20221124

日記52

『源氏物語』をちょくちょく読み進めていて、すでに中巻に差し掛かっている。今日は「篝火」を読む。娘ほどに若い玉鬘への光君のアプローチは完全にキモがられていて取り付く島もない状態だったのだが、強がりなのか何なのか、ひょっとすると余裕しゃくしゃくということをアピールしたいのか、光君は玉鬘に惹かれる若い男たちの手紙を勝手に見たりして、玉鬘に「ちゃんと返事書いたりや」などと助言している。こんなおじさんは嫌だという大喜利題を地で行っているようにしか見えないが、そこはまあ絶世の美男ということで免罪されるようである。いい加減そろそろわりと難しくなってきている、というかさすがにもう難しいようだが、まずは失点して徐々に挽回するといういつものパターンに入っているようにもみえて空恐ろしい。
なぜかここには書いていないが「ちゃんと返事書いたりや」ということを言ってしまうということについてすごく気持ちがわかるところがある。単純な利害を越えて良し悪しをアドバイスしたいという感情には身に覚えがある。もちろんそのことで遠回しに利益を得ようとしてのことだ。婉曲迂回ルート的にさもしい。俯瞰したときに浮かび上がる線を見るとそう思う。

『失われた時を求めて』の4巻を読み終える。3巻と4巻が「花咲く乙女たちのかげに」という副題なのだが、それにふさわしい展開が4巻の後半になってようやく出てきた。ずっと蕾状態が続き、ある朝突然ぱっと花開くように鮮やかな印象を残した。語り手の「わたし」は、自己言及するときに自分のことを守ろうとして煙に巻こうともせず、かといって必要以上に露悪的にもならず、正直な語りをずっと続けているので、恋愛に関する洞察部分がとくに面白い。率直で開け広げだから一歩間違うとシニカルな態度とも捉えられかねないが、ここまでのところは過去の燃え盛った恋愛に対する冷笑的なまなざしは一切ないように思える。気恥ずかしさから反省の目を厳しく向けて、あのときの行動は駄目だったと安易に総括したりしないところに真摯な姿勢を感じさせる。何に対して真摯かといえば、対象たる過去と、見る主体たる現在に、ということになるかと思う。ありのままを写し取ろうとする写生画家のスタンスに近い。みっともなさに耐えることができるのは、今を起点にしたとき、対象がそれだけ遠いところにあるからだろうか。それにしても「思い出す」ということをすると遠いままではいられず、安心な距離を保てないはずだが、これだけ活写しておいてあまり動じていないようにみえるのはなぜなのかというひとつの宙吊り事項があらわれた。この先に、達観というか見切りというか腹の据わり方というか、その原因が語られることになるのかと思うと先が気になる。
『失われた時を求めて』は一年後のいま思い返してみても面白かった。途中で読まなくなった理由は自分で小説を書き始めたからだが、書き始めた小説はまだ完成していない。その目処も立たないし、五合目なのか六合目なのかどこまで進んだのかもわからない。まったくの見通しゼロ状態。『失われた時を求めて』を再開しても良いぐらいだ。そうしようとは思わないが。

今日は日中暖かい日で、この秋という季節の素晴らしさを感じさせた。今年の秋は長く、その魅力を存分に発揮している。天気もそれほど崩れずに晴れる日が多いし、暑くなくなってから寒くなるまでに相当の期間がはさまれていて、ごく控えめに言っても超最高だ。
今年の秋もここまでのところ存分に秋状態をキープしてくれていて超最高だ。こんなに良いときが続くのはとても良いことだ。どうにか瓶詰めにして保存しておきたいぐらいだ。


そういえば昨日はドイツ戦があった。前半に絶望した分、後半に爆発した試合展開もあいまってつい絶叫してしまい、今朝起きたら声が飛んでいた。
じつは私は大迫原理主義者だったので、代表メンバー発表時には浅野の選出にちょっとした疑念をさしはさんでしまったのだが、私が間違っていた。
あの逆転ゴールで見せた3タッチは浅野にしかできない特有の輝きで、肉食獣のしなやかさを思わせる美しいゴールハンターぶりだった。単純にサッカーのプレーとしても最高峰のものだが、あれだけの大舞台で披露するとなると巡り合わせも必要で、単純にただのスーパープレーとは呼べず、「歴史的な」と形容するしかない出来事だった。
身体がぶるぶる震えるのを抑えられないほど興奮した。抑える気もなかったが。ああいうプレーでゴールを決められるサイドを応援していることだってあるわけで、決める側を応援できていたのだって五分なのだから、僥倖と言わなければならない。
こういうことを言うのは大げさなようで全然大げさではない。自分の胸にきいてみればわかる。
この気持ちはよくわかる。サッカーは面白い。ワールドカップは面白い。「うわあああああ」という叫びがあとから自分の耳から認識される状態というのは「声を出す」の最上級だと思うがそれがあった。この一年、これ以降にもいくつかあったんだろうと思うが、記憶に残るようなそれはこれ一回きりだったかもしれない。いやそんなこともないかな。まあこんなふうに日記を読み返していけばわかることだ。

