20221031

日記48

一昨日
西が丘サッカー場まで行き、新宿クリアソンv奈良クラブのサッカーの試合を観る。とにかく天気が良かったので、芝生の鮮やかな緑が目に飛び込んできた。あんな場所でサッカーできたらさぞ気持ちいいんだろうなと思った。前半は奈良クラブのベンチ真裏に陣取ったおかげで、ゴール取り消しのときの監督の抗議や、ゴールのときの監督のガッツポーズが見られたり、生観戦ならではの満足感の高い観戦になった。行きは十条駅から歩いたので帰りは赤羽駅まで歩く。
夜は下北沢で友人のモラハラ話を聞く。個人的にゆるがせにできないルールがあったとして、それをどう自分以外の他人に適用させようとするかという手際が求められる場面で、友人のそれは、手際にはそれなりの自信があって、なおかつ、最終的に押し付けるときに不可避的に発生する責任は回避したいという場合に該当するモラハラケースだった。自分のなかでつながっている手順を相手に落とし込めておらず、相手が理解しないまま適当に肯定的な表現でお茶を濁したのをそれと知りながら利用するという、お婆ちゃんの家に上がり込んで物を売りつける悪徳営業の手口と本質的に異なるところがないやり口だが、それの成功は重要な何ごとかの失敗を意味してはいないかと疑問に思う。
上記の疑問をぶつけてみたところ、それについては黙殺したまま話を横滑りさせ、べつの似たような話を始めた。理解する能力か回答する言葉、あるいはその両方がないのだろうと判断して、それ以上はとくに追及しなかったが、そういう姿勢がどうあっても責任を回避したいという彼のやり方を形作ることになっていて、何かを改善したいという要求を実現する妨げになっていると思われる。知ったうえでのことであれば、改善したいというフリをしているのに等しいし、他人をそれに巻き込もうとすることは、巻き込まれる他人にはもちろん、長い目で見れば本人にとっても無益でしかない。もっと自由闊達に改善要求をぶち上げていけばいいのにと思うが、そのためには自分自身の姿勢改善が欠かせないわけで、そういうことをするのがどんどん難しくなっているのだろう。
もっと単純に、私と彼とで重要に思うことの中身がちがうというだけの話だとも考えられる。そして、私が重要に思うことを重要に思わない人がいるということを私は理解できないし、理解できるようにしようという気もない。もしこの点について姿勢改善したほうがいいよと忠告してくれる人が現れても、私は普通に無視して、その意見については黙殺することだろう。だから結局、私たちは同じ穴の狢(むじな)なのだといえるかもしれない。私からすればそんなわけはないのだが。
全部ちがうと言いたいところだが、もっともちがうのは、コミュニケーションにおける同意や合意について、結果を最重要視しないというところだ。言質を取りたいがために会話をするわけではなく、理解と反論を求めているので、必然的に、結果よりもプロセスのほうが重要ということになる。込み入った話になってくると、あいだに差し挟まれる「なるほど」とか「たしかに」という相槌の重要性は増えてくるし、それを適当にやられるとかなり困る。
いい加減な相槌を打たないというのは会話における最低限の礼儀だといえる。理解していないときに「わかった」という意味のことを言うのは、それを言う本人にとってはその場を成立させるための友好的な方便なのかもしれないが、長期的に見れば敵対的な対応にほかならない。長期的な関係を築こうとしていたり、長期的な関係が見込まれる相手に向かっては、嘘も方便という言葉は通用しないということを、この手のことなかれ主義者は肝に銘じるべきだ。
何が言いたいかというと、じつは、私の友人はこの礼儀をわきまえているということだ。彼はわからないことについてわかったとは言わないし、同意できないことについて同意したりしない。しかし、彼のモラハラ対象は、この礼儀をわきまえていないと考えられる。わきまえているにしても、やや甘く考えているようだ。自分にとって入念に言葉を選んで意見を説明し、相手から「わかった」という言葉を引き出せたとするなら、それは「了解された」ということであって、そこで「ひょっとするとわかっていないのではないか」と疑う意義はうすい。それを疑わなければならなくなると、説明する側の手間は最低でも二倍になる。一対一のコミュニケーションにとって、それはあまりにもアンフェアだ。これは短期的にはうまく回る方策かもしれないが、長期的には、ちょっとでも込み入った話をするための相手にならなくなる。
込み入った話をしないという解決策はあるにはあるが、私の観点からすればそれは何の解決にもなっていない。誰にだっておそらく込み入った話のひとつやふたつはあるはずで、それを話して理解されたいという望みは断ち切りがたい。自分の込み入った話をうまく説明できないことがあまりにも続いて、諦めそうになることがあったとしても、他人の込み入った話を理解しようとする姿勢は保っていたい。込み入った話をしたりされたりするなかでしか得られない充足はある。
自分から見ても、この人には自分の話が話せそうだと思うような人と、そうは思えない人とがいる。他人から見ても同じような差はあるにちがいない。前者でいるためには、また、前者でいようとするためにも、かなり多くの能力が必要とされるものだと思われる。そうは言っても相性があるから、これだけあれば十分だといえる要素はない。それでも唯一不可欠だといえるのは、やはり礼儀があるかどうかだ。
「そうなんですね」とだけ言っておけばそれで済む場面はある。私はそんな場面で聞かされる話はくだらないと思うし、それと友人の込み入った話を聞くときの熱量は区別すべきだと考える。反対に、どんな話でも分け隔てなく同じだけの熱量をもって傾聴するというスタンスの人もいるだろう。文化がちがえば捉え方もちがう、礼儀における「つまらないものですが」問題と似たような構造なのかもしれない。
いや、定型的な話を面白く膨らませるような積極的な聞き方ができる人であれば、私の消極的な話の聞き分けそのものがくだらないと考えることだろう。そう考えると私のやり方はつまらないものに思えてくる。自分には能力の限界があり、それに応じたスタンスだから仕方がないと割り切っているが、このやり方がベストではないのは明らかなので、やはり若干の居心地のわるさがある。
最善は、能力があり、積極的な聞き方をできる人である。だとすれば、次善は何になるかという選択の問題になる。積極的な聞き方をできるときはしてできないときにはしないが分け隔てもしないAか、積極的な聞き方をできる相手とそうではない相手とを区別するBか、どちらが次善かという問題だ。Aのほうが最善を目指している分だけ、見た目には最善に近いように思われる。しかし、私のベストはBである。私は誰かのために私があるとは思えない。それをはっきりさせておくのが私なりの礼儀だ。その私なりの礼儀をおろそかにして、より最善に近いように見えるからという理由でAを選ぶのは、私にとってはBを選ぶことに劣る。つまり順当に言って、私にはBが次善ということになる。最善を選べず、その次も選べないので、次の次を選ぶというだけの話だ。
私はたぶん最善を選べる人に嫉妬するし、最善を選べないがそれを目指せる人にも嫉妬する。そして、真っ向から最善を攻撃できない鬱憤を、私から見て間違っていると思われる次善策を選んだ人をターゲットに晴らそうとして、その次善は虚偽のものであり間違っていると主張し、攻撃しようとするようだ。もちろん私にはそんなつもりは皆目ないのだが、そう見なされるだけの材料が揃っていることは認めないわけにはいかない。
私が最善を諦めていないかと問われて「最善を諦めていない」と言えば、虚偽になる。ただ、最善について諦めていると言いたくない気持ちがある。同時に、諦めていると言ってしまいたい欲求もあるのだが、とりあえずは最善については何も言わないことに決めている。そのことで重要な何ごとかを、自由闊達さを失っているのではないかと疑問を呈されれば、そのときこそ前後左右進退に窮して、その場で無意味なジャンプを二度といわず三度といわず、ジャンプするしかなくなるだろう。私が友人を追及しなかったのはたんに面倒だったからだが、その内訳はそのときに私が考えたものとは内容を異にしているものと思われる。

