20221224

日記55

昨日
下高井戸シネマで前回満席のため見逃したカサヴェテスの『ハズバンズ』を見るため、開場の2時間前にチケットを買いに行った。今どきチケット予約のシステムを持っていないのは観客に相応の不便を強いることになるということを劇場側はどう考えているのだろうと思う。整理券とか配っていて、そのためにスタッフの稼働が発生しているので単純に予算云々という話ではないと思うがはたして。
下高井戸にはスタバはおろかチェーンのコーヒーショップすらなく、世田谷区のど真ん中にある片田舎という感じで、人はいるのに駅前の雰囲気や歩いている人たちが若干古臭く、過去にタイムスリップしたかのようなめずらしい感覚を味わえる。全然雰囲気は違うが若干大阪の十三のよう。全然雰囲気はちがうが。
それにしても、なんとか見つけた珈琲館が17時閉店と書いているのには驚いた。入ろうとするも16時前だったのになぜか閉店しますと言われてしまった。仕方がないのでカフェ使いするためにガストに入る。同じ用途で入ったとおぼしき人たちが結構多くて下高井戸のカフェ難民ぶりはなかなかのものだと感心した。
しかしそれより何より驚いたのは、噂では聞いていた猫型配膳ロボットが配備されていたことで、元気に料理を配膳していたことだった。片田舎感という苦杯を嘗めさせられてきた挙げ句の入店だったので、その最新鋭のロボットが突如現れたことに動揺し、まんまとディストピア感を感じさせられてしまった。普段であればそうそうのことでディストピア感なんぞ感じるわたしではないのに。しかし猫型ロボットは面白い動きをするでもなく、ちょっと見たら見慣れてしまった。むしろ面白いのはややたじろぎながら、しかしたじろいでいる様子を見せまいとつとめて冷静かつスムーズに配膳された料理を自身のテーブルに引き取ろうとする客たちのほうで、彼らの判で押したような、マスクの下で苦笑いしているんだろうなという動作にわかると思って共感できたことだった。ドリンクバーとソフトクリームしかたのまなかったわたしの席には男性店員が手ずからソフトクリームを持ってきたので自身でその威力を味わうことはできなかったが、どうせ同じ判で押したような反応しかできなかったろうから、とくに強がりではなく、べつに惜しいとも思わない。会計はセルフでできるマシンが置いてあったのでいつものようにクイックペイで支払った。もし猫型ロボットが配膳してくれていたならば、人とのコミュニケーション抜きでファミレスのサービスを受けられたことになる。そう考えると少し惜しいような気もするが、しかしいずれにせよ遠くない将来その体験はできることだろう。というかガストで食事をしたいと思った日に叶うことだ。
ただ注文用のタブレットが注文後に広告を流しはじめるのが鬱陶しくて、今回の滞在ではそれだけがマイナス点だった。
映画は前回同様やはり満員で、10分前に開場しての自由席。最後尾のさらにうしろに補助席もいくつかできていた。わたしにとってはかなり面白い映画だったけど、こんなに人が押し寄せるような映画かと言われると疑問だ。たぶん上映回数が3回しかないから行列ができているだけだろう。
主人公の男三人組が女性に対してかなりひどい態度をとるシーンが延々続いたりもするので、人によってはそこで気分を害したまま映画に復帰できないかもしれない。時代が下ったときの表現についてはそういうものとして受け止めることが比較的容易にできて確実に鈍感なほうであるわたしでさえちょっと厳しいものを感じた。
大目にみるということは難しいかもしれないが、一旦ひどい奴らだと見下げ果ててしまえば、そこから先は笑ってみれる回路がつながることもあるかもしれない。一番ひどいときでも露悪的なわざとらしさは感じなかったが、こういう感じ方というのはひとによるし、露悪的でなく自然な分、よりたちが悪いということはいえるので、いずれにせよアウトはアウトだ。しかもぎりぎりとかではなく検証が必要ないほど余裕でアウトと思う。