20221122

失われた時を求めて2

「失われた時を求めて」をまだ読んでいる。まだまだ読んでいる。まだ4巻の途中なので、まだまだ読了は先である。しかし4巻の途中から訳を変えてから一気に読みやすくなった。光文社から岩波にかえたのだが、岩波の訳文のほうが自分でも驚いたぐらいしっくりくる。最初、光文社で読み始めたのは、訳者のスタンスに共鳴したからだったのだけど、訳文の読みやすさはそれとはあまり関係がなかったようだ。それでも、今回重い腰をあげて「失われた時を求めて」を読み始めたのは光文社版の1巻がきっかけだったのだから、あまり足を向けるようなことを言うべきではないとこれ以上訳文についてああだこうだ言うのは自重しておく。ただ、岩波の吉川一義訳はとても読みやすい。

4巻の副題は「花咲く乙女たちのかげに」となっている。アルベルチーヌや彼女の友達のアンドレ、ジゼルが出てきて、面白さが一気に加速したように感じられる。それまでとはべつの段階に差し掛かったときに発生する新奇性のボーナスと、併読している「源氏物語」との状況の近似による関連性のボーナスを差し引いてとしても、十分面白いと思うのだが、実際に差し引いて考えることはできないのであくまでも想像ではという但し書きをつけなければならないのだが。

ただ、女の子たちとの邂逅にともなって、「わたし」の考え方が、サン=ルーと出会ったときの感じ方・考え方とはべつのものになってきていて、それが確かにそうだなと思わせられる納得感のつよい文章になっていたので、やや長いがまるまる引用しておきたい。自分の望みと友情とを天秤にかけるような内容で、それに女の子たちとの心楽しい交遊がからんでくる。ここで「わたし」が言っていることをどう捉えればいいのか、どの程度「わたし」の考えだと思えばいいのか、ということも考えさせられる。つまり、語り手である「わたし」の時制がある一点に固着しているようでもありそうでもないようにみえる独特の文章なので、それを味わうのにもうってつけであって、「失われた時を求めて」という小説の醍醐味ともいえる文章が展開されている。

ただ、私が最初に感心したのはその内容である。内容について引っかかり、それに引っかかって考えているうちに上のようなことを考えだしたという順番であり、たんに書かれた内容について膝を打ったといえばいいのだけれど、内容が内容だけにそのまま引用するのに二の足を踏んだというか少し気が引けた。しかし、ここまで書いたから一応区切りのいいところまで正直に言ってしまうと、昔自分が考えていたようなことが書かれてあって、その再現度に驚かされたということが起こったのだった。というわけで、若干偉そうにはなるのだが、今同じように考えているわけでもなし、かといって、完全にこの考えから足を洗ったともいえないわけで、ISLTよろしく、なんとか私が「思った」その時制をぼやかしたうえで引用できないかと目論んだのだった。つまり、端的に言うと、引っかかったのは今だが、それは過去の私に由来してというか、それを思い出しつつ引っかかったということを強調したかったということだ。では最初からそう言えばいいことではあるのだが、もうひとつ、今も同じように考えているきらいがあるというのも、ややこしく、残念なことながら含まれているのであって、それでくだくだしく、ごちゃごちゃと言い訳を並べながら引用文を投下する準備を整えていったのだ。以下引用。


