20221226

日記56

昨日

彼女の友人の新居で催されるクリスマスパーティにお呼ばれし、光が丘まで出かける。そこで結婚の報告があり、引越し祝い兼クリスマスパーティだと思っていたので予想外の報告に驚いた。こういう半分アウェイの会でも変に遠慮したりせず、のびのび楽しもうというのが最近出した結論だったので、目一杯楽しもうとしていったが、初対面の人と話すべき話題を用意するなどといった基本的な準備さえしていないで、いつものとおり出たとこ勝負で気持ちだけは楽しむつもりで臨んだところ、大体いつもどおりの感じに落ち着いた。穏やかで楽しい会という感じで、個人的にはとくに反省点も見つからない代わりに特筆すべきところもないといった無難なパフォーマンスだった。瞬間思ったことをポロッと言うというのが自分にできる唯一のことなのでそれだけをしていた。具体的には「美味しい」「たのしい」「おもしろい」というポジティブな形容詞を出し惜しみすることなく出すという簡単なタスクをこなした。その場にいてたのしいと思っていたら、大体皆それで満足してくれる。

場に対して自分は何ができるかという考え方に立った書きぶりなのだが、書かれてある内容自体はとくに何ができたというものでもないので、わざわざ自分用にひとつの枠組みを作ってその枠できちんとした働きができませんでしたという報告になっている。そんなことをしていないで何が楽しかったのか何が美味しかったのかを書けと思う。本棚に『独学大全』があったのが印象的だった。生活の中で何かを学ぶ時間を作ろうとしているのがわかりやすくて好ましく感じた。あと、作っておいてくれて振る舞ってくれたロールキャベツが美味しかった。

彼女の友達は何回か会ったことがあったけどいつもどおり和やかだった。その夫ははきはきと喋り、相槌などもしっかりとってくれ、そのリズム感も話し手が話しやすいようなちょうどいいもので、場に盤石な安心感を提供してくれていた。そもそもいろんな料理を作ってくれていて、もてなす側として100点の出来だったと思う。

ここなんかはえらそうに評価するという面白をやりたいのだと思うが半端なコメントなのでえらそうな感じも弱いし全然駄目だ。まあ日記を書いていて調子が悪い日もあるから仕方ないといえば仕方ない。

プレゼント交換のあとケーキ前のタイミングで次の予定に行かなければならない時間になったので、ひとりお先に失礼する。副都心線の快速は地下鉄なのにたくさんの駅を通過するのでいつも乗る千代田線とか銀座線よりもスピード感を感じられて良い。

同い年の大人たちと喋る機会があると彼らの安定ぶりにいつも面食らう。しかも、その安定ぶりにやけに馴染んでいる自分も発見して余計に驚かされる。

演劇の稽古は今年最後だった。あっという間に今年最後の稽古になってしまい、このまますぐ実際に板の上に立つことになるのだと思うとゾッとする。頭が回っていないまま始まるいつもの感じっぽい。一応回ってはいるが必要な回転数に達していないという感じ。

日記の不調の原因は明らかにこの演劇の稽古で、演る側(見られる側)に立つ自分になる過程で、その反動として日記を書くときには必要以上に見る側に立ちたいという気持ちの現われだったんだと思う。

自分のペースだとだいぶ遅いのだということがようやくわかってきたのだが、だからといって急ぐ気にもなれないから、適切に諦めてこれだけは忘れずやるという割り切りが大事かもしれない。ゆっくりなうえ割り切りもあまりしたくないという「マイペースわがまま」が私の性質らしい。

この日はみんなでお父さんになってひとりの女の子に語りかけるシーンを作った。自分の子供に語りかける語彙やらスタンスやら態度、距離感がつかめず、はじめて演じるのが難しいと感じた。それまではできることだけをやらせてくれるというやり方ですすんできていたので、いきなり壁があらわれた感じで、びたーんとぶつかって面食らったのと同時にそれがちょっと楽しくもあった。幼い娘に話しかけようとして普通に関西弁が出た。それまでもべつに関西弁を隠してはいなかったのだけど、人前で関西弁が全開になるのは切羽詰まっているときだから、まあそういうことなんだと思うが、お父さんとして話すときの距離感というものを自分なりに表現しようとして全開の関西弁になったということもほんの少しはあるかもしれない。

あとは長方形の箱を触る動作、マッチ箱からマッチを取り出して擦るという動作をエアで演じるということもおこなった。そこに実際に箱がみえるように、マッチ箱とマッチがみえるように動くというのは難しいんだけど、具現化系の念能力者はこれが得意なんだろうなというようなことを思いながらやってみたりして楽しかった。

三人一組になってひとりをマッチ棒に見立て、残りのふたりでマッチをするという動きを作ったりもした。これはちょっと安全が確保されていないのでは?と思ったので、自分はひとりを持ち上げての動きをやりたくなかった。他の2組は持ち上げてやっていたので「安全に関して不安だ」と大きな声でいうこともできず、中途半端に、自分は非力なので持ち上げる自信がありませんととぽそぽそ言ってお茶を濁した。やるならやる、やらないなら安全じゃないと思うのでやらないと主張する、どちらかはっきりするというのが良いんだろうなと思う。そう思いながら結局日和見をしてしまうのが良くないとは思いつつ、不安を抱えたままやることを選んで危険なことになるよりはましだと思って自分を納得させた。まあ、それが自分の性質なんだと思うし。

変身願望というか何か自分とはべつのものになりたいというのが演じるということの動機として大きいのだが、こういうのに直面すると、やはりそんな簡単に、その場所にいるからという理由だけで変われるということはなく、むしろ自分というものが浮き彫りになるという経験だった。負け惜しみのように自分の性質なんだと思っているようだし。