昨日
楽しみにしていたBBQがあった。豊洲のBBQ会場で、東京タワーとスカイツリーを同時に見られるのが売りだと思われる立地。近くに誰もおらず、ポツンとひとりで肉を食うという最悪の事態を想定していったおかげで、久しぶりのBBQはかなり充実したBBQになったといえる。しかし、本当はあちらこちらと会場狭しと動き回り、全員に気の利いたジョークをお見舞いするというベストパフォーマンスを夢想していったおかげで、上質なお肉、リッチな立地、低調なパフォーマンス(寝ていないだけマシだが、寝ていないだけともいえる)というボンボンキュな出来となった(BBQだけに)。焼き残し、焼き終わりの食べものを廃棄するという、純粋なBBQ観点からはもっともさもしいBBQになるという結果になったのがなによりの心残りだった。社交BBQの観点からは、食べ残しに群がるというのがもっともさもしい行動なのかもしれず、その場合は私ともうひとりでその役目を分け合えたのが収穫といえば収穫だった。一気に意気投合するみたいなことは生きていてもあまりないが、少ない機会ながらそのときの印象は強く残るもので、それを期待するけど、とくに東京に来てからはめったにない。今回もそれは起こらなかった。まあ焦らずに回数を重ねて、「弱火でじっくり」をモットーに知己を増やしていきたい。相手次第の度合いは年々高まっているので、そろそろ自分から働きかける意識をもってもいい頃合いかも。
帰宅後4時間超の昼寝(夕寝)をかまし、録画で鎌倉殿の13人を見る。実朝の苦悩が、髑髏という小道具を通じて劇的なものにつながっていき、どんどん迫真の演技に見えていった。それだけに放送後、ツイッターで流れてきた実朝役の柿澤氏の謎ポージング写真が激烈な効果をもたらした。やはりツイッターでドラマの感想など見ようとするのがわるい。