563

とはいえ、楽園で一日をすごすこの楽しみのために、社交上の楽しみのみならず友情の楽しみまで犠牲にしたとしても、あながち私の間違いとは断定できない。自分のために生きることのできる人間は――たしかにそんなことができるのは芸術家であり、ずいぶん前から私はけっして芸術家になれないと確信していた――、そうする義務がある。ところが友情なるものは、自分のために生きる人間にこの義務を免除するものであり、自己を放棄することにほかならない。会話そのものも、友情の表現様式である以上、軽薄なたわごとであり、なんら獲得するに値するものをもたらしてくれない。生涯のあいだしゃべりつづけても一刻の空虚を無限にくり返すほかなにも言えないのにたいして、芸術創造という孤独な仕事における思考の歩みは深く掘りさげる方向にはたらく。たしかに苦労は多いけれど、それだけが真実の成果を得るためにわれわれが歩みを進めることのできる、唯一の閉ざされていない方向なのである。おまけに友情は、会話と同じでなんら効能がないばかりか、致命的な誤りまでひきおこす。というのも、われわれのなかで自己発展の法則が純粋に内的であるような人は、友人のそばにいると心の奥底へと発見の旅をつづける代わりに自己の表層にとどまって退屈を感じないではいられないものだが、ひとりになるとかえって友情ゆえにその退屈な印象を訂正する仕儀となり、友人が掛けてくれたことばを想い出しては感動し、そのことばを貴重な寄与と考えてしまうからである。ところが人間というものは、外からさまざまな石をつけ加えてつくる建物ではなく、自分自身の樹液で幹や茎につぎつぎと節をつくり、そこから上層に葉叢を伸ばしてゆく樹木のような存在である。私が自分自身を偽り、実際に正真正銘の成長をとげて自分が幸せになる発展を中断してしまうのは、サン=ルーのように親切で頭のいい引っ張りだこの人物から愛され賞賛されたというので嬉しくなり、自身の内部の不分明な印象を解明するという本来の義務のために知性を働かせるのではなく、その知性を友人のことばの解明に動員してしまうときである。そんなときの私は、友のことばを自分自身にくり返し言うことによって――正確に言うなら、自分の内に生きてはいるが自分とはべつの存在、考えるという重荷をつねに委託して安心できるその存在に、私に向けて友のことばをくり返し言わせることによって――、わが友にある美点を見出そうと努めていた。その美点は、私が真にひとりで黙って追い求める美点とは異なり、ロベールや私自身や私の人生にいっそうの価値を付与してくれる美点である。そんなふうに友人が感じさせてくれる美点に浸ると、私は甘やかされてぬくぬくと孤独から守られ、友人のためなら自分自身をも犠牲にしたいという気高い心をいだくように見えるが、じつのところ自己の理想を実現することなど不可能になるのだ。



ファッションの利

ファッションの利点は好きな服ができることだ。好きな服ができさえしたら、そのとき、ファッションの役割は果たされたといっても過言ではない。
もし好きな服ができたら、つぎに何ができるかといえば、その好きな服を着ることができる。もしくは、その好きな服を着ている自分を想像することができる。これはファッションでしか果たすことのできない、とても強力な享楽だ。自分が好きだと思うものを身につけることができる。このことはある種、変態的な歓びだと思うが、驚くべきことにこの行為は禁止されていない。自分が好きな洋服を着衣のうえ、公衆の面前で大手を振って歩いたとしても、誰から罰されることもないのだ。ある特定の身体箇所を隠すことが必要とされるなど、服装にルールはあるのだが、逆に言うとそれさえ守っていれば問題は生じえない。露出に絶対普遍の価値をおく、ごく一部の純粋な人にとっては悲しむべきことなのかもしれないが、それにしても、考え方を裏返すなどしてしかるべき教育を自分自身に施せば、全員が局部を隠蔽するルールを守っているということの変態性に思いを致せるはずである。純粋を犠牲にした先にこそ、目指すべきファンダムはきっとある。
あなたがある色に対する偏愛を持っているのであれば、それを発揮し、愛を表現することができる。全身くまなく青色で揃えてもいいし、より隠微なかたちで、どの服装にもさりげなく青を忍ばせてもいい。あるいは、誰の目に触れることもない下着の色を赤で統一することなど、これが呪術でなくて何であろうか。
色のほかにも、形のちがいがある。たとえば襟のかたちひとつとっても、種々様々なちがいがある。袖の長さにも極度に短くゼロに近いものもあればピンと伸ばした手指が見えないほど長いものもある。どのかたちを選ぶか、どの長さを選ぶか、どの色を選ぶか、組み合わせはほとんど無限にある。
そのなかから「私はこれが好きだ」という服を選ばなければならない。あなたが妥協を許さない性格であれば、好きな服を見つけるという事業は難航をきわめることだろう。目で見て「これだ、これが私の好きな服だ」との直感が働いたとしても、実際に着てみて全然違ったということだってあるかもしれない。さらに「これが最高だ」と思うズボンを選べたとしても、合わせるシャツがないという憂き目にだって遭わないともかぎらない。好きな服を探す過程は、人により場合によっては、非常な苦労の連続だともいえる。
だが、好きな服はいずれ見つかる。「これだ」という服が見つかる日はやってくる。ひょっとすると、それは確信とはほど遠いものかもしれない。好きか嫌いかで言われれば好きだけど…、と自分の感覚に自信が持てないままかもしれない。自分以外の他人に、仲の良い友人・家族にも、「この服が好きだ」とはどうしても言えないかもしれない。
それでも、じつはその服が好きだということはもちろんありえることだし、口に出さないままそれを表現することもできる。その服を着ればいいのだ。実際、好きなものを身に着けたときの拡張感覚には驚くべきものがある。子供の頃、お祭りで買ってもらったウルトラマンのお面を着けたときの万能感、あれを思い出してみればいい。
好きな服を着ることができるということ。これに代わる、これ以上のファッションの利点は、はっきり言ってない。あるとしても異性にもてるぐらいだ。