自分はこういう性格だからとか、自分にはこういう性質があるからとか、ちょっと前まではそういうことを言いたくないと思っていた。自分で自分の性質を見つけるというか、ある性質が自分に当てはまるなと感じることがあればその逆方向に動きたくなったものだったのに、だんだんそれが減ってきて、すくなくとも原則ではなくなった。

今でも意識すると反動的に動いたりすると思うし、ここというときには跳ねっかえるぞというつもりはまだまだあるんだけど、どんと構えるとまでいかないけど一時的にじっとするということを覚えたような気がする。

それに関係あるのか不明だが似たようなところでは、写真を撮られるときとか、動作をくわえるときとかに、1〜2秒止まろう、予備動作としてちょっと止まってからやろうとかいう意識が生まれている。頭の回転が遅く、さらに遅くなっていく代わりに、ストップモーションが適宜挟めるようになったんだと思うと、ペースやリズムはむしろ良くなっている途中という気もする。自分は早く動けるんだという錯覚を手放せるほど老熟してはいないけれど、そういうのが錯覚なんだろう、錯覚の可能性もあるなと、自分自身の内心では低く、客観的には適正に(?)見積もってみることができるようにはなった。

つねに物事の良い側面を見るようにしなさいと父親にアドバイスされた男が自分自身の変化について語るようなことを語っている。


一昨日

スタバで読書。演劇の稽古。帰宅してからNewYork styleのピザを食べる。先週M-1録画により録画できなかったため、再放送を録画しておいた『鎌倉殿の13人』の最終回を見る。大河ドラマというフォーマットを活かした見事な最終回だったと言うしかない。見る側も自然1年を締めくくることになるし、歴史のうねりの中でたくさんの死を描きながら、そのどれもが客体的な死でしかなく、本人の死として物語を閉じることになったというのが大河ドラマという形式を逆手にとって見事だった。途中退場したすべての登場人物は、まさに”途中で”退場したのだったということを主人公が代表して示したといえる。たとえば『デスノート』なども夜神月が絶命するコマでプツッと<完>だったなら、その異様な終わり方によってもっと異なった印象を作品全体にもたらしたはずだと思うが、それを実地で、考えられる限りでもっとも大きなスケールでやってみたのが今回の大河だった。小栗旬と小池栄子は、とくに小栗旬は、今後これ以上の役を演じることはできないだろう。実際、ここで役者人生が終わりだとしても文句はないと思って演じていたように見えた。臨死の演技としてこれ以上のものは思い浮かばない。規模もセッティングも才能も集中力も全部ある。普通はこんなきれいに一列に並ばないものだと思う。2時間の映画ではできないし、配信系のドラマでもできない。まさにNHKの大河でしかできない振り切った作品だった。

