20221226

日記56

昨日

彼女の友人の新居で催されるクリスマスパーティにお呼ばれし、光が丘まで出かける。そこで結婚の報告があり、引越し祝い兼クリスマスパーティだと思っていたので予想外の報告に驚いた。こういう半分アウェイの会でも変に遠慮したりせず、のびのび楽しもうというのが最近出した結論だったので、目一杯楽しもうとしていったが、初対面の人と話すべき話題を用意するなどといった基本的な準備さえしていないで、いつものとおり出たとこ勝負で気持ちだけは楽しむつもりで臨んだところ、大体いつもどおりの感じに落ち着いた。穏やかで楽しい会という感じで、個人的にはとくに反省点も見つからない代わりに特筆すべきところもないといった無難なパフォーマンスだった。瞬間思ったことをポロッと言うというのが自分にできる唯一のことなのでそれだけをしていた。具体的には「美味しい」「たのしい」「おもしろい」というポジティブな形容詞を出し惜しみすることなく出すという簡単なタスクをこなした。その場にいてたのしいと思っていたら、大体皆それで満足してくれる。

場に対して自分は何ができるかという考え方に立った書きぶりなのだが、書かれてある内容自体はとくに何ができたというものでもないので、わざわざ自分用にひとつの枠組みを作ってその枠できちんとした働きができませんでしたという報告になっている。そんなことをしていないで何が楽しかったのか何が美味しかったのかを書けと思う。本棚に『独学大全』があったのが印象的だった。生活の中で何かを学ぶ時間を作ろうとしているのがわかりやすくて好ましく感じた。あと、作っておいてくれて振る舞ってくれたロールキャベツが美味しかった。

彼女の友達は何回か会ったことがあったけどいつもどおり和やかだった。その夫ははきはきと喋り、相槌などもしっかりとってくれ、そのリズム感も話し手が話しやすいようなちょうどいいもので、場に盤石な安心感を提供してくれていた。そもそもいろんな料理を作ってくれていて、もてなす側として100点の出来だったと思う。

ここなんかはえらそうに評価するという面白をやりたいのだと思うが半端なコメントなのでえらそうな感じも弱いし全然駄目だ。まあ日記を書いていて調子が悪い日もあるから仕方ないといえば仕方ない。

プレゼント交換のあとケーキ前のタイミングで次の予定に行かなければならない時間になったので、ひとりお先に失礼する。副都心線の快速は地下鉄なのにたくさんの駅を通過するのでいつも乗る千代田線とか銀座線よりもスピード感を感じられて良い。

同い年の大人たちと喋る機会があると彼らの安定ぶりにいつも面食らう。しかも、その安定ぶりにやけに馴染んでいる自分も発見して余計に驚かされる。

演劇の稽古は今年最後だった。あっという間に今年最後の稽古になってしまい、このまますぐ実際に板の上に立つことになるのだと思うとゾッとする。頭が回っていないまま始まるいつもの感じっぽい。一応回ってはいるが必要な回転数に達していないという感じ。

日記の不調の原因は明らかにこの演劇の稽古で、演る側(見られる側)に立つ自分になる過程で、その反動として日記を書くときには必要以上に見る側に立ちたいという気持ちの現われだったんだと思う。

自分のペースだとだいぶ遅いのだということがようやくわかってきたのだが、だからといって急ぐ気にもなれないから、適切に諦めてこれだけは忘れずやるという割り切りが大事かもしれない。ゆっくりなうえ割り切りもあまりしたくないという「マイペースわがまま」が私の性質らしい。

この日はみんなでお父さんになってひとりの女の子に語りかけるシーンを作った。自分の子供に語りかける語彙やらスタンスやら態度、距離感がつかめず、はじめて演じるのが難しいと感じた。それまではできることだけをやらせてくれるというやり方ですすんできていたので、いきなり壁があらわれた感じで、びたーんとぶつかって面食らったのと同時にそれがちょっと楽しくもあった。幼い娘に話しかけようとして普通に関西弁が出た。それまでもべつに関西弁を隠してはいなかったのだけど、人前で関西弁が全開になるのは切羽詰まっているときだから、まあそういうことなんだと思うが、お父さんとして話すときの距離感というものを自分なりに表現しようとして全開の関西弁になったということもほんの少しはあるかもしれない。