20221121

デザイン展と美術展

先日、代官山まで[キギ展]を見に行った。代官山駅を使わず神泉駅から20分歩くコースを使った。雨に降られないか際どいところだったが本降りになる前に目的地[ヒルサイドフォーラム]にたどり着いて命拾いした。
美術展とデザイン展は似ているようで全然ちがうということを最近になってだんだん理解するようになってきたが、そこにあるグラデーションをデザイン展よりに振り切ったような展示だった。
デザイン展は美術展とちがって観客のことをあまり信用していないというメッセージが浮かび上がるものだと思うが、今回の展示ではそのメッセージが浮かび上がることを予期した上でそれにも対処してデザインされているように感じられた。美術展のほうは、観客を信用しているというお題目を唱えながら実際には手を抜いているだけということもよくあるんだと思うから、よくあると言ってわるければそういうこともあるんだろうと思うから、あるといってしまってわるければそう言えるといえばそうとも言えるんだろうから、美術展のほうが良いとは言えないけれど、それを加味した上でも美術展のスタンスのほうが好みなのだが、行き届いたデザイン展のなかを周遊するのはそれはそれで面白い。川を泳ぐのと池を泳ぐのとのちがいという気がする。一方にはあらかじめ決められた流れがあり、もう一方には決まった流れがないというちがいだ。
さすがデザイン展といったところで、見せ方に感心したが、中身については通り一遍のものにすぎないと思った。卓越した見せ方であればあるだけ、中身についてはそれとの比較でどうしても薄っぺらに見えざるを得ないのかもしれない。考え方や文章やコンセプトがいくら凡庸なものであっても、見せ方によってはそれが輝いてみえるということもあるが、見せ方が整えられていて美しければ美しいほどそれが輝くかと言われれば必ずしもそうはならないということを明らかに示していた。(卓越したデザインだからこそ、鮮やかなほどそれを浮き彫りにしていたのだと付言しておきたい。)
ただし、見せ方が並外れて美しいことで結果的に多くの人がそれを見ることになる。見るのにも段階があり、ある程度から先は、見る側の心持ちがそのまま反映される領域になる。導入と展開をべつの領分として、デザインは導入に特化していると考えれば、つまり展開するのは各々の心の内側でのことだと決めてしまうのであれば、このやり方がもっとも優れているだろう。ちなみに、先ほどの観客を信用する/信用しないの二分は反転している。
めったに見れないような美しい内容があったとしても、それを受け取る人がいなければむなしいし、反対に、どこでも見られるような内容であったとしても、受け取る人のなかにそれを響かせる鐘があればきれいな音が鳴る。大切なのは中身や内容ではなくて、それによって鳴らされるものだ。外見や形式によって、それとの比較・二項対立によって、中身や内容は重要度の高いものと考えられがちだが、大事なことをもしひとつだけ選ぶのであれば、それは外見や形式にならないし、それと同じように中身や内容にもなりえないはずだ。
だから結局、デザインを見て自分のなかになにかが鳴るのであればデザインでいいし、美術を見て鳴るのであれば美術でいいというだけの話だ。そして、大きな音で鳴らされるとき、とても小さな音で鳴らされるときなど、局面はさまざまある。
そうは言っても音の話をしているのではないので、大きな音がしたから鳴っているという証明にはならない。もちろん、小さな音だから鳴っていなかったとすることもできない。べつにできるといえばできるのだが、それをする意味はない。鳴ったか鳴ってないかという問題は、究極的には自分だけの問題だ。究極(アルティメット)などといって大それないでも、どこまでいっても自分だけの問題でしかなく、本質的にけちな問題だといえる。けちな問題だから、それを手放そうとする[合理的な]人も少なくないのだろう。
美術であればあるだけ小さい音がなり、デザインに寄れば寄るだけ大きい音がなるのかなとも思ったりもするが、そんな簡単なものでもないのかもしれない。とはいえ別段むずかしく考える必要も差し当たってないわけで、一旦そう考えることにしておく。そして、とても小さい音が鳴ったとき、とても小さくてほとんど聞こえないぐらいなのに、それでも鳴ったという確信が去らないような鳴り方で小さい音が鳴ったときに、私は嬉しい。美術でも音楽でも小説でもなんでも、そういうものを探しているんだと思う。共鳴するなら小さな音で、というのが私のけちな人世観だ。