『鎌倉殿の13人』は今思い出しても面白い大河ドラマ、面白い結末だった。一年休んで来年の『光る君へ』も毎週見るのが楽しみになるドラマになればいいな。

20221224

日記55

昨日
下高井戸シネマで前回満席のため見逃したカサヴェテスの『ハズバンズ』を見るため、開場の2時間前にチケットを買いに行った。今どきチケット予約のシステムを持っていないのは観客に相応の不便を強いることになるということを劇場側はどう考えているのだろうと思う。整理券とか配っていて、そのためにスタッフの稼働が発生しているので単純に予算云々という話ではないと思うがはたして。
下高井戸にはスタバはおろかチェーンのコーヒーショップすらなく、世田谷区のど真ん中にある片田舎という感じで、人はいるのに駅前の雰囲気や歩いている人たちが若干古臭く、過去にタイムスリップしたかのようなめずらしい感覚を味わえる。全然雰囲気は違うが若干大阪の十三のよう。全然雰囲気はちがうが。
それにしても、なんとか見つけた珈琲館が17時閉店と書いているのには驚いた。入ろうとするも16時前だったのになぜか閉店しますと言われてしまった。仕方がないのでカフェ使いするためにガストに入る。同じ用途で入ったとおぼしき人たちが結構多くて下高井戸のカフェ難民ぶりはなかなかのものだと感心した。
しかしそれより何より驚いたのは、噂では聞いていた猫型配膳ロボットが配備されていたことで、元気に料理を配膳していたことだった。片田舎感という苦杯を嘗めさせられてきた挙げ句の入店だったので、その最新鋭のロボットが突如現れたことに動揺し、まんまとディストピア感を感じさせられてしまった。普段であればそうそうのことでディストピア感なんぞ感じるわたしではないのに。しかし猫型ロボットは面白い動きをするでもなく、ちょっと見たら見慣れてしまった。むしろ面白いのはややたじろぎながら、しかしたじろいでいる様子を見せまいとつとめて冷静かつスムーズに配膳された料理を自身のテーブルに引き取ろうとする客たちのほうで、彼らの判で押したような、マスクの下で苦笑いしているんだろうなという動作にわかると思って共感できたことだった。ドリンクバーとソフトクリームしかたのまなかったわたしの席には男性店員が手ずからソフトクリームを持ってきたので自身でその威力を味わうことはできなかったが、どうせ同じ判で押したような反応しかできなかったろうから、とくに強がりではなく、べつに惜しいとも思わない。会計はセルフでできるマシンが置いてあったのでいつものようにクイックペイで支払った。もし猫型ロボットが配膳してくれていたならば、人とのコミュニケーション抜きでファミレスのサービスを受けられたことになる。そう考えると少し惜しいような気もするが、しかしいずれにせよ遠くない将来その体験はできることだろう。というかガストで食事をしたいと思った日に叶うことだ。
ただ注文用のタブレットが注文後に広告を流しはじめるのが鬱陶しくて、今回の滞在ではそれだけがマイナス点だった。
映画は前回同様やはり満員で、10分前に開場しての自由席。最後尾のさらにうしろに補助席もいくつかできていた。わたしにとってはかなり面白い映画だったけど、こんなに人が押し寄せるような映画かと言われると疑問だ。たぶん上映回数が3回しかないから行列ができているだけだろう。
主人公の男三人組が女性に対してかなりひどい態度をとるシーンが延々続いたりもするので、人によってはそこで気分を害したまま映画に復帰できないかもしれない。時代が下ったときの表現についてはそういうものとして受け止めることが比較的容易にできて確実に鈍感なほうであるわたしでさえちょっと厳しいものを感じた。
大目にみるということは難しいかもしれないが、一旦ひどい奴らだと見下げ果ててしまえば、そこから先は笑ってみれる回路がつながることもあるかもしれない。一番ひどいときでも露悪的なわざとらしさは感じなかったが、こういう感じ方というのはひとによるし、露悪的でなく自然な分、よりたちが悪いということはいえるので、いずれにせよアウトはアウトだ。しかもぎりぎりとかではなく検証が必要ないほど余裕でアウトと思う。
わたしは時代のせいにできるような明らかな瑕疵はそれが明らかであればあるだけそれを瑕疵だと認識したあと無視しやすいというあまり公言するべきではない能力をもっているので、映画のそれ以外の部分に集中することができた。というよりもそのひどいシーンがあらわれるより前のシーン、地下鉄の会話と道端でのエアバスケ、それから体育館を借りてのバスケのシーンでだいぶ魂のほうを持っていかれたので、きびしいシーンをきびしく感じながらも彼らから離脱しようという気がしなかった。タイトルコールの際にみられた文字、A comedy about life, death and freedomによってある一面ではかなり抽象度の高いものの見方をするようになったからというのもある。2022年現在を生きるわたしにとっては、70年代のコメディもギリシャ喜劇も今から切断されたかのような地点として受容する対象になるということだ。
1秒たりとも退屈したくないというのは映画に対して求めるところではないので、いくら退屈なシーンがあってもあまり気にならないというのも良い方向に作用した。むしろ退屈と感じられるシーンがあるぐらいのほうが、作品に対して前のめりになれるという点で好みとするぐらいである。
件のきびしいシーンというのは酒屋で車座になって順番に歌を歌う場面だ。しかし、それが始まるまえに、この映画で一番光るシーンがある。それぞれのグラスと、それだけではなくピッチャーになみなみと注がれているビールの金色がとにかく輝いてみえるのだ。あのテーブルには生きていることの輝きが充溢している。最高である一瞬は明らかにそこにあって、しかもあっという間に正反対の最悪へと突入していく。一瞬がほんの一瞬であるだけに直前の輝きは幻のように感じられ、できるかぎりそれを引き延ばそうとする無益であるばかりか逆効果でしかない愚かな行為には歯止めが効かない。そればかりか男たちは3人集まって悪ノリの相乗効果を最大限突き詰めて、まるで競い合うかのように、トイレへと真っ逆さまに落ちていくようだ。彼ら本人たちだけが本人たちにだけわかるチキンレースを人を巻き込んで開催しているのだから、彼ら以外にはたまったものではない。
そして、このシーン全体で明らかになるのは、やむにやまれぬ狂騒の最悪な部分が最高の部分であるところの輝ける一瞬とつながっているということである。
さらにいえば、輝ける一瞬というのは何によってもたらされたものであるのかということにもなってくる。そしてそうであるならばもちろん、さらにその前からもつながっているということであって、ようするに彼らは、最悪と最高を行ったり来たりしながら道行く人の迷惑をかえりみることなく肩にぶつかったり悪態をついたり、ひどいときにはしなだれかかったりしながら進んでいくということだ。そしてひとり欠け、ふたり欠けというふうに、だんだんひとりぼっちになっていく過程をだらだらと進んでいくしかないのだ。明らかにピークを過ぎた見知らぬ人の飲み会に居残る男のように、直接的にお前なんて嫌いだと喚かれながらもほかにどこに行く宛もないあの男のように、遠くない将来に待つあんなふうな孤独にむかっていくことともつながっている。だからこそわれわれはあの男の歌が一番だと思ったりもするのだし、あんなやつは嫌いだと面と向かって悪しざまに罵りたくもなるのだ。
そのように考えると、つまり大いに悲観すべき結果のほうから作中の現在を振り返ってみると、142分ある作品全編を通してすべての時間が輝かしいものであると思えてくる。そして実際にそうなのだ。一番ろくでもないハリーでさえ最低の目に遭っているわけでは全然ない。ハリーにはガスがいる。しかもそれだけではなくアーチーがいる。彼らがいっしょにいるのを見ていると、何をさておいてもそれだけで、ここで起こっていることは、理解に苦しむようなよくわからないことがあっても、基本的にはなにか素敵なことなんだと思わせられる。
映画を見終わってから世田谷線で山下まで。招き猫の車両に乗ることができた。デニーズに行こうとするも店内入り口にゲロが落ちていたせいで入店できず。掃除させられる店員が気の毒だった。デニーズでご飯を食べる食欲がゼロになったのでべつの洋食屋に入る。ナポリタンは量が多くてよかった。デミソースのメンチカツが揚げハンバーグという感じでうまかった。
家に帰って録画していたかりそめ天国と100分で名著の中井久夫回を見る。寝不足にならないようにエルピスは見ないで寝る。

