20221207

THE FIRST SLAM DUNKを見た

漫画と映画のちがいを感じる体験をしてきた。すなわち「THE FIRST SLAM DUNK」を見てきた。ほとんど情報解禁せずに上映するスタイルに敬意を表するつもりもあって、より現実的にはあらゆるネタバレを回避したいがために、公開初日に映画館に足を運んだ。

見終わってそれはもう大満足だったのだが、それでも忘れてはいけないなと思うのは、見に行く前に、『スラムダンク』を初日に見に行かないという選択肢はないなと思う一方で、クオリティが残念なものだったらどうしようとも思ったことと、たとえそうなったとしても大きく期待して盛大に裏切られるというがっかりイリュージョン的な展開でもまあ楽しめるからと、しっかり予防線を張っていたことだ。ようするに情報をあまり出さないのは自信のなさの表れなのではないかという邪推が働いたのだった。一応つけ加えておくと邪推になったのは作品のクオリティが完全に近いものだったからで、邪推をしてしまい面目次第もないとは思うもののそれをはるかに超える、邪推で済んで本当に良かったという気持ちがある。

いちばん最初のシーンでは正直やばいかもと焦ったのだが、その焦りから安堵のフェーズに入り(しかもこれ以上なく格好良く)、そこから対戦相手が登場することで、安堵から一気に興奮の坩堝(るつぼ)に引き込まれた。この感情の揺さぶられ方は、公開初日に映画館に行かなければ得られないものだったので、初日に映画館に行くという選択肢しかないという感覚は、余計な雑念が生じていたという事情をふくめても唯一の正解だったのだ。