20221114

日記51

昨日
さる演劇祭に出演することになり、その稽古参加初日だった。参加メンバーは女6人男4人の10名で、見たところ全員演劇経験者のようだ。応募の際にきっぱりと「未経験」と書いているので、私は自分が演劇素人であることを気にしないつもりでいた。しかし、いざ参加してみると、そういう「つもり」は役に立つものではないということを再認識させられた。みな舞台経験を持っているからか、押し出しが立派な様子で、何かを言おうとすると気後れを感じてしまう。とくに3人・3人・4人のチームに分かれての寸劇創作では、とつぜん役者のなかに放り込まれたようでやりづらさを感じた。「ある言葉をもとに20分で創作してください」と言われただけで、どんどん意見を出し合って寸劇を成立させようとしていく勢いはそれなりにキビキビしたもので、乗り遅れないようにしようとするので精一杯だった。「成立させる」も「振り落とされないようについていく」も経験不足によって実際にそうなるのは仕方ないにせよ、取り組む姿勢がそうなるのは避けたいところなのでどうにかしたい。自分自身に気後れしていないと錯覚させるにはどうすればいいだろうか。
とにかく「さる演劇祭」と言いたかったのでそれによって文体が決まったところがある。下北沢演劇祭に参加した。稽古初日は愛媛での友人の結婚式のため欠席したので二日目からの参加になった。経験者がどうとか言っているが、たんに自分の人見知りが出ているだけだ。なんとなく理由として縋りやすいポイントに演劇の経験有無があり、それを利用したにすぎない。ちなみにその利用は最後まで続いた。よくない逃げ腰・及び腰の態度だ。そうでもしないととてもじゃないがやり通せなかったとすれば仕方ないことだが、終わってしまった今となっては「喉元過ぎれば」ではないが必ずしもそうだとも思われない。まあこんなことを言っても詮無きことだ。「当時は」あれで仕方なかったということにしよう。


◎初日稽古でやったこと

・注意事項説明
今回の演劇創作スタイルは稽古の進行にあわせて場面を作っていくので、欠席はできるだけ少なくするように。スケジュールの変更・詳細について。

・名前おぼえゲーム
1.自分が呼んでほしい名前を自分で決める
2.輪になってスタート
3.ひとりが相手の名前を呼びながら指差す
4.指さされた人は自分の名前を言いながら相手の指差しを受け取る★
5.誰かを指差しながらその人の名前を呼ぶ
6.指さされた人は自分の名前を言いながら相手の指差しを受け取る
7.3〜7までを繰り返す

・単語渡しゲーム
1.あるカテゴリのなかから、ひとりひとり自分の言葉を決める
 例:動物 マレーバク
2.指差していく順番を決める
3.決まった順番で相手を指差しながら自分の単語を言う
4.指さされた人は相手の指差しを受け取る★
5.自分の単語を言いながら決まった相手を指差す
6.3〜5までを繰り返す
7.べつのカテゴリのなかから、ひとりひとり自分の言葉をべつに決める
 例:飲み物 ファイブミニ
8.指差していく順番をべつに決める
9.決まった順番で相手を指差しながら自分の単語を言う
10.指さされた人は相手の指差しを受け取る★
11.自分の単語を言いながら決まった相手を指差す
12.3〜5までを繰り返しながら、同時に8〜11も繰り返す
13.カテゴリと単語を増やし、同時並行での受け渡しを増やしていく