20221223

日記54

昨日
冨樫義博展にいってきた。漫画家の展に行くのは利口なことではないと思うから自分は行かないようにしようと思ってきたのだが、漫画家の展に一度も行かないままそう言うのも、ないとは思うがこっちが間違っているかもしれないと思うから一度だけ実際に行ってみて確認しようということにして自分のスタンスを崩して漫画家展に行ってみた。
行ってみて思ったのは富樫はやっぱり特別だということで、ジョジョの岸辺露伴回で見た生原稿の威力というものがたんなるフィクションではなく本当にあるのだということを知った。
とはいえ展示自体はかなり制限が多く、これは客層(というか客量)を考えると仕方ないのかもしれないがところどころ設置されている逆流禁止の看板と再入場禁止には閉口した。やはり漫画家展は普通の美術展に比べるといちいち足を運ぶようなものではないというのが結論になった。
それにしても原稿の威力はすごい。展示だけあってそれが描かれたものであるということにきっちりライトがあたっているので、よくもまあこんなページを作ったなという慄きがうまれる。個人的には、展示最後の原稿が半月ほどまえに全巻読み直してそのなかで一番笑い、あらためて好きになったページのものだったこともよかった。「コムギ……?」のウェルフィン。
とにかく見て思ったのは、冨樫義博は抜群に絵がうまいということで、それをふまえて先ほど出た結論に補足すると、抜群に絵がうまい漫画家の展示以外は見に行く必要がないということになる。冨樫義博展は見に行くべきとは言わないまでも見に行くことを勧めたい。表現のバリエーションもとくに多い作家なので見ごたえがあった。
行きは乃木坂まで電車でヒルズまで徒歩。帰りはバスで渋谷まで。渋谷のロフトでプレゼント交換用のプレゼントを物色して帰った。コートを着て行ったのだけど途中歩いていると暑くなってコートを脱ぎたくなるぐらいの天気だった。

20221221

日記53

ここ一週間ぐらいのあいだにやったことを列挙する。

・寝台列車に乗って関西へ行く
はじめて寝台列車に乗る。青春18切符で乗車券代わりになるという誤解のため、新幹線よりも高い料金をはらうことになって一時テンション下がるが、いつか乗ってみたいと思っていた寝台列車に乗れたからよかったと考え直し事なきを得る。早朝に姫路で降りて、新快速で大阪まで戻り、そのまま奈良まで帰る。無駄に青春18切符を使ったが、大阪までの車内できれいな日の出を見られた。たしか須磨あたりで太陽が見えたと思う。源氏物語で光君が飛ばされたのが須磨だったが、大阪まででも、しかも電車でもなかなかの遠さだったからわりと心細かっただろうなとちょっと思ったりした。
寝台列車はフラット席で毛布がついていて、浪漫的な気分は夜行バス以上だが、結構振動が強く、慣れるまでに時間がかかり寝付けなかった。やっと慣れてうとうとしかけた頃に姫路に到着した。

・フロントというカフェでお茶をする
奈良に到着してから、元ビブレがあった建物の一階でモーニング。昔書いた小説がカバンに入っていたので読んでみたら面白かった。書いてから2年経つが作者の言いたいことがわかった。お昼になったので知らないラーメン屋に入ってみようとするとちょっと待たされて、そのあいだに後ろに行列ができた。自家製麺というのが売りで950円もするラーメンだったわりに普通でとくに感動しなかった。器にはこだわっているようだった。
自分がもっと自作の小説を読めるように書いていかないといけない。
友人がちょうど仕事休みだということでドライブがてら「フロント」というおしゃれな田舎カフェに行く。ティラミスが推しだということでビールといっしょに注文する。こっちは感動するほどおいしかった。店内の広い窓から見える景色もよかった。

・東大寺の三月堂を拝観する
両親、祖母といっしょにバスで東大寺までいって三月堂の特別拝観を見る。秘仏・執金剛神像が見られる特別な日だったらしい。秘仏は小さいものと相場が決まっている。秘仏ではない方の四天王像が大きく迫力があって見ものだった。5分間だけと時間を切って拝観する仕組みが作られていて、そのせいで寒い中並ばせることになって高齢の祖母に申し訳なかった。それにしてもひとりあたり600円も拝観料を取るのには驚いた。べつのお堂でも特別拝観をやっていてそれも個別でお金を取るというのでボロいなとちょっと思ったが、スタッフを充実させていたので仕方ないのかもしれない。もっと工夫の余地はありそうだけどまあ奈良だからしょうがない。
こういうのも思い出になるのでやっぱり行かないより行くほうが良い。

・奈良駅前のバーでニューヨークというカクテルを飲む
マンハッタンとニューヨークは全然ちがうカクテルらしい。いい雰囲気と内装の店だったが、常連っぽい下品な高齢者の客がいて田舎を感じた。奈良は都会と言い張ってきたが、帰るたびそのイメージを維持するのが難しくなる。奈良は盛りを過ぎている。昔はジョーシンもダイエーも長崎屋もそごうもビブレもヤマダ電機も映画館もあったがすべて潰れてしまった。地方あるあるなのかもしれないが、衰退の傾斜が予想よりも急で、そのぶん寂しくなる。ただ小規模の商店には入れ替わりがそれなりにあって、しかも目を引くようなのが出来ていたりもするので、そういうところに希望を見るしかない。
べつに無理して希望など見ないでもいい。都会にも田舎者はいるし、そういう残念な場面に出くわしても気にしないことが重要だ。

・源氏物語を読みながら鈍行で東京へ戻る
寝台列車に乗った頃には帰るまでには源氏物語の中巻を読み終えたいと思っていたが読み終わらず。年明けからたくさんの暇があるという時期が終わるので最後の鈍行列車移動だと思ってのぞんだ。今回は京都・米原で乗り換えがうまくいかないという今までにないパターンだった。あと毎回思うことだが静岡はむだに長い。
たしかこの読書はあまりはかが行かず居眠りの時間が多かったと記憶している。格好ばっかつけてないでそういうことを書け。

・下高井戸シネマで映画を見ようとするも満席で入れず
19時45分からの回を見たいがために早起きして鈍行列車移動をしたのにもかかわらず満席だったので膝から崩れ落ちた。予約システムぐらい作ってくれ。奈良じゃないんだから。
うまく事が運ばないことがあると結構本気になって腹を立てることがある。中年のわるいところだがあまり出さないようにしたい。

