブリシング・エブリウェア・オールアットワンス』を見て、良かったと感じるのは紛れもない事実だし、同じような映画をあと20回ぐらい見たとしても心が動くんだろうなという感覚がある。
もちろん、同様の映画の中でも『エブリシング・エブリウェア・オールアットワンス』の出来が良いということはある。パターンが決まっているにせよ並び方・順序が的確で、場面の連なりにしても考証がなされたうえで氷山の一角として画面を構成しているのを感じさせる。アルファ、ベータ、・・・というマルチバースの並べ方は全体数から考えたときに割り振るシリアル番号として適当とは思えないなど、瑕疵がないとは言えないものの、アルファ・ウェイモンドの闘い方が他のウェイモンドと明らかに違うところなど、逆算する形でウェイモンドにとってのエブリンの存在の大きさを感じさせる描写があったりして、少し遅れて「ああそうか」という切ない感慨を抱けるようになっている。彼が最後に何を見て人生を閉じたかということを考えても、最初のほうで提示されたガラスが割れるようにして二重に割れるビジョンという演出の必然性を感じさせるもので、映画の画面として描かれなかった箇所にも物語(主観)があるということを想起させる。こういうのはやはり品の良い演出である。演出が良いというのはこの映画のポイントだ。

そして私にとってはもうひとつポイントがあった。それは作中に印象的な比喩として出てくる真っ黒いベーグルである。この黒いベーグルが何の比喩になっているかといえば死のイメージの比喩であり、その描写はかなり直接的なものとして感じられた。それが表していたのは生々しい迫ってくるような死の恐怖のイメージそのもので、ほとんど私の頭の中から出てきたものかと思われた。昔、自室で突然〈死の恐怖〉にとらわれたときのことを思い出した。ここでいう〈死の恐怖〉というのは、死後何もないということを想像して、そのどうしようもなさに震える経験のことである。私の場合、その恐怖が迫ってくるときのイメージが視えたのは、目の前に黒い球体が迫ってきてどうしようもなさだけを感じるというような形でだった。ベーグルのように穴が空いていたということはなく、黒々とした密度の濃い黒が視えたのだが、そのときのことを思い返してみると、たしかに穴が空いていたともとれるかもしれない。ただしその穴の向こうには黒いドーナツ状のイメージよりもずっと黒いものがあって、それがあまりに黒いから穴が空いているように視えないだけのことだったのかとも思われる。とにかく黒かった。黒というのは光がないということの謂いで、とにかく何もなかった。それを視たのは20歳ぐらいの頃に一度だけで、時間帯は夜だったのだが、そのときあまりのことに部屋を飛び出したのだったか、それともそのまま寝てしまったのだか覚えていない。それまでも死の恐怖にとらわれることは度々あって、今でも定期的にその恐怖が容赦なく襲いかかってくるのだが、あんなに具体的にビジョンを持てたのはその一回だけだ。
『エブリシング・エブリウェア・オールアットワンス』がたんに良い映画であるというのを超えていると思うのは、エブリンとジョイの和解があったあとにもベーグルは消えないというところだ。ヒーローものだったりヒューマン・ドラマだったり、ジャンルを問わず普通の映画は観客に希望を見せる。たとえ一度は黒いベーグルを見せるような過激な映画であっても、希望の光を添えることを忘れない。愛・強い気持ち、呼び方はさまざまにあるが「それ」に照らされてわれわれの生はある。何はともあれ、今、われわれは生きている。そういうふうに帳尻を合わせ、気持ちが晴れるメッセージを錨のように沈めて、われわれの魂が漂流してしまうことを防いでくれる。つまりベーグルというのは逆説的にそこに光を照らすためのキャンバスとして規定されることが多い。
私自身もそういう物語の多くに心を慰められてきた。何度となく救われるような気持ちになってきたし、これからも心底助かったと胸を撫で下ろすような経験を映画や物語に与えてもらえることを期待している。
