20221124
日記52
20221122
失われた時を求めて2
「失われた時を求めて」をまだ読んでいる。まだまだ読んでいる。まだ4巻の途中なので、まだまだ読了は先である。しかし4巻の途中から訳を変えてから一気に読みやすくなった。光文社から岩波にかえたのだが、岩波の訳文のほうが自分でも驚いたぐらいしっくりくる。最初、光文社で読み始めたのは、訳者のスタンスに共鳴したからだったのだけど、訳文の読みやすさはそれとはあまり関係がなかったようだ。それでも、今回重い腰をあげて「失われた時を求めて」を読み始めたのは光文社版の1巻がきっかけだったのだから、あまり足を向けるようなことを言うべきではないとこれ以上訳文についてああだこうだ言うのは自重しておく。ただ、岩波の吉川一義訳はとても読みやすい。
4巻の副題は「花咲く乙女たちのかげに」となっている。アルベルチーヌや彼女の友達のアンドレ、ジゼルが出てきて、面白さが一気に加速したように感じられる。それまでとはべつの段階に差し掛かったときに発生する新奇性のボーナスと、併読している「源氏物語」との状況の近似による関連性のボーナスを差し引いてとしても、十分面白いと思うのだが、実際に差し引いて考えることはできないのであくまでも想像ではという但し書きをつけなければならないのだが。
ただ、女の子たちとの邂逅にともなって、「わたし」の考え方が、サン=ルーと出会ったときの感じ方・考え方とはべつのものになってきていて、それが確かにそうだなと思わせられる納得感のつよい文章になっていたので、やや長いがまるまる引用しておきたい。自分の望みと友情とを天秤にかけるような内容で、それに女の子たちとの心楽しい交遊がからんでくる。ここで「わたし」が言っていることをどう捉えればいいのか、どの程度「わたし」の考えだと思えばいいのか、ということも考えさせられる。つまり、語り手である「わたし」の時制がある一点に固着しているようでもありそうでもないようにみえる独特の文章なので、それを味わうのにもうってつけであって、「失われた時を求めて」という小説の醍醐味ともいえる文章が展開されている。
ただ、私が最初に感心したのはその内容である。内容について引っかかり、それに引っかかって考えているうちに上のようなことを考えだしたという順番であり、たんに書かれた内容について膝を打ったといえばいいのだけれど、内容が内容だけにそのまま引用するのに二の足を踏んだというか少し気が引けた。しかし、ここまで書いたから一応区切りのいいところまで正直に言ってしまうと、昔自分が考えていたようなことが書かれてあって、その再現度に驚かされたということが起こったのだった。というわけで、若干偉そうにはなるのだが、今同じように考えているわけでもなし、かといって、完全にこの考えから足を洗ったともいえないわけで、ISLTよろしく、なんとか私が「思った」その時制をぼやかしたうえで引用できないかと目論んだのだった。つまり、端的に言うと、引っかかったのは今だが、それは過去の私に由来してというか、それを思い出しつつ引っかかったということを強調したかったということだ。では最初からそう言えばいいことではあるのだが、もうひとつ、今も同じように考えているきらいがあるというのも、ややこしく、残念なことながら含まれているのであって、それでくだくだしく、ごちゃごちゃと言い訳を並べながら引用文を投下する準備を整えていったのだ。以下引用。
563
とはいえ、楽園で一日をすごすこの楽しみのために、社交上の楽しみのみならず友情の楽しみまで犠牲にしたとしても、あながち私の間違いとは断定できない。自分のために生きることのできる人間は――たしかにそんなことができるのは芸術家であり、ずいぶん前から私はけっして芸術家になれないと確信していた――、そうする義務がある。ところが友情なるものは、自分のために生きる人間にこの義務を免除するものであり、自己を放棄することにほかならない。会話そのものも、友情の表現様式である以上、軽薄なたわごとであり、なんら獲得するに値するものをもたらしてくれない。生涯のあいだしゃべりつづけても一刻の空虚を無限にくり返すほかなにも言えないのにたいして、芸術創造という孤独な仕事における思考の歩みは深く掘りさげる方向にはたらく。たしかに苦労は多いけれど、それだけが真実の成果を得るためにわれわれが歩みを進めることのできる、唯一の閉ざされていない方向なのである。おまけに友情は、会話と同じでなんら効能がないばかりか、致命的な誤りまでひきおこす。というのも、われわれのなかで自己発展の法則が純粋に内的であるような人は、友人のそばにいると心の奥底へと発見の旅をつづける代わりに自己の表層にとどまって退屈を感じないではいられないものだが、ひとりになるとかえって友情ゆえにその退屈な印象を訂正する仕儀となり、友人が掛けてくれたことばを想い出しては感動し、そのことばを貴重な寄与と考えてしまうからである。ところが人間というものは、外からさまざまな石をつけ加えてつくる建物ではなく、自分自身の樹液で幹や茎につぎつぎと節をつくり、そこから上層に葉叢を伸ばしてゆく樹木のような存在である。