西が丘サッカー場まで行き、新宿クリアソンv奈良クラブのサッカーの試合を観る。とにかく天気が良かったので、芝生の鮮やかな緑が目に飛び込んできた。あんな場所でサッカーできたらさぞ気持ちいいんだろうなと思った。前半は奈良クラブのベンチ真裏に陣取ったおかげで、ゴール取り消しのときの監督の抗議や、ゴールのときの監督のガッツポーズが見られたり、生観戦ならではの満足感の高い観戦になった。行きは十条駅から歩いたので帰りは赤羽駅まで歩く。
夜は下北沢で友人のモラハラ話を聞く。個人的にゆるがせにできないルールがあったとして、それをどう自分以外の他人に適用させようとするかという手際が求められる場面で、友人のそれは、手際にはそれなりの自信があって、なおかつ、最終的に押し付けるときに不可避的に発生する責任は回避したいという場合に該当するモラハラケースだった。自分のなかでつながっている手順を相手に落とし込めておらず、相手が理解しないまま適当に肯定的な表現でお茶を濁したのをそれと知りながら利用するという、お婆ちゃんの家に上がり込んで物を売りつける悪徳営業の手口と本質的に異なるところがないやり口だが、それの成功は重要な何ごとかの失敗を意味してはいないかと疑問に思う。
上記の疑問をぶつけてみたところ、それについては黙殺したまま話を横滑りさせ、べつの似たような話を始めた。理解する能力か回答する言葉、あるいはその両方がないのだろうと判断して、それ以上はとくに追及しなかったが、そういう姿勢がどうあっても責任を回避したいという彼のやり方を形作ることになっていて、何かを改善したいという要求を実現する妨げになっていると思われる。知ったうえでのことであれば、改善したいというフリをしているのに等しいし、他人をそれに巻き込もうとすることは、巻き込まれる他人にはもちろん、長い目で見れば本人にとっても無益でしかない。もっと自由闊達に改善要求をぶち上げていけばいいのにと思うが、そのためには自分自身の姿勢改善が欠かせないわけで、そういうことをするのがどんどん難しくなっているのだろう。
もっと単純に、私と彼とで重要に思うことの中身がちがうというだけの話だとも考えられる。そして、私が重要に思うことを重要に思わない人がいるということを私は理解できないし、理解できるようにしようという気もない。もしこの点について姿勢改善したほうがいいよと忠告してくれる人が現れても、私は普通に無視して、その意見については黙殺することだろう。だから結局、私たちは同じ穴の狢(むじな)なのだといえるかもしれない。私からすればそんなわけはないのだが。
全部ちがうと言いたいところだが、もっともちがうのは、コミュニケーションにおける同意や合意について、結果を最重要視しないというところだ。言質を取りたいがために会話をするわけではなく、理解と反論を求めているので、必然的に、結果よりもプロセスのほうが重要ということになる。込み入った話になってくると、あいだに差し挟まれる「なるほど」とか「たしかに」という相槌の重要性は増えてくるし、それを適当にやられるとかなり困る。
いい加減な相槌を打たないというのは会話における最低限の礼儀だといえる。理解していないときに「わかった」という意味のことを言うのは、それを言う本人にとってはその場を成立させるための友好的な方便なのかもしれないが、長期的に見れば敵対的な対応にほかならない。長期的な関係を築こうとしていたり、長期的な関係が見込まれる相手に向かっては、嘘も方便という言葉は通用しないということを、この手のことなかれ主義者は肝に銘じるべきだ。
何が言いたいかというと、じつは、私の友人はこの礼儀をわきまえているということだ。彼はわからないことについてわかったとは言わないし、同意できないことについて同意したりしない。しかし、彼のモラハラ対象は、この礼儀をわきまえていないと考えられる。わきまえているにしても、やや甘く考えているようだ。自分にとって入念に言葉を選んで意見を説明し、相手から「わかった」という言葉を引き出せたとするなら、それは「了解された」ということであって、そこで「ひょっとするとわかっていないのではないか」と疑う意義はうすい。それを疑わなければならなくなると、説明する側の手間は最低でも二倍になる。一対一のコミュニケーションにとって、それはあまりにもアンフェアだ。これは短期的にはうまく回る方策かもしれないが、長期的には、ちょっとでも込み入った話をするための相手にならなくなる。
込み入った話をしないという解決策はあるにはあるが、私の観点からすればそれは何の解決にもなっていない。誰にだっておそらく込み入った話のひとつやふたつはあるはずで、それを話して理解されたいという望みは断ち切りがたい。自分の込み入った話をうまく説明できないことがあまりにも続いて、諦めそうになることがあったとしても、他人の込み入った話を理解しようとする姿勢は保っていたい。込み入った話をしたりされたりするなかでしか得られない充足はある。