しかし、はっきり言っておかなければならないのだが、いつか死ぬからこそ人生は美しいというのは嘘だ。いつか死ぬという事実は、人生の瑕疵に他ならず、絶対に許してはならない不条理である。たしかに、死ぬことをどう捉えようと結局は死ぬのだからそれと折り合いをつけようというのは賢明な態度だとはいえる。だが、それは仕方なく折り合いをつけるということにすぎないのであって、結局は自ら慰めることでしかない。自分の考えだけではどうしても足りないから他人の存在を使って折り合いをつけようとするのも、それしか方法がないとはいえ、それをかんぺきにこなせたところで何の解決にもならない。
ベーグルを前にしては寒々しい気持ちになるしかない。だからできるかぎりそれから目をそらし、違うことを考えようとする。楽しいことでも苦しいことでも悲しいことでも、意識を向ける対象があって心が忙しくなればなんでもいいのだ。……だが、それが不可能になってしまう特異な状況があって、自分がそんな状況に置かれてしまうとしたら?
じつは今日も仕事中に突然ベーグルタイムが訪れて全然駄目になってしまった。これを書いている4時間ほど前のことだ。ただ、いつももう駄目だと思うのだけどすぐに立ち直れる。今はもうしっかり立ち直っている。いつも立ち直れるのは集中してそのことにとらわれ続けることができないからだろう。生理的な限界なのかブレーキがかかるからなのかわからないが、そのおかげで大丈夫になる。ありがたいと思わざるを得ない。
ジョイはベーグルの前に立つしかない。ジョイは消えるしかない。いつかはそうなるしかない。いつかは今ではない。だがいつかは消えるしかない。いろいろ考えることはできるけれど、それは最低のことだ。
たとえば死刑囚のことを考える。明日の朝、刑務官がやってきてついに刑が執行されることを告げられる、そのことを毎夜想像して寝る日々というのはどんな気持ちがするものだろう。それは間違いなく最低だろうが、ひょっとすると「慣れ」によって考えないでいられるようになっていくものかもしれない。
ベーグルと自分の関係を考えてみると、自分の置かれている状況というのは死刑囚とあまり変わらない。本質的には同じことだ。ただ気を紛らすための機会が多く与えられているだけのことで、それにしたところでいつまで続くのかは不透明だ。想像力にかぎりがあるというのはそれ自体有効な回避策だが、だんだんと摩耗していく途中にも苦痛は続くし、その苦痛だけは結局残るのではないかという気がする。
この映画における、エブリンのもとに帰ってきたジョイと帰ってこないジョイが「両方いる」というイメージは、たんに帰ってくるジョイがいるという嘘の希望でもなければ、帰ってこないジョイがいるという本当の絶望でもない地点に私を導いて、これまでとはちがう新しいはぐらし方で――それに慣れるまでのあいだは――、お守りになってくれるはずだ。充分長い期間それが続くといいなと思うけれど、だったら先頃のベーグルタイムの説明がつかない。たんにそれが役に立たないということであれば説明はつくけれど、それだといくらなんでも早手回しにすぎるから、焦らずゆっくり考えたり、いっそ考えたりしないでおいたり、あるいはちょっと違うことを考えたりしたい。
とにかく黒いベーグルは最低だ。それを描き出し、中指を立てる対象として提示してくれたことで、『エブリシング・エブリウェア・オールアットワンス』は私にとって忘れがたい映画になった。

20230304

日記60

演劇の本番が終わってから立て続けに映画を見ている。
終わってからだけじゃなく最中にも見ていて、本番は4日間・4公演だったのだが初日と2日目の合間にも『ブルージャイアント』を見に行ったりした。その他にはエンパイアオブライト、バビロン、アントマン3を見たが、アントマン以外全部面白かった。今日もエブリシングエブリウェアオールアットワンスを見に行く。あとはフェイブルマンズも見に行きたいし、公開を控えているシン仮面ライダーも見に行くつもりだ。
彼女と自宅で読書会をした。課題本はベンジャミンクリッツァ―著『21世紀の道徳』だ。ふたりとも遅読なので毎週1章ずつというかなりスローなペースで読書会をすることにした。たしか14章ぐらいあったので単純計算で14週かかることになる。ここまでじっくりと一冊の本に腰を据えて読書会をするのは珍しいかもしれない。たとえ大長編でも、2週にわけて読書会をするというのは聞いたことがない。べつにいろいろな読書会に行ってみたわけでもないが。