・豪徳寺でフランス田舎料理を食べる
腹の虫がおさまらないと思ったけど、お腹に手を当てて考えてみたところ、たんに腹が鳴っているだけだと気づいたので世田谷線で山下まで引き返し、大量チーズのラザニアがうまいお店でご飯を食べようと思ってテーブルにつくも、売り切れだと告げられる。代替として注文した品もおいしかったけど、おいしかったけど、食べたいのはどうしてもラザニアだった。この日のみずがめ座は12位だったにちがいない。
このときの彼女は映画も見そびれ、ラザニアも食べそびれたにも関わらず文句も言わず上機嫌で食事に付き合ってくれてありがたかった。

・演劇の稽古でオンタイムで見れなかったM-1グランプリを追っかけ再生で見る
週に2回の稽古もそれなりの回数をこなしている。ワークショップをやってくれる演出の人がうまく慣れられるように心遣いをしてくれたおかげで早々に慣れてやれているのだが、慣れてしまうのも良し悪しで、自分の課題は自分で考えないと、ただ回数こなしているだけですぐ本番になって終わってしまうから気をつけないといけないなと思う。思うだけで具体的にどう気をつければいいのか自分だけでは見えないからどうしようかと悩みつつある。とりあえず舞台の上でも自分でいることを心がけようとはするけど、それはかなり難しいことなのではないか。だって客が入ってくるんだから。PKの練習はできてもPK戦の練習はできないということを思ったり。
M-1グランプリは面白かった。ここ2年にあった異常な熱はなかったけど。敗者復活戦はお客さんも演者も寒そうであまり良くなかった。場所がよくないんだと思う。
M-1グランプリをリアルタイムで見ていないことに驚いた。記憶の中ではリアルタイムで見ていたが、あれは追っかけ再生だったのか。

・ワールドカップの決勝戦を見る
メッシが伝説になった。エムバペは決勝でハットトリックをかましたうえで準優勝という例のない選手になった。そういう悲しい化け物を作ったという意味でもメッシはすごい。
漫画やん、を地で行かれるとそれ以上はないわけで、すごいなと圧倒されつつちょっとだけ鼻が白くなる。

・ジョジョリオンを読む
いつの間にか完結していたということを知り読み始める。その省略は省略し過ぎで成立していないのではと思わせるほど大胆な省略が見られて、しかもそれが全然苦にならないので、一種の伝統芸能感があると思った。
一年しか経っていないのにどんなふうに終わったのか全然覚えていない。やばい。記憶力もやばい。

・東京に遊びにきた友人と有楽町で飲む
話したいことを話していると本当に一瞬だった。たまたまエルピスを見ているといっていた。前田がタクシー降りるシーンがつき刺さったらしい。そのときには気がつかなかったが飲みすぎていて、翌日二日酔いで胃がきつかった。太田胃散をはじめて飲んでその効き目に驚いた。
もっとめちゃくちゃな飲み方をしたかった。もっと話すべきことがあった。遠慮したらあかん。


もっと日記を書きたいのに、Macの前にちゃんと座る日が少なすぎる。もっとスタバに行かなければ。
まあこのときは演劇の稽古をやっていたからね。仕方ないね。
あと久しぶりに関西にもどって思ったことだが、
東京のスタバは関西のドトール、
東京のタリーズは関西のベローチェぐらいの感じだと思う。客層というか居心地というか。

20221213

映画ベストテン【2022年】

今年もあっという間に映画ベストテンの時期になった。今年は例年以上にのんびりできた一年だったのだが、若干のんびりしすぎの気味があり、映画も本も目標本数・冊数に未達で終わった。とくに本が壊滅的で、具体的な数をあげるのが嫌になる。トピックだけをいくつか書くと、

2021年の下期に発見した永井均を読み進めた

『失われた時を求めて』を読み始めた

『源氏物語』を読み始めた

という感じになる。いつかは着手しなければならない名作二本を読み始めることでバランスをとろうとしているのは明白だが、さすが古典名作だけあって、量はまったく読めていないのにもかかわらずリストにするとそれなりにみえる。『失われた時を求めて』についてはたぶん来年中に読み終わることはないだろうから引き続きのんびり読み進めていきたい。今年の新年時期にとうとうトマス・ピンチョンの全著作を読み終えたことで、「長い小説が良い、長ければ長いほど良い」という価値観が一時的に発生し、それに後押しされるかたちでもっとも長大で有名な同作に挑戦する気運が高まった。のんびりできる時期だったというのも大きい。

上記のほか初読の作者は以下

蒲松齢(聊斎志異)

濱口竜介(カメラの前で演じること)

アナトール・フランス(少年少女)

ゲルハルト・リヒター(写真論・絵画論)

カルロ・ロヴェッリ(時間は存在しない)

エイモス・チュツオーラ(やし酒飲み)

トーマス・ベルンハルト(破滅者)

セス・フリード(大いなる不満)

アンソニー・ドーア(メモリーウォール)

数冊続けて読んだのはカルロロヴェッリとゲルハルトリヒター、トーマスベルンハルトぐらいのもので、あとは一冊だけでやめてしまった。いつか二冊目を読むものもあるだろうがとりあえず次、と。円城塔は安定で追いかけている。ゴジラSPもそうだが、ネット媒体で出している小品集が面白かった。


読んだ本の話はこれくらいにして本題。映画のベストテンについて。

これまたのんびりしてあまり熱心に映画館に行っていない。が、勘所を押さえて絶対必要な作品は外していない。情報社会の荒波のなかでしかるべく情報制限をかけたり、どうやってもそれが不可能そうな場合には公開初日を狙うなど、いよいよ作品選定とタイミング判断に習熟してきた。

映画のベストテンは見た順で、


偶然と想像

スパイダーマンノーウェイホーム(初日)

シンウルトラマン(初日)

ベイビーブローカー(初週)

リコリスピザ(初日)

NOPE

RRR

グリーンナイト(初週)

THE FIRST SLAMDUNK(初日)