これらのゲームで重要なのは★の箇所で、きちんと相手の発信を受け取ってつぎに進むこと。たとえば舞台上でも、セリフを言うことに気を取られすぎて相手の発信を受け取らないまま進めると単なるセリフの言い合いになる。そうならないように、相手の発信をきちんと受けてから発信をするように意識する。

・写真許可
稽古風景の撮影をするが、写りたくない人がいたら教えてくださいというアナウンス。

・クレジット名相談
本名以外でクレジットされたい人は名簿にその名前を書く。

・全体写真撮影
稽古初日の全体写真撮影。

・カウントアップゲーム
輪になってアイコンタクトだけでお互いの意思疎通をはかる。
1から数字をカウントしていく
「1」と言うときには、言いながら1人が動く
「2」と言うときは、言いながら同時に2人が動く
「3」のときには、同時に3人が動く
数を増やしていく

・30秒ジェスチャー伝言ゲーム
2チームにわかれて行う

・連想単語1分作劇
3チームに分かれて行う
(2チームでも可・人数配分は等分でなくても可)
ひとつの言葉から連想する単語を3分間で思いつくかぎりいくつも列挙する
例:マッチ売りの少女
チームで浮かび上がった単語を持ち寄り、そのなかのひとつの単語を使って1分間の劇を作る


近所の気になっていた鰻屋で鰻重とう巻きを食べる。竹でこんなに満足なんだから松はどうなってしまうのか心配になった。これまで食べた鰻は甘いタレだったのだが、からいタレもこれはこれで良いものだと思った。江戸前っぽいと思うのはたんに東京で食べているからか。
鎌倉殿の13人を見る。実朝ががんばっている。蹴鞠の東西出来レース合戦に笑った。
日付変わってハンターハンターを読む。本当に読み応えがある。登場人物の量がどんどん膨れ上がっていって面白い。まるでピンチョンの小説のようだと思うが、増えるペースだけでいえばそれすら超えている。軍人が一番よわいのも面白いし、彼らの自他の戦力差が大きいのをしっかり把握して生存しようとする思惑も、ツェリの学友という立場も、今後ゲームに組み込まれ絡まり込んでいくと思うと本当に面白くなりそう。とにかく情報量が多い。セリフ回しだけで新登場キャラクターの性格と関係性を必要な分だけ十分に開示していて、ものすごいものを読ませられたという気になった。まだまだ期待が高まる。しかもそれだけじゃなくこの一話が一話として面白い。すごい。
はやくハンターハンターの続きが読みたい。あれから一年経ったがあれ以来鰻を口にしていない。

20221113

日記50

一昨日
友人の結婚式に出席するため、愛媛の松山までフライト、初ジェットスター。成田発13時の便で松山空港へは15時前に到着。ホテルにチェックインして荷物を置いてから、久しぶりの道後温泉まで久しぶりの路面電車で向かう。いつかの旅行でも行った場所なので、エリアに結びついた懐かしい記憶をさっとなぞっていく。閉館時間間際だったので正岡子規記念博物館の内部には入られず。入り口エントランスの正岡子規像と俳句ポストで我慢する。あのときに詠んだ俳句のことはちらとも思い出せず。正岡子規記念博物館の正面に掲示されていた句は

裏表きらりきらりとちる紅葉   正岡子規

これがちょうど今の気分にしっくりと合った。道後温泉にいながらも、かつて訪問した道後温泉の名残りと見比べてみたり、そのときに起こった出来事を思い出そうとして、現在の道後温泉にいるという感じが半分ぐらいになっていた。ただ、そもそも前回の散策でも、小説で読んだ当時の名残りをどこかに見つけようとしていたし、旧蹟を訪う周り方をしていたはずだと思う。そういう今と昔とがちょうど半分半分になってどちらがどちらとも言えないまま、日を受ける短い間にきらりきらりと光る感じが、今回の散策風景に、そしてたぶん前回の散策風景にも適合する気がした。当時の訪問は夏で、今回は秋というちがいはあったけれど。

昔たわむれに詠んだ句は一切覚えておらず、ただ俳句ポストに吸い込まれていっただけだったが、今回はひとりで周ったこともあって、同じたわむれながらもできた句を保存する時間を設けることができた。道後温泉から松山市駅に向かう路面電車のなか、後部座席から通ってきた線路を見ながら得た三句