昨日
AuraleeとNewbalanceのコラボアイテムの発売日だった。もともとインスタグラムで流れてきたスウェットのデザインに一目惚れし、絶対にほしいと思って目をつけていた。
ただ、その途中、今週の月曜あたり、演劇本番のストレスから解放された反動で、まったく関係ない別の服を衝動買いしそうになった。映画館に行く途中でふらっと入った新宿マルイのRAGTAGで見つけたモッズコートがSALEになっているのを発見し、40%引きという文言と、ほとんどサイズ感が合うというだけの理由で衝動買いしそうになった。

↑衝動買い寸前で思いとどまったモッズコート

思いとどまった大きな理由は先のスウェットの発売日が週末に控えていたからで、欲しくなったものをもっと欲しかったものを手に入れたい一心で封じるという、服をもって服を制するというか欲をもって欲を制するという方法がうまくいったからだった。
服装にVを取り入れたいという欲求がこのところ高まっていて、たとえばノーカラージャケットを最近探しているのも、今回欲しかったスウェットに一目惚れしたのも、それが理由だった。なぜだかわからないが鋭角のラインを服装に取り入れたいという機運が高まっている。
結局モッズコートは買った。これを着るていると友人から馬鹿みたいなデザインと言われるが気に入っている。馬鹿みたいというところには同意する。カモ柄で馬鹿みたいだ。


↑とにかく欲しかったスウェット

確実に手に入れるために、オンラインストアに待機していたのに加えて、彼女の職場の近くに実店舗があるのをいいことに、開店時間の12時にあわせてお昼の時間がてら代理購入をお願いした。オンラインストアは即完売だったがなんとか購入でき、彼女も開店直後の一人目の客となって見事スウェットを購入。晴れて欲しかったスウェットが2着同時に手に入った。



↑とにかく欲しかったため勢い余って2着手に入れたスウェット(うしろ)

私には気に入った服をずっと着ていたいという欲求があるので、2着とも着倒したいと思っているが、勢い余って2着購入したことは買いに行ってくれた彼女に言っていない。ただ、この服に対しては一目惚れの度合いが今までにないぐらい高く、たとえ倍の値段がついていても買ったと思うので、その値段で2着も手に入り、かえってお得だと思っているぐらいだ。
一着だけ開けてもう一着は段ボールに閉まったままにしている。春と秋に気に入って着ている。

仕事が終わってからスタバに行く。演劇をやったことについて思ったことを書こうと思ったが、危惧していたとおりにとりとめもないものになってしまった。文章を書く能力が落ちているのを感じる。べつに低い能力でも書かないよりは書くほうが良いのは明らかだし、そもそも書かないことには当の能力自体向上していかないからあーあと思っているうちにも書いたほうがいいのは当然のことなのだが、実際のところテンションが下がってしまう。経験が、経験によって得た感慨がチャチなものに思えるからだ。私は感想レベルではあらゆる内容を大それたものだと受け止めがちなのでいくらか割り引いて考えなければならないにしても、こうまで思い込みに浸かっていて、しかも文章量がなかなか増えていかないのでは切ない気持ちにもなる。熱量=文章量というのは単純化したバロメータだとしても、たとえばこのブログなどで精緻なものを書き残そうという気持ちがない以上、ある程度はそのバロメータに依拠せざるを得ない。
すぐに文章になってこれが俺の得た経験だとすることができないだけで、たとえば人前で何かをするときに演劇以前とはちがう姿勢でそれに臨めるようになっていたり、自分の中に何かが蓄積されたのをこの一年で感じる機会が何回かあった。緊張しなくなったとか劇的な効果があるわけではないが、緊張する場面で今まで通り緊張しながらも、それが幕引きになるイメージを持てるようになった。