上記9作品になった。おもな選外はバットマン、死刑にいたる病、ドクターストレンジ、犬王(初日)、FLEE、ザ・ロストシティ、ワンピースRED、ブレットトレイン(初日)、ザリガニの鳴くところ。

どれも退屈な映画ではなかったけれど、ベストテンに入るにはやや見劣りする。あとはホワイトノイズを見に行くつもりなので、それでベストテンがぎりぎり成立するかどうか。

あと、こうやって書き出すと、いくらなんでも初日に見に行けている作品が多すぎる。慣れとかではなくて、たんに暇があったから気になっている作品をすぐ見に行けただけじゃないかと思われる。

ベストテンの順位とそれぞれのひとこと感想を書く。


***


1位 リコリスピザ

映画として一番楽しめたという基準で、堂々の1位に選出された。上位になればなるほど、あとは好みの差ということになりがちだが、まんまそのとおりで、私にとってどタイプの映画だというのに尽きる。


2位 RRR

文句なく面白い。好きな映画かどうかと自問してみると好きとはならないのだが、威力が高すぎて、好悪の感情をぶっ飛ばしながら2位にまで上り詰めた。私にとって似たような位置にあるのがマッドマックスだったのだが、ちょっと馬力がちがうという印象。前輪駆動と4WDとの差と言ってもいいかもしれない。車のことはよくわからんのだけど。あとIMAXシアターに感謝。


3位 シンウルトラマン

私にとってウルトラマンというのはバルタン星人と切っても切り離せない作品だったのだが、どこか懐かしくそれ以上に新しい、最高のわくわく体験をさせてもらいながらバルタン星人のバの字も思い出さなかったすごい作品。何度も見たいと思うような作品ではないが、一度見たら忘れられないし、それで十分だと思わせられる。遊園地にある目玉ジェットコースターのような存在感であり、その期待を裏切られなかった。


4位 NOPE

ジャンル横断的でかつポピュラー映画でもあるという挑戦的な映画でかなり好きだった。IMAXに感謝。


5位 スパイダーマンノーウェイホーム

いわゆるファンムービーなんだけど、スパイダーマンスパイダーバース以降スパイダーマンのファンになっていたため存分に楽しめた。


6位 ベイビーブローカー

最近とくに、映画館でみる映画に迫力とか感覚面での充実を求める傾向があったので、こういう丹念な人物造形を土台につくられた丁寧な映画をじっくり見ることの価値が自分のなかで上がっている。くわえて、白黒つけないこと、簡単に白黒つけられないことを、しっかり映画としてみせていくのはそれだけで価値がある。作家性をもってそれを維持しながらも、暴力シーンに挑戦しているところなども評価するべきポイントだと思う。


7位 THE FIRST SLAMDUNK

公開前に情報を出さないやり方に乗っかって、何も知らないまま初日に見に行ったことでテンションの上がり幅が最高になった。対戦相手が映画内で公開されてから、くるぞ花道のアリウープとどんどん心拍数があがっていって、それが最高潮に達したときにかました最初の得点はやはり最高で、その余韻にひたりながら深津の得点を見るのがまた良かった。


偶然と想像(順位つけられず)

濱口竜介。この作品をはじめとして、その後特集上映で見たどの作品もこれまで見たことないほど良く、もう映画は当分見ないでもいいと思った。これ含め特集上映の作品全部が今回の1位のうえにあると言ってもいい。結局、映画に映っていて一番見てしまうのは「人」なのだった。怪獣とか絶景とかクライムシーンとか見て楽しいものはいろいろあるけど、見て一番楽しめるのはやっぱり人。私自身の好みとしても元々わかっていたことだけどはっきり再認識した。絵画は肖像画が一番好きだし、映画はポートレート映画が一番好き。群像劇もきれいな模様としてというよりは複雑なポートレートとして見たい。


グリーンナイト(順位つけられず)

これも順位がつかない。偶然と想像は面白いといえるけど、グリーンナイトは面白いのかどうかもよくわからない。絵本を読んでもらった小さな子どもがそれを面白いと感じられないのに似ているかも。色の印象のように感覚でしかないものを直接知覚させられた感じがある。しかも刻み込まれた感じで、忘れるまでずっとあるという気がする。忘れても忘れないのではないかという気もしていてちょっと気味がわるい。

何が良いことにつながっていて何が悪いことに結びついているのかわからなくなる場所で、迷子になってさまよう不安を主観で体験させる映画だった。道標も地図もある、しかしそれが何なのだと言われると、道標も地図もないときには存在しないべつの不安が萌すことになるが、その不安。

不安だけでなくどんなことにでも言えることだが、知っているのと感じるのとはべつのことだ。この映画は知らせるほうではなく感じさせるほうに特化している。


***


映画の感想を書くということがあまりできていない一年だったが、ベストテンをきっかけに考えてみて、まあ仕方なかったのかなと思えるようになった。感覚優位で楽しんでいるという傾向はどんどん増えるし、見てすぐの段階であれはこういう感覚だったとそれらしいかたちにまとめたくない。放っておくと次第に忘れていくことになるが、忘れるか忘れないかぐらいのときに思い出しながら受けた印象を拾っていくのがいちばん良いやり方のように思える。