私が自分自身を偽り、実際に正真正銘の成長をとげて自分が幸せになる発展を中断してしまうのは、サン=ルーのように親切で頭のいい引っ張りだこの人物から愛され賞賛されたというので嬉しくなり、自身の内部の不分明な印象を解明するという本来の義務のために知性を働かせるのではなく、その知性を友人のことばの解明に動員してしまうときである。そんなときの私は、友のことばを自分自身にくり返し言うことによって――正確に言うなら、自分の内に生きてはいるが自分とはべつの存在、考えるという重荷をつねに委託して安心できるその存在に、私に向けて友のことばをくり返し言わせることによって――、わが友にある美点を見出そうと努めていた。その美点は、私が真にひとりで黙って追い求める美点とは異なり、ロベールや私自身や私の人生にいっそうの価値を付与してくれる美点である。そんなふうに友人が感じさせてくれる美点に浸ると、私は甘やかされてぬくぬくと孤独から守られ、友人のためなら自分自身をも犠牲にしたいという気高い心をいだくように見えるが、じつのところ自己の理想を実現することなど不可能になるのだ。
ファッションの利
20221121
デザイン展と美術展
20221114
日記51
20221113
日記50
裏表きらりきらりとちる紅葉 正岡子規
これがちょうど今の気分にしっくりと合った。道後温泉にいながらも、かつて訪問した道後温泉の名残りと見比べてみたり、そのときに起こった出来事を思い出そうとして、現在の道後温泉にいるという感じが半分ぐらいになっていた。ただ、そもそも前回の散策でも、小説で読んだ当時の名残りをどこかに見つけようとしていたし、旧蹟を訪う周り方をしていたはずだと思う。そういう今と昔とがちょうど半分半分になってどちらがどちらとも言えないまま、日を受ける短い間にきらりきらりと光る感じが、今回の散策風景に、そしてたぶん前回の散策風景にも適合する気がした。当時の訪問は夏で、今回は秋というちがいはあったけれど。
昔たわむれに詠んだ句は一切覚えておらず、ただ俳句ポストに吸い込まれていっただけだったが、今回はひとりで周ったこともあって、同じたわむれながらもできた句を保存する時間を設けることができた。道後温泉から松山市駅に向かう路面電車のなか、後部座席から通ってきた線路を見ながら得た三句
折れ曲がるレールの先の道後の湯
湯けむりに霞んでみえる在りし夏
立ったまま団子食う間の夕まぐれ
前回と今回とのちがいには、過去のことを思うのと同時に未来のことを考えてみたところにある。当時は今よりももっと先のことを考えないようにしていたのに比べて、今回は先のことを考えないようにする気持ちがうすかった。その分、先のことを考えたかというとべつにそういうこともなく、ただ漠然とまた来たいなと思っただけだったので、ただそう思うに任せた。割合にすると、過去5:現在4:未来1ぐらいの案配。
宿泊したホテルは1年も経っていないぐらい新しくてきれいだった。松山市駅前なので3Fの大浴場の外湯につかると、直下の伊予鉄の発着音や街の雑踏音がうっすら聞こえてきて、まだはやい時間帯だっただけにほぼ貸切状態で、とても気持ちのいい極楽気分を味わえた。
タリーズバイト時代の仲間と夜に集まって飲む。あれから6年も経っているから当然みんな変わっているんだろうけど、お互いについ「変わらないねー」などと言い合ってしまう。宿泊ホテルが皆一緒だったのでそれぞれ風呂に入ったあと、ホテルの部屋でアイスを食べる。みんなそれぞれの近況を話していると一瞬で時間が過ぎ、私などはもっと話したいぐらいだったが、明日も早いということで2時頃におひらきになる。
昔の自分が何を考えてどういう方針で人と付き合っていたのかということを考えてそれに反しないようにしようとするのが、久しぶりに会ったときのぎこちなさに重なってますますぎこちない空気を作り出してしまうということがあると思う。そういう流れをフツリと切ることができればそれを皮切りに当時へと一息になだれ込んでいけるものだが、そういうことが起こるかどうかというのは時の運ではないか。当時の思い出を更新したいわけではないのだし、無理に前に進んで見せるのも、前に進んだよと報告するのもちがう気がする。
当時から自分は自分勝手にいようとする気持ちがあったと思うが、今ほどそれを前面に出せていなかった。もっと短いスパンでも、たとえば去年に比べても今のほうがさらに自分勝手になれていると思う。それをそのまま昔の友人とのあいだにも適用させようとするのは違う。違うというかうまくできる気がしない。昔の友人を昔の友人扱いせずに今の友人だと思うのであれば今の自分を出すのは是非とも必要な一手なのだが、一日や二日の再会でそれをできるとは思えない。そうは言っても忠実に昔の感じをそのままなぞることも難しいから、今が滲出するのに任せるというのが去年の今頃に採用した方針だった。
昨日
天候にも恵まれ、とても良い結婚式だった。ゲストを楽しませようという気概に充ちた、友人らしさ全開の式と披露宴だった。普通という枠には嵌まらない、よく考えられた内容で本当に感服した。6つ年下なのだが、いつもお世話になっているという以外なく、バイト当時から一貫してお世話になり続けている。ホスピタリティの言葉の意味を十分理解し、表現に落とし込むことで実践してみせることのできる人間はそういない。心底まじめなパーソナリティだけにまじめくさっていられないからなんだと思うが、儀礼的なものも個人的なものもあわせて冗談が多彩なのも見習うべきところ。心意気ひとつとっても到底及ぶべくもないが。俺もちょっとは頑張らないとなと背筋が一瞬伸びる。