今週から資格の勉強を再開した。CCNPを取得するという目標を立てていて、ENCORの受験予定日は3/18だ。勉強時間の確保は、平日の在宅勤務時にはそれなりにできているのだが、天気のいい休日は(たとえば今日なんかは)思うように勉強時間を確保できない。勉強方法はPing-tだけ。CCNAでもそのやり方で当落線上ぎりぎりで受かったのに、CCNPも同じやり方では確実に落ちるだろうと思っている。今の会社が受験費用を出してくれるのでその点心強いが、自費受験だったら予定の見直しは必須だろうと思う。そんな悠長なこと言っている場合かと思うが、喉元過ぎれば熱さを忘れるではないけども、今はモチベーションが落ちている。一応、べつのところにモチベーションを持っていかれていると言うこともできる。
合格したら欲しい物を買う、といったようなニンジン作戦もありかとも思うが、欲しかったスウェットは買えてしまったし(しかも2着同時にだ)、今のところはちょっと良いアイデアがない。
CCNP……。昔取得しようと勉強していたものだが、結局受験さえしないまま"今の会社"を辞めることになった。

20230303

『エンパイアオブライト』を見た

学生の頃、コーエン兄弟の映画が好きでよく見ていた。話が面白いと思ったことはないが、とにかく面白いとは思っていたので、その感情につられて話も面白いような気がしていた。
すこしいじわるな物の見方というか登場人物を若干突き放したような描き方をするのが新鮮で、他ではあまり見られない種類のユーモアを感じてだんだんのめり込んでいったんだと思う。話の筋が面白いというわけではないというのは当時から感じていたことだったので、何が面白いのかを確かめようとして数々の作品を何度も見返した。
何回見ても見るたびに面白く、見れば見るほど面白くなっていくので、やがてコーエン兄弟の映画は画面が良くてそれが化学調味料のような働きをしているのだと気づき始めた。私はシネフィルではないが、シネフィルに一定のシンパシーをもっていられるのはコーエン兄弟の映画を通して、画面それ自体の魅力に思い至った経験があるからだ。
コーエン兄弟と組んでいる撮影監督のひとりにロジャー・ディーキンスがいる。彼の撮影が素晴らしいのでは?と気づくのに時間はかからなかった。画面を「撮影」しているのは撮影監督だろうと察しはつくし、オスカーでも撮影賞があったりもするし、監督や俳優ほどに重要な要素であるにちがいないと思うようになったのだった。
だからといってロジャー・ディーキンス撮影の作品をその日から漁りはじめたということはなかった。ただ、新作がかかるたびに、ちょっと気になる作品で、見に行くかどうかの当落線上にある作品のクレジットにロジャー・ディーキンスの名前があった場合、見に行くのほうに針が振れるぐらいの影響力を持つようになったのだった。
『エンパイアオブライト』もそうした作品のうちのひとつだった。予告編を見たときには地味で正直あまり面白そうとは思わなかったのだが、サム・メンデスだし外れということはないだろう、ロジャー・ディーキンスだったら退屈はしないだろうという判断で映画館に足を運んだ。
その判断は正しかった。建物や風景、時代の空気感の描き方が抜きん出ていたからだ。画面が美しいのは間違いないが、美しいだけではない別の要素も絡んでいるように思われた。それがどういう種類の何なのかはっきりはわからないが、とにかく特別な雰囲気があった。どことなくコーエン兄弟の映画を見ているような気にさせられた。