漫画で見てきた、何度も読んできた試合。その最高の試合をべつの視点から見せるというのが「THE FIRST SLAM DUNK」の根本義だったように思う。
べつの視点というのはPGの視点である。プレーヤーでありながら試合を俯瞰するポジションの視点から、つまり宮城リョータの主観で、対戦相手の脅威や、息を呑むような驚異的プレーを見られるということでもある。味方の2番(SG)も3番(F)も4番(PF)も5番(C)もとにかく心強い。彼らのプレーが想像の上をいく驚きをもっとも間近で感じているのが司令塔の1番(PG)である。その新しい視点から見られる景色で、漫画でも感じていた慄くようなプレーの数々が、アニメーションになったこともあって新鮮なものに生まれ変わっている。とくに3番と4番がみせる試合中の成長は、とりわけ4番の奇想天外な活躍場面は、彼の主人公感を隠しきれておらずヒーロー全開で、「THE FIRST SLAM DUNK」では主人公の位置を譲っているのにもかかわらず、いやそれだからこそ、彼が主人公であるということの必然を感じさせた。
アニメならではの演出の素晴らしさとして、つよいセリフをさりげなく使っているというところが挙げられる。たとえばあの試合中で一番好きなセリフでもある「ゴリ! まだいけるよな!!」というセリフがさりげなく使われていて、そのさりげない置き方にかなりグッときてしまった。そういう何気ない小さな声かけによってかろうじて繋がっていく道筋がたしかにあって、それは何気ないのと同時につよい影響を人に与える言葉だったりする。だからこそ、何気なさを持ったまま、しかしかぎりなく思いのこもった言葉でもあるという、今回の映画特有の演出になっていたと思う。
一方で、試合最後の得点が入るシーンについては、漫画を超えることは難しかった。
映画を見ながら、どのシーンの出来も言うことないレベルにあるのをつぎつぎと認めるうちに、どうしても「最後のあのシーン」に対する期待が高まっていくのを抑えることができなかった。極集中状態の静音という演出は、それしかないというものではあったが、あれは桜木と流川の世界であって宮城の見ている世界ではない。
たしかに、あの試合のあの場面は、否応なくコートの全員が同じ状態に引き込まれるのかもしれないとも思うのだが、一方で、宮城のその後の活躍を思えば、そこから抜けられるほどのフテこさがあるのではないかとも想像させられる。ひとつの方向に鋭く無時間的にすすんでいく過程を描きながら、それと同時に、色々なものが見えて聞こえている視点を描くことは、映画表現ではおそらく不可能だから、やはりあの場面はあれしかないというシーンだったと言えそうだ。
そもそも、無時間的な時間を描くというのは映画に可能なことではないのかもしれない。
しかし、漫画にはそれが可能であることをスラムダンク読者は知っている。私がはじめてスラムダンクを読んだのは同世代のなかではかなり遅く、高校生の頃だったが、はじめて読んだときの衝撃は今でも忘れがたい。漫画なので次のコマを読むためにページをめくらなければならないのだが、ページをめくるという感覚は完全に消失していた。そこにはスローでもなくリアルタイムでもない時間の流れが確実に存在していた。それは無時間的な時間経過、純主観的な時間の流れともいえるもので、決められたフレームレートがある映画に可能な時間感覚ではない。スラムダンクという漫画が何より驚異的なのは、無時間的な時間経過という矛盾を読者の世界に存在させたことだ。
それに対して、映画「THE FIRST SLAM DUNK」はべつの見え方をする素晴らしいシーンの数々を作り上げていったが、バスケットボールの試合を見せるという意気込みをもつ時点で、最後には一点差で負けるよう決定づけられた試合をするようなものだった。バスケの試合ではどのシュートも決まれば2点(か3点)で、深津という選手が言うように「同じ2点」だ。しかし、最後の2点や試合の流れを決定づける2点だけは、同じ2点でありながら、それと同時に、ほかとはちがう「最高の2点」ともなる。試合がそれ自体でひとつの物語である以上、その重力に引き込まれるようなかたちでどうしてもそうなる。そして、その2点を見るためにバスケットボールの試合を見ている、引いてはバスケットボールの試合があると言いきってしまってもいい。クライマックスが最後の数秒に凝縮されていく以上、最後のワンプレーがすべてを決定づける。だから、ことスラムダンクにおいて漫画に対する映画の敗北は必然なのだが、それでも勝負に勝とうとして最後まで全力で、ただのいちシーンも緩むことなく描ききったのは驚嘆すべきことだ
あと、漫画よりも映画演出のほうが俯瞰してバスケの試合として見ることがしやすくなったので思うのだが、対戦相手の監督はバスケの監督としてはかなりレベルが低い。結果論でしかないとはいえ、ろくに得点しない松本より、ディフェンスが得意な一ノ倉を使うべきだった。
そうは言っても、あの土壇場で(後半からの出場で明らかにマッチアップの相手よりはるかに余力を残す)松本が、ノリにノッている3Pシューターのマークを外すとは思わないだろうから、監督だけを責めるのは酷かもしれない。その場合、責を負うべきなのは背番号6のガード松本稔である。それでも、メンバーを決めるのは監督なのだから結局、もっとも責を負うべきなのは監督の堂本五郎であることに変わりはない。「負けたことがあるというのがいつか大きな財産になる」じゃねえよと、誰かキレても良さそうなものだ。
ただそれにしても、勝つことでより強くなるような勝ち方を選ぼうとしたということで、そうやって最強の座を作り上げていったチームでもあるのだろうから、あの一試合だけを見て監督のレベルが低いというのはやや軽薄にすぎるかもしれない。
ただ、少なくともあの試合にかぎって言えばベンチワークはかなりお粗末だった。ベンチから対処しないで選手に任せるというように堂々と構えるでもなく、ちょこちょこ動いておいてあの結果なのだからそこに関してはあきらかに監督の失策である。
その流れで考えると、試合後に選手たちに声をかける必要があったとはいえ「負けたことがあるというのがいつか大きな財産になる」というのはあまりにもひどい。ひどいとは知りながらそれでも何か言わなければならないと思って仕方なく言ったことなのだろうから、批難しようとは思わない。しかし名言だとは決して思わない。挑戦を続ける以上負けは必然だからだ。その機会を与えるというニュアンスが混じっているように聞こえてしまうし、もしそのニュアンスが入っているのだとすれば烏滸がましい(おこがましい)にもほどがある。かつらむきと同様、思い切って削ってもいいシーンだと思った。ラストに繋がりがあるといってもやっぱり宮城視点からは関係ないわけだし。

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