去年はなぜか書いていないが、友人は結婚式の準備のために寝ないで頑張るということをしていたらしい。それを見て思うのは、頑張りすぎないようにしようというのではない。長く頑張れるように頑張っていこうというのだ。彼はかつての高校球児らしい価値観をもって長く頑張れるように頑張るというのでは頑張りが足りないと思うのだろうが、それでも長く頑張れるように頑張るために頑張れるようにしようというのが自分が唯一彼に言いたいことだ。
行き帰りのフライトで『ジェントルメン』という映画を見る。あとは『となりのサインフェルド』を5,6話見る。
コンディションのせいかジェントルメンがそこまで面白くなかった。同じ環境で見た『となりのサインフェルド』がどうだったか記憶が曖昧だが、すくなくとも面白くなかったという印象はなかったわけで、たぶんジェントルメンは面白くない映画だったのだろう。
無事帰宅の連絡をすると、男3人のうちふたりまでもが飛行機を逃すという報告を受ける。相変わらずというのはこういうことだと思う。いつも終電で帰っていた自分がちゃんと間に合うように空港に向かうのも含めて。また飲みたい。
自分には「終電で帰れちゃう」コンプレックスがある。終電で帰れるからこそ抱くコンプレックスだ。そのスタンスを変える気はなく終電があるときには帰る気満々だが、だからやっぱり帰れちゃうもんでどれだけ薄まってもコンプレックスの気配は拭いえない。
20221104
日記49
20221103
RRR
「RRR」は、一文字を3回重ねた表現なので、使用文字は一文字。「Rise Roar Revolt」の略字である。
情報社会が進むと略語競争が激しくなることが予想される。たとえば「AAA」というのはIT用語としては次のことを表現する「Authentication(認証)Authorization(認可)Accounting(アカウンティング)」一方で、日本の男女混合パフォーマンスグループ「トリプルエー」の略語でもある。世代にも左右されるのだろうが、日本で有名なのはおそらくトリプルエーのほうだ。では、世界ではどうかといえば、これは前者のプロトコルになるだろう。日本では音楽グループが有名であるように、国によってはAAAというグループだか企業だかがべつに有名かもしれないが。
ただ、もっと有名で確定的な略語もある。たとえば同じIT用語でも「www」、つまり「world wide web」はかなり有名で、べつのグループだかユニットだかが参入する余地がない。正確には、有名すぎるので参入するスペースはかえって広く空いているのだけど、取って代わる可能性はかなり低い。
一文字しか使用しない略語は、複雑さが極限まで削ぎ落とされており、シンプルゆえに強度が高い。もしそこに定着できたなら、最小の情報量で最大のインパクトを与えることができる。
だが当然、そこに参入し、定着するハードルは相当高い。それが平仮名や漢字、キリル文字、ギリシャ文字などのマイナー文字であれば、マイナー度合いに応じてハードルも下がるだろうが、アルファベット・数字などのメジャー文字である場合には、その難易度は跳ね上がる。
「RRR」というインド映画の射程は、英国諜報機関のアイコンであるJBをはるかに超えて、英語にまで達している。「Rise Roar Revolt」が英単語の組み合わせであって文字としてアルファベットを使用しているということは、現代社会に慣れた目からは一見して当然のようにも映るが、注目に値する。
どこまで長大な野心を抱けるか、そしてそれが何に対する革命かということを見逃すべきではない。この映画のスケールが、たんに大英帝国を打倒するということに収まると考えるのであれば、さすがに能天気なまでにお行儀が良すぎるだろう。
2022年11月現在、Googleで「RRR_意味」と検索すると、最初のページに以下が表示される。検索結果は約 4,230,000 件。
⇛RRR(Reserve Replacement Ratio)は、企業の業績を見る上での主要な指標のひとつである。
辞書や検索ツールに表示されるものがすべてではないし、「意味」を付け足したことでアルゴリズムが適した結果を返しただけのことだと思われる。だがしばらくすれば「Rise Rore Revolt」が「RRR」の「意味」として表示されることになっていくかもしれない。
それにしても、Rというただ一文字のアルファベットの連なりが「力強く握り合う手と手」を強烈にイメージさせるのは、映像表現の威容(Majesty)でなくて何だろうか。
PPPという文字列を見て、「Point to Point Protocol」の略語だとその意味を思い起こすのとは、同じ一文字の略語でかたちが似ているのに反して、似ても似つかない。
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