自分から見ても、この人には自分の話が話せそうだと思うような人と、そうは思えない人とがいる。他人から見ても同じような差はあるにちがいない。前者でいるためには、また、前者でいようとするためにも、かなり多くの能力が必要とされるものだと思われる。そうは言っても相性があるから、これだけあれば十分だといえる要素はない。それでも唯一不可欠だといえるのは、やはり礼儀があるかどうかだ。
「そうなんですね」とだけ言っておけばそれで済む場面はある。私はそんな場面で聞かされる話はくだらないと思うし、それと友人の込み入った話を聞くときの熱量は区別すべきだと考える。反対に、どんな話でも分け隔てなく同じだけの熱量をもって傾聴するというスタンスの人もいるだろう。文化がちがえば捉え方もちがう、礼儀における「つまらないものですが」問題と似たような構造なのかもしれない。
いや、定型的な話を面白く膨らませるような積極的な聞き方ができる人であれば、私の消極的な話の聞き分けそのものがくだらないと考えることだろう。そう考えると私のやり方はつまらないものに思えてくる。自分には能力の限界があり、それに応じたスタンスだから仕方がないと割り切っているが、このやり方がベストではないのは明らかなので、やはり若干の居心地のわるさがある。
最善は、能力があり、積極的な聞き方をできる人である。だとすれば、次善は何になるかという選択の問題になる。積極的な聞き方をできるときはしてできないときにはしないが分け隔てもしないAか、積極的な聞き方をできる相手とそうではない相手とを区別するBか、どちらが次善かという問題だ。Aのほうが最善を目指している分だけ、見た目には最善に近いように思われる。しかし、私のベストはBである。私は誰かのために私があるとは思えない。それをはっきりさせておくのが私なりの礼儀だ。その私なりの礼儀をおろそかにして、より最善に近いように見えるからという理由でAを選ぶのは、私にとってはBを選ぶことに劣る。つまり順当に言って、私にはBが次善ということになる。最善を選べず、その次も選べないので、次の次を選ぶというだけの話だ。
私はたぶん最善を選べる人に嫉妬するし、最善を選べないがそれを目指せる人にも嫉妬する。そして、真っ向から最善を攻撃できない鬱憤を、私から見て間違っていると思われる次善策を選んだ人をターゲットに晴らそうとして、その次善は虚偽のものであり間違っていると主張し、攻撃しようとするようだ。もちろん私にはそんなつもりは皆目ないのだが、そう見なされるだけの材料が揃っていることは認めないわけにはいかない。
私が最善を諦めていないかと問われて「最善を諦めていない」と言えば、虚偽になる。ただ、最善について諦めていると言いたくない気持ちがある。同時に、諦めていると言ってしまいたい欲求もあるのだが、とりあえずは最善については何も言わないことに決めている。そのことで重要な何ごとかを、自由闊達さを失っているのではないかと疑問を呈されれば、そのときこそ前後左右進退に窮して、その場で無意味なジャンプを二度といわず三度といわず、ジャンプするしかなくなるだろう。私が友人を追及しなかったのはたんに面倒だったからだが、その内訳はそのときに私が考えたものとは内容を異にしているものと思われる。
昨日
楽しみにしていたBBQがあった。豊洲のBBQ会場で、東京タワーとスカイツリーを同時に見られるのが売りだと思われる立地。近くに誰もおらず、ポツンとひとりで肉を食うという最悪の事態を想定していったおかげで、久しぶりのBBQはかなり充実したBBQになったといえる。しかし、本当はあちらこちらと会場狭しと動き回り、全員に気の利いたジョークをお見舞いするというベストパフォーマンスを夢想していったおかげで、上質なお肉、リッチな立地、低調なパフォーマンス(寝ていないだけマシだが、寝ていないだけともいえる)というボンボンキュな出来となった(BBQだけに)。焼き残し、焼き終わりの食べものを廃棄するという、純粋なBBQ観点からはもっともさもしいBBQになるという結果になったのがなによりの心残りだった。社交BBQの観点からは、食べ残しに群がるというのがもっともさもしい行動なのかもしれず、その場合は私ともうひとりでその役目を分け合えたのが収穫といえば収穫だった。一気に意気投合するみたいなことは生きていてもあまりないが、少ない機会ながらそのときの印象は強く残るもので、それを期待するけど、とくに東京に来てからはめったにない。今回もそれは起こらなかった。まあ焦らずに回数を重ねて、「弱火でじっくり」をモットーに知己を増やしていきたい。相手次第の度合いは年々高まっているので、そろそろ自分から働きかける意識をもってもいい頃合いかも。
帰宅後4時間超の昼寝(夕寝)をかまし、録画で鎌倉殿の13人を見る。実朝の苦悩が、髑髏という小道具を通じて劇的なものにつながっていき、どんどん迫真の演技に見えていった。それだけに放送後、ツイッターで流れてきた実朝役の柿澤氏の謎ポージング写真が激烈な効果をもたらした。やはりツイッターでドラマの感想など見ようとするのがわるい。