コーエン兄弟の映画と違うのは、特別な雰囲気のなか、とびっきり格好いい登場人物が現れたことだ。知らない顔の俳優で、終映後エンドロールに注目してMicheal Wardという文字を見つけた。マイケル・ウォードは文句のつけようがなく格好いいのだが、たぶんサム・メンデスには彼を格好良く撮ろうという衒いのなさがあり、そこがコーエン兄弟とは一線を画しているところだと思った。そういうことをするのとしないのとどっちが良いかというのは好みだが、実際にマイケル・ウォードを見たらそういう悠長なことは言っていられない。それほど威力のある俳優だった。まだ若いんだろうと思うが、のちのキャリアが楽しみというよりは心配になるレベルの出来だった。平たく言えば完璧だった。
風景が醸す特別な雰囲気と、俳優の格好良さというのは、いつか私が映画に求める最大のふたつになっていたので、エンパイアオブライトは好みでいえば最高の映画になった。
私のなかで映画の良さというのは、第一に俳優が見せる表情であり、その表情を見せるために話の筋があるという順序なので、俳優に割く意識は多いと自認しているのだが、その観点からいってもマイケル・ウォードが見せるすべての表情とその順番はいちいち完璧だった。
また、彼と関係ないところでは、オリヴィア・コールマンが詩を読むシーンが良いと思った。映画のなかで詩を読むというのは、腕のいい俳優がやれば当然格好のつく場面になる。たぶん映画監督はあまりそういうことをやりたがらないんだと思う。格好良いシーンをバチッと描くことに含羞があるのだろう。この映画ではないがたとえば『インターステラー』でマイケル・ケインが朗々と詩を読むシーンなどは、コーエン兄弟には逆立ちしても作れない名場面だと思う。マイケル・ウォードを使ってサム・メンデスが作った数々のシーンはそのどれもが最高で、心のどこかでよくやるよなとは思うものの、やりきることの痛快さがある。
しかし、そんな勢いで「詩を読む」シーンを描くのは危険でもある。もしあらかじめ詩を読むシーンがありますよと通知されていたとしたら、回転数が上がりすぎて空転するさまが脳裏をよぎり、目を開けていられないほど不安になることだろう。
オリヴィア・コールマンが詩を読むシーンはこの映画の物語的・心情的ハイライトのひとつだから印象的なのだが、場違いなスピーチという形をとることで、ユーモアに包まれた見やすいシーンになった。そのおかげで映画のいちシーンで詩を読むことの素晴らしさが充溢したわけだし、このあたりのバランス感覚がサム・メンデスを優秀な映画監督だと思わせる。
詩を読むシーンが素晴らしいのは、詩が言葉で作られていて、何よりもその言葉が素晴らしいのだということをはっきり告げるところだ。言うまでもなく詩は映画の部分であり、映画が素晴らしいものになるために配置された小道具のひとつである。しかし、裏を返すと、映画が詩の部分であり、詩が素晴らしいものであることを告げるための舞台装置だということもできる。これは部分と全体についての一般的な関係の話でもあって、たとえば俳優の表情と映画の物語などにも敷衍できる。どちらが全体でどちらがその部分であるかというのは、通常考えられているよりもずっと反転しやすいものであり、その反転はかなりの頻度でぐるぐる回っているものでもある。ただ、裏返る前にはどうやって裏返るのか想像もできないだろうし、裏返った後は裏返った後で、どうやって裏返ったのかはっきりわからないようなところがある。たぶん裏返るというのは一瞬のことだからだ。それ以後は表だったものが裏になり、裏だったものが表になるだけのことで、本質的にはたいした違いはないのだ。