折れ曲がるレールの先の道後の湯

湯けむりに霞んでみえる在りし夏

立ったまま団子食う間の夕まぐれ


前回と今回とのちがいには、過去のことを思うのと同時に未来のことを考えてみたところにある。当時は今よりももっと先のことを考えないようにしていたのに比べて、今回は先のことを考えないようにする気持ちがうすかった。その分、先のことを考えたかというとべつにそういうこともなく、ただ漠然とまた来たいなと思っただけだったので、ただそう思うに任せた。割合にすると、過去5:現在4:未来1ぐらいの案配。

宿泊したホテルは1年も経っていないぐらい新しくてきれいだった。松山市駅前なので3Fの大浴場の外湯につかると、直下の伊予鉄の発着音や街の雑踏音がうっすら聞こえてきて、まだはやい時間帯だっただけにほぼ貸切状態で、とても気持ちのいい極楽気分を味わえた。

タリーズバイト時代の仲間と夜に集まって飲む。あれから6年も経っているから当然みんな変わっているんだろうけど、お互いについ「変わらないねー」などと言い合ってしまう。宿泊ホテルが皆一緒だったのでそれぞれ風呂に入ったあと、ホテルの部屋でアイスを食べる。みんなそれぞれの近況を話していると一瞬で時間が過ぎ、私などはもっと話したいぐらいだったが、明日も早いということで2時頃におひらきになる。

昔の自分が何を考えてどういう方針で人と付き合っていたのかということを考えてそれに反しないようにしようとするのが、久しぶりに会ったときのぎこちなさに重なってますますぎこちない空気を作り出してしまうということがあると思う。そういう流れをフツリと切ることができればそれを皮切りに当時へと一息になだれ込んでいけるものだが、そういうことが起こるかどうかというのは時の運ではないか。当時の思い出を更新したいわけではないのだし、無理に前に進んで見せるのも、前に進んだよと報告するのもちがう気がする。

当時から自分は自分勝手にいようとする気持ちがあったと思うが、今ほどそれを前面に出せていなかった。もっと短いスパンでも、たとえば去年に比べても今のほうがさらに自分勝手になれていると思う。それをそのまま昔の友人とのあいだにも適用させようとするのは違う。違うというかうまくできる気がしない。昔の友人を昔の友人扱いせずに今の友人だと思うのであれば今の自分を出すのは是非とも必要な一手なのだが、一日や二日の再会でそれをできるとは思えない。そうは言っても忠実に昔の感じをそのままなぞることも難しいから、今が滲出するのに任せるというのが去年の今頃に採用した方針だった。


昨日

天候にも恵まれ、とても良い結婚式だった。ゲストを楽しませようという気概に充ちた、友人らしさ全開の式と披露宴だった。普通という枠には嵌まらない、よく考えられた内容で本当に感服した。6つ年下なのだが、いつもお世話になっているという以外なく、バイト当時から一貫してお世話になり続けている。ホスピタリティの言葉の意味を十分理解し、表現に落とし込むことで実践してみせることのできる人間はそういない。心底まじめなパーソナリティだけにまじめくさっていられないからなんだと思うが、儀礼的なものも個人的なものもあわせて冗談が多彩なのも見習うべきところ。心意気ひとつとっても到底及ぶべくもないが。俺もちょっとは頑張らないとなと背筋が一瞬伸びる。

去年はなぜか書いていないが、友人は結婚式の準備のために寝ないで頑張るということをしていたらしい。それを見て思うのは、頑張りすぎないようにしようというのではない。長く頑張れるように頑張っていこうというのだ。彼はかつての高校球児らしい価値観をもって長く頑張れるように頑張るというのでは頑張りが足りないと思うのだろうが、それでも長く頑張れるように頑張るために頑張れるようにしようというのが自分が唯一彼に言いたいことだ。

行き帰りのフライトで『ジェントルメン』という映画を見る。あとは『となりのサインフェルド』を5,6話見る。

コンディションのせいかジェントルメンがそこまで面白くなかった。同じ環境で見た『となりのサインフェルド』がどうだったか記憶が曖昧だが、すくなくとも面白くなかったという印象はなかったわけで、たぶんジェントルメンは面白くない映画だったのだろう。

無事帰宅の連絡をすると、男3人のうちふたりまでもが飛行機を逃すという報告を受ける。相変わらずというのはこういうことだと思う。いつも終電で帰っていた自分がちゃんと間に合うように空港に向かうのも含めて。また飲みたい。