わたしは時代のせいにできるような明らかな瑕疵はそれが明らかであればあるだけそれを瑕疵だと認識したあと無視しやすいというあまり公言するべきではない能力をもっているので、映画のそれ以外の部分に集中することができた。というよりもそのひどいシーンがあらわれるより前のシーン、地下鉄の会話と道端でのエアバスケ、それから体育館を借りてのバスケのシーンでだいぶ魂のほうを持っていかれたので、きびしいシーンをきびしく感じながらも彼らから離脱しようという気がしなかった。タイトルコールの際にみられた文字、A comedy about life, death and freedomによってある一面ではかなり抽象度の高いものの見方をするようになったからというのもある。2022年現在を生きるわたしにとっては、70年代のコメディもギリシャ喜劇も今から切断されたかのような地点として受容する対象になるということだ。
1秒たりとも退屈したくないというのは映画に対して求めるところではないので、いくら退屈なシーンがあってもあまり気にならないというのも良い方向に作用した。むしろ退屈と感じられるシーンがあるぐらいのほうが、作品に対して前のめりになれるという点で好みとするぐらいである。
件のきびしいシーンというのは酒屋で車座になって順番に歌を歌う場面だ。しかし、それが始まるまえに、この映画で一番光るシーンがある。それぞれのグラスと、それだけではなくピッチャーになみなみと注がれているビールの金色がとにかく輝いてみえるのだ。あのテーブルには生きていることの輝きが充溢している。最高である一瞬は明らかにそこにあって、しかもあっという間に正反対の最悪へと突入していく。一瞬がほんの一瞬であるだけに直前の輝きは幻のように感じられ、できるかぎりそれを引き延ばそうとする無益であるばかりか逆効果でしかない愚かな行為には歯止めが効かない。そればかりか男たちは3人集まって悪ノリの相乗効果を最大限突き詰めて、まるで競い合うかのように、トイレへと真っ逆さまに落ちていくようだ。彼ら本人たちだけが本人たちにだけわかるチキンレースを人を巻き込んで開催しているのだから、彼ら以外にはたまったものではない。
そして、このシーン全体で明らかになるのは、やむにやまれぬ狂騒の最悪な部分が最高の部分であるところの輝ける一瞬とつながっているということである。
さらにいえば、輝ける一瞬というのは何によってもたらされたものであるのかということにもなってくる。そしてそうであるならばもちろん、さらにその前からもつながっているということであって、ようするに彼らは、最悪と最高を行ったり来たりしながら道行く人の迷惑をかえりみることなく肩にぶつかったり悪態をついたり、ひどいときにはしなだれかかったりしながら進んでいくということだ。そしてひとり欠け、ふたり欠けというふうに、だんだんひとりぼっちになっていく過程をだらだらと進んでいくしかないのだ。明らかにピークを過ぎた見知らぬ人の飲み会に居残る男のように、直接的にお前なんて嫌いだと喚かれながらもほかにどこに行く宛もないあの男のように、遠くない将来に待つあんなふうな孤独にむかっていくことともつながっている。だからこそわれわれはあの男の歌が一番だと思ったりもするのだし、あんなやつは嫌いだと面と向かって悪しざまに罵りたくもなるのだ。
そのように考えると、つまり大いに悲観すべき結果のほうから作中の現在を振り返ってみると、142分ある作品全編を通してすべての時間が輝かしいものであると思えてくる。そして実際にそうなのだ。一番ろくでもないハリーでさえ最低の目に遭っているわけでは全然ない。ハリーにはガスがいる。しかもそれだけではなくアーチーがいる。彼らがいっしょにいるのを見ていると、何をさておいてもそれだけで、ここで起こっていることは、理解に苦しむようなよくわからないことがあっても、基本的にはなにか素敵なことなんだと思わせられる。
映画を見終わってから世田谷線で山下まで。招き猫の車両に乗ることができた。デニーズに行こうとするも店内入り口にゲロが落ちていたせいで入店できず。掃除させられる店員が気の毒だった。デニーズでご飯を食べる食欲がゼロになったのでべつの洋食屋に入る。ナポリタンは量が多くてよかった。デミソースのメンチカツが揚げハンバーグという感じでうまかった。
家に帰って録画していたかりそめ天国と100分で名著の中井久夫回を見る。寝不足にならないようにエルピスは見ないで寝る。

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