20230206

『イニシェリン島の精霊』を見た

私は私の友人に何を望むか


私が私の友人に望むことというのはそれほど多くないが、文学に親しみのある人間ではあってほしい。ドストエフスキーやカフカはもちろん、できればアメリカ文学のように周縁に位置するような文学作品も抑えていてもらいたい。

当然本の虫というのでは駄目で、スポーツをやるのも見るのも好きであってほしい。サッカー好きだというのは簡単な条件だと思うが、それだけでは不足で、応援しているチームが国内外にひとつずつあることも欠かせない。

それから、お笑いが好きでないと始まらない。笑うのが好きという牧歌的なタイプでもかまわないが、大勢の人が白けてしまうようなシチュエーションで、場にそぐわない爆笑を挙げてしまうような攻撃的な笑い方をする一面は、それを表に出すかどうかにかかわらず、必ず持っていてほしい。

この条件にあてはまらない他人がいくら私に話しかけてきたところで、私は彼のことを友人とは認めない。友人以外の他人に冷淡な態度で接するような底の浅い行動をとることはできないので、暇がゆるすかぎり、ナイスに振る舞うのは当然のことだが、それは彼のことを私の友人だと認めての行動ではない。いわば精神的な習慣が、私にその場にそぐうような適当な振る舞いをさせるだけのことである。相手の話に笑いもするし、頭を使って質問に答えもしようが、それは親愛的な情のゆえというよりは親切心のなせるわざである。


とまあ、こんなことを言ってはいられない。昔、これと近いようなことを考えたことはあったが、それでもごく短い期間のことにすぎないし、そういうようなことを言ったことだってもしかするとあったかもしれないが(私はどちらかといえば軽薄な人間なので)、少なくともそのようなことを言い続けてはいられなかった。もっと突き詰めた人間になれればと思い続けているような気はするけれど、むしろ習慣のほうに飲み込まれて、あまり友人がどうとかいうことを考えないようになった。


それでも、私の人生には暇があまり残されていないということにふと思いが至り、その残り時間の少なさに鋭く胸を突かれるような羽目におちいるそんな日がきたとしたら、『イニシェリン島の精霊』の登場人物コルムのような動き方をするのではないかということを思わせた。その意味でこの映画にはリアリティがあった。パッと見の劇的な展開とは別のところで、浅ましい人間の、他人に多くを求めようとしてしまう弱さをストレートにえぐり出しており、私はそこにリアリティを感じた。

つまり、コルムに共感する人は少なくないのではないかという感じがして、その意味でリアリティがあった。荒唐無稽といえるほど美しい景色と、見事な役者の演技は、リアリティの向こう岸をそんなの関係ないと言わんばかりに突っ走っていったが、それらがあるひとつのものを形作り、指し示していた。そしてその先には、われわれ自身の浅ましいところがあって、それは無いものでもないから、私にリアリティとして感じとられたのだ。しかし、大体の場合に私がそう思うように「これは私のなかだけにあるものだ」とは思わなかった。私のなかにあるというよりも、誰かのなかにそれがあるんだろうなと感じられたことを指して、それをリアリティと感じとったのであって、普通の場合、つまり私のなかだけにあると思うときに感じるなにかのことを――いろいろな呼び方で呼んでみることはあれど――、私はリアリティとは呼ばない。自分ではなく、誰かのなかにあるという感じが、その不気味なイメージが、リアリティというあまりぞっとしない妙ちきりんな言葉と親和的であるように思われたのだ。これが嫌いなもの同士が仲良しだと感じられるパラノイアの典型例だったとしても、それを差し引いても親和的なところがあるように思われる。差し引けるのかどうかということは置いておいて、にはなるのだが。


リアリティがあり、はっきり面白いと感じたのだが、それでも映画に瑕疵がないとはいえない。たとえばコルムの動作には違和感がある。最初から最後までひとりの人間が演じたというように見えず、途中で人が変わったように見える。

どうしてもコルムの意図と動作にズレを感じる。結果的にそれしかないという羽目におちいることなしに、コルムが望んでいたものは得られないはずだと私には思われる。トレードオフのようにどちらかを選び取るというのは甘い罠にすぎないのではないか。

もちろん、本人にとってそのストーリーは心和むものであるということは疑いを入れないし、そうである以上、できることをやるべきだと思うからそれで良いと思うが、残りの四本をまとめていった時点で、私にとってはその生命が消えてただの役(しかも別人)としか見えなくなった。

結局、映画はこれが劇映画であるということを誇るかのようにことさら劇的に進行していき、赤いものをまき散らしたり突き上げたりしていったが、冒頭の30分で見せたリアリティの域にはどうやっても達しないまま、いわば尻すぼみに終わってしまった。ちょうど半ばあたり、上の道と下の道とで道別れとなるカットの美しいイメージを残して。


冒頭の問い「私は私の友人に何を望むか」について考えてみたが、気の利いた答えが浮かばない。

私にはそういうところがある。たんに答えが浮かばないときに「気の利いた答えが浮かばない」というように、一応浮かんではいるのだがということを匂わせる言い方をするところがある。私は私自身のそういうところを隠そうとしていないから、仲の良い友人はそのことを知っているはずだ。それに私には友人のことをことさら見ないようにするという癖もないから、仲の良い友人のことは、「そういうところがある」というようなところを何度も見ているし、知っている。

そして「知っていてくれている」というのが私が私の友人に望むことで、私の友人が私に望むことにちがいないと、だいたいの見当をつけている。まあそれだと知己ということになるんだけど……。それは言葉の持っているニュアンスのほうがわるいだけであって、知己というのは私にとって大事なことだ。

それでも友人のことを条件でみたり、こいつは俺の友人たる格があるかということを考えてしまう癖は抜けないし、これからも完全に抜けるということはないと思う。ただ、そうである以上、そこで使う基準を借り物で済ませるわけにはいかない。お金をもっているとか優しいとか余裕があるとか楽しいとか、もちろん全部重要なことだが、それらは自分自身の基準に照らして大事なことだとは思わない。

コルム基準にも共感できるところはある。もっとも共感したのは、その厳格さではなく柔軟さで、基準をそれまでのものから変更したところだ。指を落とさないまでもそういうことができるようでいたい。

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