下北沢演劇祭の演劇に出演した2

とにかく思ったことを書こうと思って書いたのが↓で、思ったとおりに思ったことは書いた。

https://www.nyikitai.com/2023/03/blog-post.html
下北沢演劇祭の演劇に出演した

しかし、これじゃ何のことかさっぱりわかりませんと人は言うだろうから、せっかくの経験を人に伝えるに、この私でもさすがにやぶさかでないとしか言えないので、も少し具体的にどんなことをやっていたのかということを中心になるように書いてみようと思う。演劇WSというのは基本的に素晴らしいものであるという前提で書く。だから今回のWSも素晴らしいものであったというのは前提になる。そのためにかえって肝心の素晴らしさについて云々しないで、ここはもう少しどうにかなったのではないかという文句のようなものが前面に出てきがちになるかもしれないのであしからず、と注意しておく。
まずは説明会から。これは説明会・ワークショップ(以下WS)と称しているが出演者からすれば実質的にはオーディションの場であった。下北沢演劇祭の創作プログラムはプログラムAとプログラムBとに分かれるのだが、説明会はAB同時に行っていた。参加者はAかB、またはその両方に参加希望の意思表示をすることができた。ざっくり言うとこの年、Aはダンス中心のミュージカル、Bは(漠然と)演劇という印象で、ほかに大きな違いとしては稽古日に割り当てられている日数の違いがあった。私は演劇の稽古というものをやってみたいという願望があったので、稽古日が多いBを選んだ。
説明会では、まずAの演出担当とBの演出担当が挨拶をした。Bの演出のほうが感じの良さと威勢の良さの両面で上回っており印象的だった。「演劇が嫌いで」という口上は、「演劇(と呼ばれているもの)が嫌いで」という読み替えがわりと容易にできた。演劇のことが自分なりに好きなひとが言いそうなことだと思った。対象が何であっても、それについて”自分なりに”好きと言える人のほうが面白い傾向があるので、B希望にして正解だったと思った。
説明会の説明パートはスタッフの人によってスムーズに終わった。コロナ関連の注意点やこの後のスケジュールについて話していたと記憶している。オーディションパートではダンスをやったり、他己紹介をやったり、60秒の至近距離見つめ合いをやったりした。とくに手応えのようなものはなかったが、初心者・上背・家近所というわかりやすい武器があったので、挑戦的なタイプであれば私を見逃さないはずだという臆断をくだすには充分だった。
予想が的中して当選のメールが届き、WSに参加することになった。2ヶ月ぐらいの準備期間があり、そのあいだにメールで自己紹介のような文章を参加者同士で送り合ったりしたが、始まる前に変な先入観を持たれたくないと思ったので無難なことだけ書いた。この期間はとくに何もしていなかったが、期待というよりは思いつきが現実になるという恐怖が多く頭を領有していたと思う。
初日のWSは友人の結婚式が重なり出られず、二日目からの参加になった。まずやったのは自分の呼ばれ方を自分で決めて発表するということで、そのあとの「名前呼びゲーム」でさっそくその名前で呼ばれることになった。このときに大学時代から使われている友達からの呼び名を多少の被りを気にせず押し通せたことが、のちのちの展開を思えばまず正解だったと思う。名前呼びゲームでは自分の名前が呼ばれると、それを受けるターンがあり、そのときに自分の名前を自分で発声することになる。名前呼びゲームは演出がもっとも大事にしているコミュニケーションの基本、演劇の基本ということで、毎WSで繰り返しやったし、本番前のアップでもやったぐらいだから、自分に馴染みのない思いつきの呼び名に決めないでよかった。
初顔合わせということでWSではこの日がもっとも緊張したが、心理的安全性の確保に長けていることをまざまざと感じさせる演出の手際で、すぐにリラックスすることができた。一口で手際と言っても、それを発揮するためにはいろいろの試行錯誤を経てきているのだろうし、緊張という余計な軋轢を生まないための心配りはWS初日から本番千秋楽までずっと続いていて、その一点だけとっても、無い帽子を脱いででも尊敬の意を表さずにはいられない。とくに人前で緊張しやすい私にとって、演出が示した丁寧な言動・振る舞いは何よりの助けになった。
演出の影響力というものに十分自覚的であるというのは、私が思う演出家の最低条件ではあるのだが、実際にそういう人を目の当たりにすると雁字搦めに近い状態にまで自身を追い込んでいるように見えたし、これは誰にでもできる芸当ではないなと思った。もちろん完璧にこなせる人はいないし、ほぼ完璧な人のたまのミスによる負の影響は、何も気にしていない残念な演出家のそれと比べてかなり大きなものになるだろうということは予期していたし、それに当てられないようにと注意していた。(結果、私に関していえば完全に杞憂だった)
