20221122

失われた時を求めて2

「失われた時を求めて」をまだ読んでいる。まだまだ読んでいる。まだ4巻の途中なので、まだまだ読了は先である。しかし4巻の途中から訳を変えてから一気に読みやすくなった。光文社から岩波にかえたのだが、岩波の訳文のほうが自分でも驚いたぐらいしっくりくる。最初、光文社で読み始めたのは、訳者のスタンスに共鳴したからだったのだけど、訳文の読みやすさはそれとはあまり関係がなかったようだ。それでも、今回重い腰をあげて「失われた時を求めて」を読み始めたのは光文社版の1巻がきっかけだったのだから、あまり足を向けるようなことを言うべきではないとこれ以上訳文についてああだこうだ言うのは自重しておく。ただ、岩波の吉川一義訳はとても読みやすい。

4巻の副題は「花咲く乙女たちのかげに」となっている。アルベルチーヌや彼女の友達のアンドレ、ジゼルが出てきて、面白さが一気に加速したように感じられる。それまでとはべつの段階に差し掛かったときに発生する新奇性のボーナスと、併読している「源氏物語」との状況の近似による関連性のボーナスを差し引いてとしても、十分面白いと思うのだが、実際に差し引いて考えることはできないのであくまでも想像ではという但し書きをつけなければならないのだが。

ただ、女の子たちとの邂逅にともなって、「わたし」の考え方が、サン=ルーと出会ったときの感じ方・考え方とはべつのものになってきていて、それが確かにそうだなと思わせられる納得感のつよい文章になっていたので、やや長いがまるまる引用しておきたい。自分の望みと友情とを天秤にかけるような内容で、それに女の子たちとの心楽しい交遊がからんでくる。ここで「わたし」が言っていることをどう捉えればいいのか、どの程度「わたし」の考えだと思えばいいのか、ということも考えさせられる。つまり、語り手である「わたし」の時制がある一点に固着しているようでもありそうでもないようにみえる独特の文章なので、それを味わうのにもうってつけであって、「失われた時を求めて」という小説の醍醐味ともいえる文章が展開されている。

ただ、私が最初に感心したのはその内容である。内容について引っかかり、それに引っかかって考えているうちに上のようなことを考えだしたという順番であり、たんに書かれた内容について膝を打ったといえばいいのだけれど、内容が内容だけにそのまま引用するのに二の足を踏んだというか少し気が引けた。しかし、ここまで書いたから一応区切りのいいところまで正直に言ってしまうと、昔自分が考えていたようなことが書かれてあって、その再現度に驚かされたということが起こったのだった。というわけで、若干偉そうにはなるのだが、今同じように考えているわけでもなし、かといって、完全にこの考えから足を洗ったともいえないわけで、ISLTよろしく、なんとか私が「思った」その時制をぼやかしたうえで引用できないかと目論んだのだった。つまり、端的に言うと、引っかかったのは今だが、それは過去の私に由来してというか、それを思い出しつつ引っかかったということを強調したかったということだ。では最初からそう言えばいいことではあるのだが、もうひとつ、今も同じように考えているきらいがあるというのも、ややこしく、残念なことながら含まれているのであって、それでくだくだしく、ごちゃごちゃと言い訳を並べながら引用文を投下する準備を整えていったのだ。以下引用。


563

とはいえ、楽園で一日をすごすこの楽しみのために、社交上の楽しみのみならず友情の楽しみまで犠牲にしたとしても、あながち私の間違いとは断定できない。自分のために生きることのできる人間は――たしかにそんなことができるのは芸術家であり、ずいぶん前から私はけっして芸術家になれないと確信していた――、そうする義務がある。ところが友情なるものは、自分のために生きる人間にこの義務を免除するものであり、自己を放棄することにほかならない。会話そのものも、友情の表現様式である以上、軽薄なたわごとであり、なんら獲得するに値するものをもたらしてくれない。生涯のあいだしゃべりつづけても一刻の空虚を無限にくり返すほかなにも言えないのにたいして、芸術創造という孤独な仕事における思考の歩みは深く掘りさげる方向にはたらく。たしかに苦労は多いけれど、それだけが真実の成果を得るためにわれわれが歩みを進めることのできる、唯一の閉ざされていない方向なのである。おまけに友情は、会話と同じでなんら効能がないばかりか、致命的な誤りまでひきおこす。というのも、われわれのなかで自己発展の法則が純粋に内的であるような人は、友人のそばにいると心の奥底へと発見の旅をつづける代わりに自己の表層にとどまって退屈を感じないではいられないものだが、ひとりになるとかえって友情ゆえにその退屈な印象を訂正する仕儀となり、友人が掛けてくれたことばを想い出しては感動し、そのことばを貴重な寄与と考えてしまうからである。ところが人間というものは、外からさまざまな石をつけ加えてつくる建物ではなく、自分自身の樹液で幹や茎につぎつぎと節をつくり、そこから上層に葉叢を伸ばしてゆく樹木のような存在である。私が自分自身を偽り、実際に正真正銘の成長をとげて自分が幸せになる発展を中断してしまうのは、サン=ルーのように親切で頭のいい引っ張りだこの人物から愛され賞賛されたというので嬉しくなり、自身の内部の不分明な印象を解明するという本来の義務のために知性を働かせるのではなく、その知性を友人のことばの解明に動員してしまうときである。そんなときの私は、友のことばを自分自身にくり返し言うことによって――正確に言うなら、自分の内に生きてはいるが自分とはべつの存在、考えるという重荷をつねに委託して安心できるその存在に、私に向けて友のことばをくり返し言わせることによって――、わが友にある美点を見出そうと努めていた。その美点は、私が真にひとりで黙って追い求める美点とは異なり、ロベールや私自身や私の人生にいっそうの価値を付与してくれる美点である。そんなふうに友人が感じさせてくれる美点に浸ると、私は甘やかされてぬくぬくと孤独から守られ、友人のためなら自分自身をも犠牲にしたいという気高い心をいだくように見えるが、じつのところ自己の理想を実現することなど不可能になるのだ。



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