もし好きな服ができたら、つぎに何ができるかといえば、その好きな服を着ることができる。もしくは、その好きな服を着ている自分を想像することができる。これはファッションでしか果たすことのできない、とても強力な享楽だ。自分が好きだと思うものを身につけることができる。このことはある種、変態的な歓びだと思うが、驚くべきことにこの行為は禁止されていない。自分が好きな洋服を着衣のうえ、公衆の面前で大手を振って歩いたとしても、誰から罰されることもないのだ。ある特定の身体箇所を隠すことが必要とされるなど、服装にルールはあるのだが、逆に言うとそれさえ守っていれば問題は生じえない。露出に絶対普遍の価値をおく、ごく一部の純粋な人にとっては悲しむべきことなのかもしれないが、それにしても、考え方を裏返すなどしてしかるべき教育を自分自身に施せば、全員が局部を隠蔽するルールを守っているということの変態性に思いを致せるはずである。純粋を犠牲にした先にこそ、目指すべきファンダムはきっとある。
あなたがある色に対する偏愛を持っているのであれば、それを発揮し、愛を表現することができる。全身くまなく青色で揃えてもいいし、より隠微なかたちで、どの服装にもさりげなく青を忍ばせてもいい。あるいは、誰の目に触れることもない下着の色を赤で統一することなど、これが呪術でなくて何であろうか。
色のほかにも、形のちがいがある。たとえば襟のかたちひとつとっても、種々様々なちがいがある。袖の長さにも極度に短くゼロに近いものもあればピンと伸ばした手指が見えないほど長いものもある。どのかたちを選ぶか、どの長さを選ぶか、どの色を選ぶか、組み合わせはほとんど無限にある。
そのなかから「私はこれが好きだ」という服を選ばなければならない。あなたが妥協を許さない性格であれば、好きな服を見つけるという事業は難航をきわめることだろう。目で見て「これだ、これが私の好きな服だ」との直感が働いたとしても、実際に着てみて全然違ったということだってあるかもしれない。さらに「これが最高だ」と思うズボンを選べたとしても、合わせるシャツがないという憂き目にだって遭わないともかぎらない。好きな服を探す過程は、人により場合によっては、非常な苦労の連続だともいえる。
だが、好きな服はいずれ見つかる。「これだ」という服が見つかる日はやってくる。ひょっとすると、それは確信とはほど遠いものかもしれない。好きか嫌いかで言われれば好きだけど…、と自分の感覚に自信が持てないままかもしれない。自分以外の他人に、仲の良い友人・家族にも、「この服が好きだ」とはどうしても言えないかもしれない。
それでも、じつはその服が好きだということはもちろんありえることだし、口に出さないままそれを表現することもできる。その服を着ればいいのだ。実際、好きなものを身に着けたときの拡張感覚には驚くべきものがある。子供の頃、お祭りで買ってもらったウルトラマンのお面を着けたときの万能感、あれを思い出してみればいい。
好きな服を着ることができるということ。これに代わる、これ以上のファッションの利点は、はっきり言ってない。あるとしても異性にもてるぐらいだ。