幸せ・幸福というトピックへの関心がうすいのは、幸せになりたいと願望したことがなく、幸せになりたいという願望のねらいがきちんと理解できていないからだと思われる。
人間のゴールというゴール設定が漠然とでもあれば違うのかもしれないが、そういうものはない。他の人もただ漠然と人間のゴールというものを考え、そのゴールテープを切りたいと考えているわけではないだろう。もうすこし具体的に、たとえば21世紀を生きる男/女としてのゴールということであれば、まだ想像しやすいが、それにしてもきちんと理解できるというには充分ではない。具体性をもっと推し進めて「21世紀の日本で暮らしている男」、さらに進んで「2022年現在33歳になる、東京で暮らしている、人より身長の低い男」というように、個別の条件を当てはめていくことで理解は深まっていくかもしれない。しかし、その過程では自分とは異なる部分が生じてきて、結局、関心がうすれていくことになる。
こうなりたい、こうありたいというような目指すべき目標といったかたちの願望、その対象となる幸福では、個々の主観がつよく左右する。これは、安全無事な場所から獲りに行くものであり、【積極的な幸福】ということができる。
不幸に対置される幸福もある。不幸状態から逃れられているとき、その小康状態がある程度継続する見込みがある場合、幸福であるということがいえて、それは【消極的な幸福】と捉えられる。私が幸せになりたいと思ったことがない理由のひとつは、この【消極的な幸福】が絶え間なく続いていることによるだろう。良好な健康状態にある人が、自分の健康をほとんど意識しないのと同様だ。
ただし、消極的な幸福だけではなく積極的な幸福にも関心がうすい場合でなければ、幸福への非言及は不自然で考えづらい。
考えてみれば私も、積極的な幸福について無関心ではいられない。ただ目指すべき目標を「幸せ」と表現する言語習慣がないだけだと思われる。だから人のいう幸せを自分用に翻訳しようともせず、漠然と言葉を使っているだけだろうと高を括ったり、その人の目指すべき目標が明確になっている場合はそもそも他人事のように考えたりして、距離をおいているようだ。自分の積極的な幸福の中身と、人のそれとが同じになるわけがないと初手からすり合わせを断念しているともいえる。
積極的な幸福の土台ともなる消極的な幸福に関して興味関心がうすいのは、不徳の致すところだとしか言えないが、関心を持てないものに関心を持てと言われても自ずから限界がある。
その分、自分自身の積極的な幸福については考えられるかぎり考えたいと思っている。べつにそれで埋め合わせになるとも思わないが、個人的関心がないと言って何かを切り捨てる以上、関心があるものにリソースを割くのは義務だと思われるからだ。何に対する義務かといえば、自分自身に対する義務だ。
その義務の最初の一歩として、私は私自身の【積極的な幸福】を「幸せ」とは表現しないことに決めている。共有できないものを共有できるものであるかのように言い表すのは端的にいって嘘だと考えるからだ。幸せは、一個人のものではありえず、皆のものでしかない。