だから恒例行事化して一旦スルーしたものを振り返る時間を持つようにするのはやっぱり良いことだ。

20221207

2022年ワールドカップ日本代表チームのこと

2022年のワールドカップ日本チームを見て思ったのは、良い目が出たということだった。
対戦相手にも恵まれていた。勝つ確率を上げるのは難しい強い相手だったけれど、決して勝てない相手というわけでもなく、結果、良い目が出て、あきらかに格上のチームに勝つことができた。
格上にも伍するだけの実力がついた、ではない。
クロアチアに勝ってベスト8に進み、圧倒的強者のブラジルと戦えるという経験ができなかったことが悔やまれる。チーム目標として掲げ「ベスト8に進出したい」と言っているが、その価値については正直よくわからない。べつのグループステージを勝ち上がってベスト16に進むよりも、ドイツを蹴落としてベスト16に進むほうが難易度が高く、それらが同じ結果だとは思わない。前大会より一歩前進したいという目標としてベスト8を捉えているとすればそれは達成されたと考えていいはずだ。
対戦相手に恵まれていたというのは、格上だが戦える相手が2チームも同じグループステージに入っていたことだ。そしてその格上がブラジルではなかったことだ。勝てないと思っていたドイツやスペインに勝ったあとでも、やっぱりブラジルに勝つことは全然想像できない。ブラジルはさらにもうひとつ格が違うと感じる。ドイツやスペインがブラジルに勝てないとは思わないが、それでもブラジルが勝つというイメージが先行する。ドイツがブラジルをけちょんけちょんに倒した過去を踏まえてみてもそのイメージが崩れないのだからちょっとすごい。あくまでイメージの話なのだけど、ここでいうイメージの話は、イメージの話だけで終わるようなものでもない。そのイメージを作り上げているひとつひとつのプレーがあり、そのプレーをみせる選手がいて、その選手たちが集まってチームになっているのだから。あれだけ高いレベルでのイメージの共有というところへ行くまでにはどれだけ距離があるのかちょっと計り知れないぐらいだ。
本当を言うと、実現可能かどうかというのは置いておいて言うと、目指すべきなのはブラジルだと思う。ノックアウト方式のトーナメントで、貴重な一点を奪われながらも、サッカーのプレーとして魅了されるようなゴールに感嘆するような体験ができれば良かったのにと思う。一切皮肉ではなく韓国が羨ましい。
今回の日本チームが見せた、耐える時間を耐えて、攻める時間に一気に攻めるというのは、結果的にも正しいし、エンターテインメント性も十二分にあった。二度の格上相手への逆転劇には、他にはちょっと記憶にないぐらい興奮した。ジャイアントキリングと言っていいと思う。
でも、もし良い目が出ずにそのまま敗退していたらと思うと、結構な博打のようにも感じてしまう。好き放題にやられる前半に失点しないこと、後半攻勢をかける時間にしっかり得点し逆転すること、そのハードルは、こうやって実際に飛び越えられたあとでも、また飛ぶのにはちょっと高すぎる。
今回の日本代表が過去最高の代表チームだというのは結果が表していることだと思うが、以前の代表チームにはきれいなパスワークで自分たちのサッカーを表現しようという野心があった。
2022年時点では今回のやり方がとてもうまく行ったと思うが、このやり方では限界がある。一生懸命とか、勝利を目指して、ということだけでは絶対に辿り着くことのできない先がある。たかがサッカーだという視点をもって遊び心を発揮しないといけないはずなのに、やたらと真剣勝負を煽り立てるのは可能性を閉ざしてしまうことだ。あえてそこに目をつぶって今最高のパフォーマンスを発揮しようとした姿勢にはリスペクトを抱きつつ、シリアスへの傾斜がきついメンタルでは脆さが出る場面もあるということは、大事な教訓であり反省すべき点だ。思いの強さが裏目に出るような場面では、思い切って思いの強さをないものとしなければならない。そんなの無理かもしれないけど、チームの雰囲気の持って行き方などである程度は調整できるかもしれない。
4年後というよりはこれからの4年が大切なので、たとえ最初は結果が出ずとも外国人監督を招聘するべきだ。うまく行かずともバックアッパーとして森保さんが控えていてくれるとすれば安心だし、少なくとも2年間はべつの監督を起用して挑戦すべきだと思う。

THE FIRST SLAM DUNKを見た

漫画と映画のちがいを感じる体験をしてきた。すなわち「THE FIRST SLAM DUNK」を見てきた。ほとんど情報解禁せずに上映するスタイルに敬意を表するつもりもあって、より現実的にはあらゆるネタバレを回避したいがために、公開初日に映画館に足を運んだ。

見終わってそれはもう大満足だったのだが、それでも忘れてはいけないなと思うのは、見に行く前に、『スラムダンク』を初日に見に行かないという選択肢はないなと思う一方で、クオリティが残念なものだったらどうしようとも思ったことと、たとえそうなったとしても大きく期待して盛大に裏切られるというがっかりイリュージョン的な展開でもまあ楽しめるからと、しっかり予防線を張っていたことだ。ようするに情報をあまり出さないのは自信のなさの表れなのではないかという邪推が働いたのだった。一応つけ加えておくと邪推になったのは作品のクオリティが完全に近いものだったからで、邪推をしてしまい面目次第もないとは思うもののそれをはるかに超える、邪推で済んで本当に良かったという気持ちがある。

いちばん最初のシーンでは正直やばいかもと焦ったのだが、その焦りから安堵のフェーズに入り(しかもこれ以上なく格好良く)、そこから対戦相手が登場することで、安堵から一気に興奮の坩堝(るつぼ)に引き込まれた。この感情の揺さぶられ方は、公開初日に映画館に行かなければ得られないものだったので、初日に映画館に行くという選択肢しかないという感覚は、余計な雑念が生じていたという事情をふくめても唯一の正解だったのだ。