演出が繰り返し言う「コミュニケーションが大事」ということの意味が私にはあまりピンとこなかった。「相手のセリフを聴いて、自分のセリフを言うということを心がける」と聞いても、そんなの当たり前じゃん以上の感想を持てなかった。「それができない人が多い」とこぼしていたが、「そんなものですかねえ(超簡単じゃん)」という感じだった。WSが佳境に入って、本番が近づくにつれて「コミュニケーションが大事」の意味がわかってきた。WSでいとも簡単にできていたことが、一気にできなくなったからだ。私だけではなく、共演者の多くがWSで事も無げにできていた「相手のセリフを聴いて、自分のセリフを言う」ということができなくなっていた。彼らは(おそらく私も)トーストしてしばらく経った食パンのように固くなってしまっていた。固いままでも成立はしてしまうから恐ろしいということも言っていたが、それが事実なのだとしたらたしかに恐ろしいと思う。焼き立てのトーストとそうじゃないトーストは同じ組成でもまったくの別物だといえるから、そういう取り違いがもしあったなら、そしてそれに気づかないままでいるなら、これほど残念なことはないからだ。
最初の日からアップとして車座になってやる簡単なコミュニケーションゲームをいくつかやった。その後はジェスチャー伝言ゲームをやった。2チームに分かれてそれぞれに同じお題が割り当てられ、言葉を使わずに30秒間で人に伝え、受け取った人はつぎの人にそれを伝え、というふうにして、最後尾の人はお題を当てるというゲームだった。最初から難しいお題が多かったが、初心者の側からいえばそれによってジェスチャーの出来不出来をあまり意識する必要がなくなったのでかえってありがたかった。
極力言葉を用いないで成立させるというのを考えていたようで、結局、本番で披露した演目もほとんどセリフがない芝居になった。自分としてはセリフを言ってみたいという願望をもっていたので、若干肩透かしをくった形だが、本番が近づくにつれセリフがないことに感謝する始末だったのであまり大きなことはいえない。それでもセリフがないというのは役者からはもっとも不満が出るところかもしれないと思った。横のつながりを持てないまま本番を迎え、どういうことを思っているかというのを裏で聞くような機会を持たなかったので想像の域を出ないのだが。
ジェスチャーゲームで言われたことは「記号的な表現にならないで」ということだった。ゲームに勝つためには記号的な動きを取り入れて確実に伝えるほうが有利なのは間違いないが、ゲームに勝つことをそこまで重視していないということも随所で口にしていた。ゲーム自体がどうでもいいとならないようなバランスが必要なので勝ち負けもそのスパイスになるが、ゲーム自体はあくまでも手段であって目的ではないというのは、皆大人なので理解していたように思う。参加者の聞き分けの良さのようなものはつねに感じていた。かくいう自分もそうで、意図を汲もう汲もうとして、わけのわかったような態度をいつもとってしまい、勝手につまらなくなってしまったと反省している。
すでに理解していることを確認するためにWSに参加しているわけではないのに、はいはいそうだよねとひとり合点してしているのは思い返しても情けない。不安を自分なりに解消するために無意識にそういう動きをしてしまっていたのかもしれないが、いずれにせよ褒められたことではまるでない。
参加者の中には、「え?どういうこと?」とか「わからない」という人もいて、そういう態度こそ自分に必要なものだと思ったので、疑問を瞬発的に口にすることを心がけた。たとえば仕事などでは、わかっていなくてもわかっているふりをしてその場をしのいだりやりすごしたりするスキルが必要になることがあるが、WSではそれを封印しようと思った。
わかってほしそうにしていることをわかってあげない、と言うとやり過ぎのように感じてしまうが、それぐらい過激なことをやってみようと思った。こういうのは普通こうなる、というのが感じ取れても無視するというか。
そういう過激なことをあえてやってみようという気になったのは、そういうことをやっても許される雰囲気がその場にあったからというのも見逃せない。今回出演するにあたっては、演劇のお約束に付き合わないようにするというのは自分の良さを出すためには欠かせないことだと思ったから、できるかぎり非常識を押し通そうとして臨んだが、その邪魔をするのではなくかえって追い風になってくれたと感じた。しかし、そのせいで向かい風に立ち向かうという意味での興が削がれたのも事実で、今になって思うと、陳腐な例えだが「北風と太陽」のようだった。