20221024

日記47

昨日
大江戸骨董市のため有楽町まで出かける。奈良クラブの大一番があったのでネット配信の生中継を見る。SHAKESHACKのハンバーガーを食べながら試合終了のホイッスルを聴いた。一点返しての引き分けというドローゲームのなかではもっともポジティブな結果だったこと、J3参入資格を得るための観客動員をクリアする1万4千人の来場者数があったことから、ベストではないにしても良い結果だった。
有楽町にある大きな会議場のことに少し明るくなった。骨董市やバザーの類には興味を持てず、ベンチに座っている時間が長かったが、いい天気なのもあってご機嫌だった。
外苑前のACTUSに行って家具を見る。表参道ピザを食べてから下北沢で買い物をし、帰宅。外苑前の交差点でともに白髪の夫婦が歩いているのを見かける。目に止まったのはおしゃれさが際立っていたためで、年齢に相応でいながらもそれとわかる高いブランドをつけているだけのことでもなく、流行のキャッチアップとそのアレンジができていて、本当のおしゃれさがあった。老人になっておしゃれでいると、只者ではない感じがするものだし、実際に只者ではないのだろうなという説得力があった。細かい点は忘れてしまったが、女性の髪型が『ハウルの動く城』のソフィの髪型と同じだった。素敵だった。
外苑前という地の利があったことは差し引いても、今こうしていてもその出で立ちというか雰囲気を思い出せるほどにはお洒落だった。人生を楽しんだではなくこれからの人生を楽しむという無言の意思表明が感じられた。振り返るようなことがあったとしてもごく軽やかに振り向くのだろう。
連載再開に備えてハンターハンター36巻を買って読む。
ハンターハンターが一番面白い漫画だと思うが、新刊にコンスタントに触れられないのだけが玉に瑕だ。
鎌倉殿の13人を見る。実朝に感情移入したせいでこれまでより見るのがつらくなった。
歴史物には泣かせる演出で飾り付けられていたとしてもとくに抵抗なく受け入れられる稀有なキャラクターがいるものだが、実朝はその位置に殿堂入りしている。ちょっと擦られすぎたと感じる感性が働くまえに見る側の新陳代謝が先に起こるのが歴史物の定めなのだろうから安泰だと思う。どのパターンでも結局は儚く散ってしまうわけだし。
ハンターハンターのために日付変更と同時に本誌の電子版を購入して読む。オンリーワンといえる漫画の独立峰はいくつか挙げられるが、ナンバーワンはハンターハンターだ。
そしてナンバーワン不在がまた一年続いている。