漫画で見てきた、何度も読んできた試合。その最高の試合をべつの視点から見せるというのが「THE FIRST SLAM DUNK」の根本義だったように思う。
べつの視点というのはPGの視点である。プレーヤーでありながら試合を俯瞰するポジションの視点から、つまり宮城リョータの主観で、対戦相手の脅威や、息を呑むような驚異的プレーを見られるということでもある。味方の2番(SG)も3番(F)も4番(PF)も5番(C)もとにかく心強い。彼らのプレーが想像の上をいく驚きをもっとも間近で感じているのが司令塔の1番(PG)である。その新しい視点から見られる景色で、漫画でも感じていた慄くようなプレーの数々が、アニメーションになったこともあって新鮮なものに生まれ変わっている。とくに3番と4番がみせる試合中の成長は、とりわけ4番の奇想天外な活躍場面は、彼の主人公感を隠しきれておらずヒーロー全開で、「THE FIRST SLAM DUNK」では主人公の位置を譲っているのにもかかわらず、いやそれだからこそ、彼が主人公であるということの必然を感じさせた。
アニメならではの演出の素晴らしさとして、つよいセリフをさりげなく使っているというところが挙げられる。たとえばあの試合中で一番好きなセリフでもある「ゴリ! まだいけるよな!!」というセリフがさりげなく使われていて、そのさりげない置き方にかなりグッときてしまった。そういう何気ない小さな声かけによってかろうじて繋がっていく道筋がたしかにあって、それは何気ないのと同時につよい影響を人に与える言葉だったりする。だからこそ、何気なさを持ったまま、しかしかぎりなく思いのこもった言葉でもあるという、今回の映画特有の演出になっていたと思う。
一方で、試合最後の得点が入るシーンについては、漫画を超えることは難しかった。
映画を見ながら、どのシーンの出来も言うことないレベルにあるのをつぎつぎと認めるうちに、どうしても「最後のあのシーン」に対する期待が高まっていくのを抑えることができなかった。極集中状態の静音という演出は、それしかないというものではあったが、あれは桜木と流川の世界であって宮城の見ている世界ではない。
たしかに、あの試合のあの場面は、否応なくコートの全員が同じ状態に引き込まれるのかもしれないとも思うのだが、一方で、宮城のその後の活躍を思えば、そこから抜けられるほどのフテこさがあるのではないかとも想像させられる。ひとつの方向に鋭く無時間的にすすんでいく過程を描きながら、それと同時に、色々なものが見えて聞こえている視点を描くことは、映画表現ではおそらく不可能だから、やはりあの場面はあれしかないというシーンだったと言えそうだ。
そもそも、無時間的な時間を描くというのは映画に可能なことではないのかもしれない。
しかし、漫画にはそれが可能であることをスラムダンク読者は知っている。私がはじめてスラムダンクを読んだのは同世代のなかではかなり遅く、高校生の頃だったが、はじめて読んだときの衝撃は今でも忘れがたい。漫画なので次のコマを読むためにページをめくらなければならないのだが、ページをめくるという感覚は完全に消失していた。そこにはスローでもなくリアルタイムでもない時間の流れが確実に存在していた。それは無時間的な時間経過、純主観的な時間の流れともいえるもので、決められたフレームレートがある映画に可能な時間感覚ではない。スラムダンクという漫画が何より驚異的なのは、無時間的な時間経過という矛盾を読者の世界に存在させたことだ。
それに対して、映画「THE FIRST SLAM DUNK」はべつの見え方をする素晴らしいシーンの数々を作り上げていったが、バスケットボールの試合を見せるという意気込みをもつ時点で、最後には一点差で負けるよう決定づけられた試合をするようなものだった。バスケの試合ではどのシュートも決まれば2点(か3点)で、深津という選手が言うように「同じ2点」だ。しかし、最後の2点や試合の流れを決定づける2点だけは、同じ2点でありながら、それと同時に、ほかとはちがう「最高の2点」ともなる。試合がそれ自体でひとつの物語である以上、その重力に引き込まれるようなかたちでどうしてもそうなる。そして、その2点を見るためにバスケットボールの試合を見ている、引いてはバスケットボールの試合があると言いきってしまってもいい。クライマックスが最後の数秒に凝縮されていく以上、最後のワンプレーがすべてを決定づける。だから、ことスラムダンクにおいて漫画に対する映画の敗北は必然なのだが、それでも勝負に勝とうとして最後まで全力で、ただのいちシーンも緩むことなく描ききったのは驚嘆すべきことだ
あと、漫画よりも映画演出のほうが俯瞰してバスケの試合として見ることがしやすくなったので思うのだが、対戦相手の監督はバスケの監督としてはかなりレベルが低い。結果論でしかないとはいえ、ろくに得点しない松本より、ディフェンスが得意な一ノ倉を使うべきだった。
そうは言っても、あの土壇場で(後半からの出場で明らかにマッチアップの相手よりはるかに余力を残す)松本が、ノリにノッている3Pシューターのマークを外すとは思わないだろうから、監督だけを責めるのは酷かもしれない。その場合、責を負うべきなのは背番号6のガード松本稔である。それでも、メンバーを決めるのは監督なのだから結局、もっとも責を負うべきなのは監督の堂本五郎であることに変わりはない。「負けたことがあるというのがいつか大きな財産になる」じゃねえよと、誰かキレても良さそうなものだ。
ただそれにしても、勝つことでより強くなるような勝ち方を選ぼうとしたということで、そうやって最強の座を作り上げていったチームでもあるのだろうから、あの一試合だけを見て監督のレベルが低いというのはやや軽薄にすぎるかもしれない。
ただ、少なくともあの試合にかぎって言えばベンチワークはかなりお粗末だった。ベンチから対処しないで選手に任せるというように堂々と構えるでもなく、ちょこちょこ動いておいてあの結果なのだからそこに関してはあきらかに監督の失策である。
その流れで考えると、試合後に選手たちに声をかける必要があったとはいえ「負けたことがあるというのがいつか大きな財産になる」というのはあまりにもひどい。ひどいとは知りながらそれでも何か言わなければならないと思って仕方なく言ったことなのだろうから、批難しようとは思わない。しかし名言だとは決して思わない。挑戦を続ける以上負けは必然だからだ。その機会を与えるというニュアンスが混じっているように聞こえてしまうし、もしそのニュアンスが入っているのだとすれば烏滸がましい(おこがましい)にもほどがある。かつらむきと同様、思い切って削ってもいいシーンだと思った。ラストに繋がりがあるといってもやっぱり宮城視点からは関係ないわけだし。

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