演劇創作は、あるテーマから言葉を連想し、それをお題にしてチームごとに自由に創作するという形をとった。一番自由に決められるのは最初の何も決まっていないときなのに、そのときには皆消極的で、ある程度方向性が定まってきて好き勝手変えられないようになってから徐々にエンジンが温まってきていろいろ独創性を発揮しようとし始めるというのは、自由な創作の名に恥じないとはとても言えないお粗末クリエイティビティだが、自由を与えられていると感じさせつつ手綱を引きやすいのはこのやり方で間違いない。この点に関しては仕組まれていたと感じる。羊の集団に「ご自由にどうぞ」と言えば大抵の場合固まるものだからだ。まあ、まんまと固まってしまった言い訳なのだけど。
本番は細切れに分かれたパートをいくつもつなげたような格好になったのだが、最初に10分か15分そこらで考えたたいして独創的でもない単なる思いつきを形にして最後まで演じることになったパートもそれなりにあった。WS全体を通して創作の意識は低かったように思う。会議で当たり障りのない意見がなんとなく出て、とくに賛成も反対もされず、皆一様にパッとしないなと思いつつなんとなくそのまま決まってしまうというとき特有の雰囲気を感じた。否定しない良さが裏目に出て、「駄目じゃない」が合言葉になったきらいがある。ただ、もっと殺伐とした現場とのトレードオフで考えるのなら、間違いなくこれで正解だとは思う。
ただし、最後のほうに出たお題とその創作では、「やっぱこれなし」とか「全然違うのに変えます」というのが横行して、いい感じのカオスが部分的に創発した。はじめのうちからこれを出せていたらと思わないでもないが、全然出せないまま上辺だけスムーズに進行していかないでよかったという安心感のほうが大きい。変えたから良くなるという単純なものではないけれど、変えたい・変えるべきだという成果からみて真っ当な評価が共有できたこと、実際に土壇場で変更したことはポジティブな出来事だったと思う。
演出という立場からは「これは全部変えたほうがいいんじゃない」とは言えないので、自分たちでその判断をするしかない。もっと早い段階から、もっともっと変えていくべきだったと思う。創作については極力意識させないでぬるっと始めるという演出の意図そのままに、気づかないうちに創作をはじめていて、いつの間にか完成しているという事態に陥ってしまった。紛れもなく私たちの創作なのにもかかわらず作品に対する責任のとり方がまるでなっていなかったと思う。責任のとり方がなっていないというよりははじめからその気がない、責任がないという感じ方をしてしまっていた。どこか他人事というか、自分事のわけがないと思っていたのだと思う。そういう意識・無意識に対してフラストレーションをためる共演者もいただろうと思う。
ただ、責任をとるというのは難しくて、その気があるからといって責任がとれるわけではない。責任の一端に触れさせようとしただけなのに押しつぶされてガチガチになってしまうという事態も容易に想像できる。その意味では、責任などないと感じることで一番の恩恵を受けていたのは自分だという自覚があり、だからどの口が言うねんということを承知で言うが、もっと参加者ひとりひとりに作品についての責任を感じさせるべきだった。
配慮されているという意識は終始拭えなかったし、配慮が必要な状況に陥っていた自覚もあるけれど、もうすこし自分が作品の一翼を担っていると思えれば良かったのにという後悔に近い感情がある。本番や作品に対してもそうだが、それ以上に一回一回のWS対してもっとやれることがあったのではないか。
身体を動かすということについては真剣に取り組めた。ペアになって相手が動かした新聞紙と同じ動きをするというWSがとくに面白かった。創作部分、連想ゲームでもっと突飛なことを考えつくべきなのに前半でちょっと疲れてしまって(言い訳だ)、無難なことしか言えなかったのが自分の能力・ポテンシャルを考えるとどうしても残念だった。
コロナ下ということもあり、WSはすべてマスク着用で実施された。劇場入りして、場当たりからようやくマスクを外した状態で共演者と向き合った。このとき匿名から実名に切り替わったような感覚をおぼえて面白かった。ゲネプロ・本番(4回あって4回とも)はとても緊張したし、久しぶりに唇が荒れたりもしたが、何も考えられないほど一生懸命になっている瞬間がそれなりの時間継続したり、お互い限定的にしか知らない人たちと接近したりするのはどう思い返しても楽しかった。

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