今日
久しぶりに読んだ源氏物語は「澪標」の回。六条御息所が亡くなった。昔古文の授業でちょっ見た『あさきゆめみし』の劇画調少女漫画のタッチの影響もあって、六条御息所はとんでもない人だという印象があったのだが、彼女は自身の死に際には穏当で理にかなったお願いを光君にしていて、彼女にしても結局、恋やあこがれに狂わされた側なんだということがはっきりした。光君は尚侍朧月夜とのチャンスをいまだに伺っているという描写もあり、あれほど痛い目をみても全然懲りない肝の太さを垣間見る感じで、愚かと思うよりも感心してしまった。あれほど大事にすると言っている紫の女君にたいしても浮気を隠そうともせず、一貫してせこせこしていない。変に気を回して人の気持ちを考えたりしていないだけなのだが、それができるのは徳の高さか身分の高さなのだと思う。ただ、何かといえばすぐ「外聞がわるい」などと言い出すので前者2:後者8ぐらいの割合だろう。しかしこの2があるだけでもめずらしくて貴重なのかもしれない。
なんでも好き勝手好き放題できる身の上で、他者に関連する自分の悩みを正当に悩めるというのは立派なことのようだし、当然そうなることのようだし、ちょっと判断が難しい。しかし一番遠いところに行こうとして最短距離を走るということをしていないのを見ると、後世の読者に感情移入される余地は十分残しているように思う。ある種の狂人でしたで済まされるキャラクターよりも長持ちするのではないか。長持ちしたところでそこで醸成された感慨が伝播することはほぼないだろうから、やはり目につきやすくしかも特異なポジションについた狂人が輝き続けるのだろう。彼らにしても最終的に死ぬという心和ませる特徴を有しているわけだし、決定的に嫌われるということはないはずだ。

20221021

幸福非論

幸せになりたいと思ったことがない。
幸せ・幸福というトピックへの関心がうすいのは、幸せになりたいと願望したことがなく、幸せになりたいという願望のねらいがきちんと理解できていないからだと思われる。
人間のゴールというゴール設定が漠然とでもあれば違うのかもしれないが、そういうものはない。他の人もただ漠然と人間のゴールというものを考え、そのゴールテープを切りたいと考えているわけではないだろう。もうすこし具体的に、たとえば21世紀を生きる男/女としてのゴールということであれば、まだ想像しやすいが、それにしてもきちんと理解できるというには充分ではない。具体性をもっと推し進めて「21世紀の日本で暮らしている男」、さらに進んで「2022年現在33歳になる、東京で暮らしている、人より身長の低い男」というように、個別の条件を当てはめていくことで理解は深まっていくかもしれない。しかし、その過程では自分とは異なる部分が生じてきて、結局、関心がうすれていくことになる。
こうなりたい、こうありたいというような目指すべき目標といったかたちの願望、その対象となる幸福では、個々の主観がつよく左右する。これは、安全無事な場所から獲りに行くものであり、【積極的な幸福】ということができる。
不幸に対置される幸福もある。不幸状態から逃れられているとき、その小康状態がある程度継続する見込みがある場合、幸福であるということがいえて、それは【消極的な幸福】と捉えられる。私が幸せになりたいと思ったことがない理由のひとつは、この【消極的な幸福】が絶え間なく続いていることによるだろう。良好な健康状態にある人が、自分の健康をほとんど意識しないのと同様だ。
ただし、消極的な幸福だけではなく積極的な幸福にも関心がうすい場合でなければ、幸福への非言及は不自然で考えづらい。
考えてみれば私も、積極的な幸福について無関心ではいられない。ただ目指すべき目標を「幸せ」と表現する言語習慣がないだけだと思われる。だから人のいう幸せを自分用に翻訳しようともせず、漠然と言葉を使っているだけだろうと高を括ったり、その人の目指すべき目標が明確になっている場合はそもそも他人事のように考えたりして、距離をおいているようだ。自分の積極的な幸福の中身と、人のそれとが同じになるわけがないと初手からすり合わせを断念しているともいえる。
積極的な幸福の土台ともなる消極的な幸福に関して興味関心がうすいのは、不徳の致すところだとしか言えないが、関心を持てないものに関心を持てと言われても自ずから限界がある。
その分、自分自身の積極的な幸福については考えられるかぎり考えたいと思っている。べつにそれで埋め合わせになるとも思わないが、個人的関心がないと言って何かを切り捨てる以上、関心があるものにリソースを割くのは義務だと思われるからだ。何に対する義務かといえば、自分自身に対する義務だ。
その義務の最初の一歩として、私は私自身の【積極的な幸福】を「幸せ」とは表現しないことに決めている。共有できないものを共有できるものであるかのように言い表すのは端的にいって嘘だと考えるからだ。幸せは、一個人のものではありえず、皆のものでしかない。