自分には「終電で帰れちゃう」コンプレックスがある。終電で帰れるからこそ抱くコンプレックスだ。そのスタンスを変える気はなく終電があるときには帰る気満々だが、だからやっぱり帰れちゃうもんでどれだけ薄まってもコンプレックスの気配は拭いえない。

20221104

日記49

今日
最近ハンターハンターを1巻から読み返している。グリードアイランド編まで読み終わった。グリードアイランド編まではとくに、すべての展開がシームレスにつながったオープンワールドのRPGをやっているかのようで、すべてのイベントが同時並行的に進行している感がある。ゴンたちの前に突如現れる新登場人物が、現れたのは突然でも、その人物なりに生きてきたという感じがちゃんとするのはどういう仕組みなのかわからないが、それぞれの人物が登場場面以外で活躍死躍することでクレジットがちゃんと蓄積されていて、その収支管理がしっかりしているからではないか、などと思ったりした。
転職アドバイザーから面接対策を受ける。転職に関することをネット等で調べていると、皆すごすぎじゃんという感じがどんどんしてきて萎縮するので、同じ内容でも人から話されることで変に構えたり萎縮したりせずに容れられるのが利点だと思った。ネットの情報は情報すぎるという欠点がある。
いつもとはべつのスタバに行ってソイラテを飲む。昔よく行っていたスタバで懐かしいが、今のスタバに慣れるとこちらはほぼマクド。源氏物語はちょっとずつ進捗していて『薄雲』の回。登場人物がどんどん物故してどんどん暗くなってきている。
帰りにビレヴァンでハンターハンター最新刊を買って帰る。

20221103

RRR

「RRR」は、一文字を3回重ねた表現なので、使用文字は一文字。「Rise Roar Revolt」の略字である。

情報社会が進むと略語競争が激しくなることが予想される。たとえば「AAA」というのはIT用語としては次のことを表現する「Authentication(認証)Authorization(認可)Accounting(アカウンティング)」一方で、日本の男女混合パフォーマンスグループ「トリプルエー」の略語でもある。世代にも左右されるのだろうが、日本で有名なのはおそらくトリプルエーのほうだ。では、世界ではどうかといえば、これは前者のプロトコルになるだろう。日本では音楽グループが有名であるように、国によってはAAAというグループだか企業だかがべつに有名かもしれないが。

ただ、もっと有名で確定的な略語もある。たとえば同じIT用語でも「www」、つまり「world wide web」はかなり有名で、べつのグループだかユニットだかが参入する余地がない。正確には、有名すぎるので参入するスペースはかえって広く空いているのだけど、取って代わる可能性はかなり低い。

一文字しか使用しない略語は、複雑さが極限まで削ぎ落とされており、シンプルゆえに強度が高い。もしそこに定着できたなら、最小の情報量で最大のインパクトを与えることができる。

だが当然、そこに参入し、定着するハードルは相当高い。それが平仮名や漢字、キリル文字、ギリシャ文字などのマイナー文字であれば、マイナー度合いに応じてハードルも下がるだろうが、アルファベット・数字などのメジャー文字である場合には、その難易度は跳ね上がる。

「RRR」というインド映画の射程は、英国諜報機関のアイコンであるJBをはるかに超えて、英語にまで達している。「Rise Roar Revolt」が英単語の組み合わせであって文字としてアルファベットを使用しているということは、現代社会に慣れた目からは一見して当然のようにも映るが、注目に値する。

どこまで長大な野心を抱けるか、そしてそれが何に対する革命かということを見逃すべきではない。この映画のスケールが、たんに大英帝国を打倒するということに収まると考えるのであれば、さすがに能天気なまでにお行儀が良すぎるだろう。


2022年11月現在、Googleで「RRR_意味」と検索すると、最初のページに以下が表示される。検索結果は約 4,230,000 件。

⇛RRR(Reserve Replacement Ratio)は、企業の業績を見る上での主要な指標のひとつである。


辞書や検索ツールに表示されるものがすべてではないし、「意味」を付け足したことでアルゴリズムが適した結果を返しただけのことだと思われる。だがしばらくすれば「Rise Rore Revolt」が「RRR」の「意味」として表示されることになっていくかもしれない。

それにしても、Rというただ一文字のアルファベットの連なりが「力強く握り合う手と手」を強烈にイメージさせるのは、映像表現の威容(Majesty)でなくて何だろうか。

PPPという文字列を見て、「Point to Point Protocol」の略語だとその意味を思い起こすのとは、同じ一文字の略語でかたちが似ているのに反して、似ても似つかない。

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