あとは長方形の箱を触る動作、マッチ箱からマッチを取り出して擦るという動作をエアで演じるということもおこなった。そこに実際に箱がみえるように、マッチ箱とマッチがみえるように動くというのは難しいんだけど、具現化系の念能力者はこれが得意なんだろうなというようなことを思いながらやってみたりして楽しかった。

三人一組になってひとりをマッチ棒に見立て、残りのふたりでマッチをするという動きを作ったりもした。これはちょっと安全が確保されていないのでは?と思ったので、自分はひとりを持ち上げての動きをやりたくなかった。他の2組は持ち上げてやっていたので「安全に関して不安だ」と大きな声でいうこともできず、中途半端に、自分は非力なので持ち上げる自信がありませんととぽそぽそ言ってお茶を濁した。やるならやる、やらないなら安全じゃないと思うのでやらないと主張する、どちらかはっきりするというのが良いんだろうなと思う。そう思いながら結局日和見をしてしまうのが良くないとは思いつつ、不安を抱えたままやることを選んで危険なことになるよりはましだと思って自分を納得させた。まあ、それが自分の性質なんだと思うし。

変身願望というか何か自分とはべつのものになりたいというのが演じるということの動機として大きいのだが、こういうのに直面すると、やはりそんな簡単に、その場所にいるからという理由だけで変われるということはなく、むしろ自分というものが浮き彫りになるという経験だった。負け惜しみのように自分の性質なんだと思っているようだし。

自分はこういう性格だからとか、自分にはこういう性質があるからとか、ちょっと前まではそういうことを言いたくないと思っていた。自分で自分の性質を見つけるというか、ある性質が自分に当てはまるなと感じることがあればその逆方向に動きたくなったものだったのに、だんだんそれが減ってきて、すくなくとも原則ではなくなった。

今でも意識すると反動的に動いたりすると思うし、ここというときには跳ねっかえるぞというつもりはまだまだあるんだけど、どんと構えるとまでいかないけど一時的にじっとするということを覚えたような気がする。

それに関係あるのか不明だが似たようなところでは、写真を撮られるときとか、動作をくわえるときとかに、1〜2秒止まろう、予備動作としてちょっと止まってからやろうとかいう意識が生まれている。頭の回転が遅く、さらに遅くなっていく代わりに、ストップモーションが適宜挟めるようになったんだと思うと、ペースやリズムはむしろ良くなっている途中という気もする。自分は早く動けるんだという錯覚を手放せるほど老熟してはいないけれど、そういうのが錯覚なんだろう、錯覚の可能性もあるなと、自分自身の内心では低く、客観的には適正に(?)見積もってみることができるようにはなった。

つねに物事の良い側面を見るようにしなさいと父親にアドバイスされた男が自分自身の変化について語るようなことを語っている。


一昨日

スタバで読書。演劇の稽古。帰宅してからNewYork styleのピザを食べる。先週M-1録画により録画できなかったため、再放送を録画しておいた『鎌倉殿の13人』の最終回を見る。大河ドラマというフォーマットを活かした見事な最終回だったと言うしかない。見る側も自然1年を締めくくることになるし、歴史のうねりの中でたくさんの死を描きながら、そのどれもが客体的な死でしかなく、本人の死として物語を閉じることになったというのが大河ドラマという形式を逆手にとって見事だった。途中退場したすべての登場人物は、まさに”途中で”退場したのだったということを主人公が代表して示したといえる。たとえば『デスノート』なども夜神月が絶命するコマでプツッと<完>だったなら、その異様な終わり方によってもっと異なった印象を作品全体にもたらしたはずだと思うが、それを実地で、考えられる限りでもっとも大きなスケールでやってみたのが今回の大河だった。小栗旬と小池栄子は、とくに小栗旬は、今後これ以上の役を演じることはできないだろう。実際、ここで役者人生が終わりだとしても文句はないと思って演じていたように見えた。臨死の演技としてこれ以上のものは思い浮かばない。規模もセッティングも才能も集中力も全部ある。普通はこんなきれいに一列に並ばないものだと思う。2時間の映画ではできないし、配信系のドラマでもできない。まさにNHKの大河でしかできない振り切った作品だった。

『鎌倉殿の13人』は今思い出しても面白い大河ドラマ、面白い結末だった。一年休んで来年の『光る君へ』も毎週見るのが楽しみになるドラマになればいいな。

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