20221013

日記46

先週末
小学校来の友人の結婚式があった。人柄がよく反映されたいい結婚式だった。この日のため前日に買った革靴は式場内でしか履かなかったのにもかかわらず、あわや靴ずれになるところだった。
披露宴が終わり次第帰宅し、渋谷に出かけ、牛腸茂雄の写真展を見に行った。PARCO屋上が最高に過ごしやすい気候で、秋の月がとても大きく出ていた。下北でルーロー飯を食べて帰宅。

二日前
彼女の誕生日のお祝いで、下北沢にある多国籍料理のダイニングバーでワインを飲みつつご飯を食べた。

昨日
仕事後に下北沢に出て夜の散歩。耳のお供にMETAFIVEの『METAATEM』。帰ってからアーセナル-リバプールの録画放送を見る。四畳半タイムマシンブルースを見終わる。エッジが取れた半端な合いの子で、元の作品がどちらも良くできているだけに、まれに見る失敗作だった。二話目からもう登場人物にはあまり喋ってほしくなかった。

今日
雨が降っていたので一歩も外に出なかった。源氏物語は『明石』の回を読み終わる。都から落ちて海の近くに移動しても、女のことと景色のことだけが描かれていて徹底した雅だと思った。

20221009

日記45

昨日
昼頃から家でボードゲームの会。18じゃんけんとカルカソンヌを2回ずつ遊ぶ。18じゃんけんは、シンプルなルールの駆け引きのゲームだが、対戦相手に「完璧に心が読めた」と言われつつ負ける始末。カルカソンヌは最適な行動が半々ぐらいでしか取れない中くらいのAIみたいな冴えない動きを繰り返した挙げ句の連続2位。
KOCを見る。とくに好きだったのはネルソンズとロングコートダディと最高の人間だった。とくにネルソンズはこれまでそんなに好きでもなかったが、結婚式のネタがかなりよくできていて好きになった。和田まんじゅうの表情と声の表情における表現力の高さが一番発揮されるシチュエーションを上手に作り上げている特大お神輿感と、乗ってるもののしょうもなさとが一際つよいコントラストを成していたように思う。しょうもないものが乗っているほど作り込まれた神輿が生きるというあり方が自分の好みに合った。ロングコートダディの兎も同じで、声の良さと特定の場面での動き方の表現力がかなり良かった。人数の関係でお神輿感は少ないものの、テンパったときの自我と真っ白とのせめぎあいがリアルを超えて超リアルだった。二組とももう一本見たかったのに残念だった。最高の人間はベストのネタを見れたと思うから満足した。
KOCのあとはさらにひとり合流して終電近くになるまでお酒を飲んだ。今の部屋にある席を全部使う5人での飲み会になり、はじめまして同士も発生し賑やかな感じがあった。長い時間お酒を飲んでいたから疲れてしまっていたのが若干悔やまれる。

20221006

日記44

源氏物語は「須磨」の回。どういう顛末かよくわからないまま光君が海辺に流されていく。何通りかの別れ。死別では諦めもつき、次第に忘れてもいくが、そうではない離別の場合、近い場所にいるのに会えないと思うと会えないのがよけいに苦しい。たしかにそうだ。


源氏物語370p

左大臣の邸を出ていく光君を女房たちがのぞいて見送った。西の山の端に傾きかけた有明の月はたいそう明るい。その月に照らされる、優美で、輝くばかりにうつくしい光君が悲しみに沈んでいる様子には、虎も狼も泣いてしまうに違いない。


同381p

泣き沈んでいた女君は涙をこらえ、いざり出てくる。その姿が月の光に映えて、はっとするほどうつくしい。自分がこうしてはかなかったこの世を去ってしまったら、この人はどんなに寄る辺なく落ちぶれていってしまうのだろうと思うと気掛かりで不憫に思うが、深く思い詰めている女君をいっそう悲しませてはいけないと、

「生ける夜の別れを知らで契りつつ命を人に限りけるかな

 (生き別れることがあるなどとは思いもせず、命のある限りは別れまいとあなたに幾度も約束しましたね)

