美術展とデザイン展は似ているようで全然ちがうということを最近になってだんだん理解するようになってきたが、そこにあるグラデーションをデザイン展よりに振り切ったような展示だった。
デザイン展は美術展とちがって観客のことをあまり信用していないというメッセージが浮かび上がるものだと思うが、今回の展示ではそのメッセージが浮かび上がることを予期した上でそれにも対処してデザインされているように感じられた。美術展のほうは、観客を信用しているというお題目を唱えながら実際には手を抜いているだけということもよくあるんだと思うから、よくあると言ってわるければそういうこともあるんだろうと思うから、あるといってしまってわるければそう言えるといえばそうとも言えるんだろうから、美術展のほうが良いとは言えないけれど、それを加味した上でも美術展のスタンスのほうが好みなのだが、行き届いたデザイン展のなかを周遊するのはそれはそれで面白い。川を泳ぐのと池を泳ぐのとのちがいという気がする。一方にはあらかじめ決められた流れがあり、もう一方には決まった流れがないというちがいだ。
さすがデザイン展といったところで、見せ方に感心したが、中身については通り一遍のものにすぎないと思った。卓越した見せ方であればあるだけ、中身についてはそれとの比較でどうしても薄っぺらに見えざるを得ないのかもしれない。考え方や文章やコンセプトがいくら凡庸なものであっても、見せ方によってはそれが輝いてみえるということもあるが、見せ方が整えられていて美しければ美しいほどそれが輝くかと言われれば必ずしもそうはならないということを明らかに示していた。(卓越したデザインだからこそ、鮮やかなほどそれを浮き彫りにしていたのだと付言しておきたい。)
ただし、見せ方が並外れて美しいことで結果的に多くの人がそれを見ることになる。見るのにも段階があり、ある程度から先は、見る側の心持ちがそのまま反映される領域になる。導入と展開をべつの領分として、デザインは導入に特化していると考えれば、つまり展開するのは各々の心の内側でのことだと決めてしまうのであれば、このやり方がもっとも優れているだろう。ちなみに、先ほどの観客を信用する/信用しないの二分は反転している。
めったに見れないような美しい内容があったとしても、それを受け取る人がいなければむなしいし、反対に、どこでも見られるような内容であったとしても、受け取る人のなかにそれを響かせる鐘があればきれいな音が鳴る。大切なのは中身や内容ではなくて、それによって鳴らされるものだ。外見や形式によって、それとの比較・二項対立によって、中身や内容は重要度の高いものと考えられがちだが、大事なことをもしひとつだけ選ぶのであれば、それは外見や形式にならないし、それと同じように中身や内容にもなりえないはずだ。
だから結局、デザインを見て自分のなかになにかが鳴るのであればデザインでいいし、美術を見て鳴るのであれば美術でいいというだけの話だ。そして、大きな音で鳴らされるとき、とても小さな音で鳴らされるときなど、局面はさまざまある。
そうは言っても音の話をしているのではないので、大きな音がしたから鳴っているという証明にはならない。もちろん、小さな音だから鳴っていなかったとすることもできない。べつにできるといえばできるのだが、それをする意味はない。鳴ったか鳴ってないかという問題は、究極的には自分だけの問題だ。究極(アルティメット)などといって大それないでも、どこまでいっても自分だけの問題でしかなく、本質的にけちな問題だといえる。けちな問題だから、それを手放そうとする[合理的な]人も少なくないのだろう。
美術であればあるだけ小さい音がなり、デザインに寄れば寄るだけ大きい音がなるのかなとも思ったりもするが、そんな簡単なものでもないのかもしれない。とはいえ別段むずかしく考える必要も差し当たってないわけで、一旦そう考えることにしておく。そして、とても小さい音が鳴ったとき、とても小さくてほとんど聞こえないぐらいなのに、それでも鳴ったという確信が去らないような鳴り方で小さい音が鳴ったときに、私は嬉しい。美術でも音楽でも小説でもなんでも、そういうものを探しているんだと思う。共鳴するなら小さな音で、というのが私のけちな人世観だ。