20230210

『俺の家の話』を8話まで見た

宮藤官九郎を見たことがある。しかも何らかの仕事をしている最中の宮藤官九郎を。

どこでというのはプライベートに関わることだから差し控えるが、昔住んでいた地域のシアトル系カフェで見かけた。彼自身はあまり生気があるタイプには見えなかったけれど、彼のMacbookはゴテゴテとステッカーのたぐいが貼りたくられており、そのせいでなんとなく能弁なイメージを、もっと消極的にいうと、決して暗くないという印象を受けた。

そのとき、私はきれいなMacbookを使って、日記か何かを書いていた。宮藤のほうが先に座っていて、私はあとから席に座った。ひとしきりMacbookの画面に集中していると、顔を上げたときには姿が見えなくなっていた。しばらくすると宮藤が座っていた席には高校生ぐらいの女が座って勉強か何かを始めた。

あのとき宮藤が書いていた何かは何だったんだろう。当たり前といえば当たり前だが、何か特別なことをしているという感じはまるでなかった。たんにサボっていただけかもしれないけど、仕事をしていたのだとしても、それは日常のなかの1ページで、取るに足らないことだとは言わないまでも、めずらしいことでもなんでもない、という感じがした。女子高校生が勉強をしている時間よりもずっと長い時間、カフェだったりなんだったりに座って何かをしてきたのだろうし、していくのだろうと思うと、女子高校生がやっている勉強のほうが特別感があるとさえいえる。女子高校生がこれからどんな方向へ進むのかは見当もつかないことだが、前後3年間が人生でもっとも長く机に向かう、ある特別な時期になるというのは、結構な確率のことのように思われる。

そういうことを考えていると、とにかく「机の前に座った時間」が物を言うことになるのは間違いないと思う。あの能弁な感じというのは、Macbookの背中一面に貼られた無数のステッカーにではなく、彼自身の醸す雰囲気に依るところが大きかったのだ。

それに軽い見かけに反して厚みがあった。地面と足の裏がしっかり繋がっているという感じがした。誰しも地面に足をついているんだけど、単なるその事実が、事実そうだということを超えて、しっかり目に見えるというところに特別な何かがある。そういう感じがあった。カフェという場でひとりで過ごすのだから一言も喋らないのは当たり前なのだけど、そして実際黙って座っていて、黙っていつの間にか消えたのだけど、宮藤は黙っていてもうるさかった。しかも、いなくなってもしばらくうるさかった。今も、こうして思い出すとうるさい。

見るべきものを見て、やるべきことをやっている人をじかに見ると、うるさいという感情が湧き起こるということを知った。


宮藤官九郎脚本のドラマ『俺の家の話』を見ていると、ドラマから逆算してそのことがわかる。ドラマもまたうるさいからだ。

見るべきものを見ている人というのは決して見逃さない。話のなかで大きな流れを作っても、それに流されない。大声をあげる魅力的なキャラクターを活き活きと動かす一方で、小声で何かそれに棹さすようなことを言わせるのを忘れない。目がくらむような光のしたにあるものをしっかり見ているからこそ、そこに気づいて、何ごとかをぼそっと言ってしまうのであって、光の眩しさに恍惚となるような気遣いはない。

たとえば、ドラマのなかで登場人物がとる選択に違和感が浮かんだとしても、大きな流れに沿ってそうしたわけではなく、彼の理由があってそうしているということは疑えない。それが見ている自分自身のやり方とは相容れないと思ったとしても、所詮、自分の話ではなく『俺(彼)の家の話』にすぎないと思える。人は人、俺は俺という前提がタイトルに組み込まれているし、全編を通してそのことをしつこいくらい念押ししてくる。

『俺の家の話』『あまちゃん』『いだてん』などのドラマを通して、その作者は大きな流れに身を委ねたり、大きな物語に組み込まれたりということをしていないと信じられる。劇中で葛藤する登場人物は、どこまでいっても一対一で向き合える対等な相手という感じがする。違いがあるとすれば、たとえば『俺の家の話』では物心つかないうちから舞台のうえに立つ人間を主人公にしているというところにあり、それを理由として、日常で見ないほど、そして画面越しでも受け止めきれないほど、圧倒的な花があるぐらいのものだ。

うるさいということでいうと、大きな声はうるさくない。なぜならそれはミュートしてしまいやすいからだ。どれだけ大きな音で大きなことを言おうと、一度ミュートすることに決めたら、以降は全然うるさくない。

それよりもうるさいのは、「こいつは見ている」という感覚のほうだ。それに対してミュートは無意味だ。見るべきものを見ているとこっちで知ってしまっている以上、そいつのことはいつまでも気になるし、向こうは何をしないでも(こちらのほうを全然見ていないとしても)こっちで勝手に、しかも持続的にうるさい。

とはいえ大きな流れというのは、現場においてつよい存在感と影響力をもっており、それに注意を向けているうちに小さい声にまで気が回らないということはよく起こる。有り体にいえば、小さい声というのはそれが小さい声だからという理由で’その場では’無視してしまいやすい。

それでも心のどこかに引っかかっていつまでも忘れられず気にかかるのは、誰かがぼそっと言った何かの方だろう。小さい声の厄介なところは、よほど気を張っていないと、それに反論したり反応する機会を逸してしまいやすいところだ。宮藤官九郎の作るドラマはそういう小声の量が他と比較してもかなり多めで、それをひとつも見逃すまいと、見る方で目を皿のようにするから見ていて面白い。能動的に見ざるを得ないように設計されている。

そして静かでありながら同時に能弁であるような「特殊な能弁さ」は、本人の佇まいや醸し出す雰囲気のほうにも浸潤しているよう見受けられた。あの日見たあまり生気があるとはいえない男が本当に本人だったとしてだが。

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