頼りない約束だった」と光君は口にする。

「惜しからぬ命にかへて目の前の別れをしばしとどめてしがな

 (もはや少しも惜しくないこの命にかえて、今この別れを、ほんの少しでも引き止めておきたい)」

女君は応える。いかにも、そう思わずにはいられないだろうと、このまま見捨てていくのは本当に心苦しいけれど、夜が明けてしまっては世間体も悪いと思い、光君は急いで出ていった。


このあたりのすれ違いも、関係の数だけ恋があるのではなく人の数だけ恋があるのだと思わせられる。片恋がふたつ。

20221004

日記43

昨日
先々月から飼育をはじめたモンステラに久しぶりの水やり。根腐れを恐れて水を3週間近くあげていないせいかいよいよ葉が内向きになってきたのを見て、予定の水やり日よりも日程を早めて水をあげた。
水やりのペースは間違っていなかったようでその後モンステラはどんどん葉を増やし、部屋内の緑の割合を高め続けている。

今日
仕事後スタバで源氏物語『花散里』の回。短い章ながら、このことに一章を割いているのは全体を見通したときに効果的なので長編小説の手くだとして見事だと思う。紫式部は参考にした長編小説を三冊挙げるように。
この二日間何をやっていたのかこれではほとんど思い出せない。しかし、書けるだけは書こうという意志を感じる。書けるときに書けるだけというスタンスを忘れないようにしたい。現状とくに負担になっているというわけではないが、それは小説という一段上の負担があるからで、それに比べたら日記を書くのはむしろ楽しみの部類だ。

20221003

日記42

週末土曜は自宅でボードゲーム会を開いた。四人で酒を飲みながらだらだらと。ドミニオン、カタン、カルカソンヌ、コードネーム、ウボンゴ、スマートスピーカーにキーワードを言わせるゲームをして昼から晩までボードゲームに興じた。途中、スイッチでグーにゃファイター、水中探検、エセ芸術家。「帰れ鶏肉へ」亡命ロシア料理をふるまった。
おいしい新潟の日本酒を持ってきてくれてそれを飲みながらなごやかにボードゲームをして楽しかった。日が近いと楽しかったことを楽しかったと書くことをしない癖が自分にはある。何かしらの評価をして印象を自分の書いた方向に固定したくないという意識が働くのだろう。
ボードゲームが一定以上にうまい人あるあるなのかもしれないが、自分のプレー意図を共有してオープンにするというプレースタイルをしている。それによって自然にコミュニケーション場面が増えることになり、まわりにさりげなくそのゲームのコツを習得させるという効果もある。しかも笑顔を絶やさず、できる男だなとつよく印象付けられた。面白い人だったのでもっとぐいぐい行って友達になりたいというメッセージを送るべきだった。

日曜は夕方まで家にいて下北沢にでかけた。昭和レトロの雑貨屋で、いろいろの商品を見ているなかに掛け時計があり、祖父の家や祖父が営んでいた電化ストアを思い出した。
昭和レトロについて懐古ができることは財産だと感じる。Z世代に対する明確なアドバンテージだ。

鎌倉殿を見てからBSの番組を続けてふたつ見た。培養肉などのフードテック関連の技術紹介番組と『弱虫ペダル』を読んでるトッププロロードレーサーの番組。全力を出すしかないと快晴の顔で言い切っているのがとにかく印象的だった。
こういう見た番組の情報は一年後の観点でいうとかなり貴重だ。これだけの情報でもちゃんと思い出せる。これからの日記にも活かしたい。しかし坂道をのぼるロードレーサーの意味はわからない。なんでそんな苦しいことをやるのか。マラソンランナーとかもそうだが。


今日
メルカリで買ったテレビ台が届いた。立派なオーク材の、元値がテレビより高価なテレビ台。
50型のTVより高いんだからおそろしい。50型のTVが乗るサイズだから大きいのはあるけれど、それでも。
在宅勤務が終わってからスタバ。源氏物語は「賢木」の章を読む。

いつもより酔っている光君の顔は、たとえようもなくつやつやと魅惑的である。薄い直衣に単衣を着ているので、透けて見える肌がひときわ輝いていて、年老いた博士たちは遠くから見て涙を流している。


涙のわけがわからないながら、画を想像するとなんだか凄い。

感極まって涙を流すというのはあることだ。ただ、ここでいう「感」というのは自分の想定よりもだいぶ広いんだろう。

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