私の意見では、意見は固定されるべきではなく、むしろ状況に応じて変わっていくべきだ。
問題は変化のスピードと頻度であるかもしれない。そうころころとむやみに意見が変わっていくのはさすがに良くないでしょうと言われれば、そんなことはないと思うけどなと言い返したくなる。そんなのは単なる無定見だよと言われるとしても、意見を変えたり、考え方を改めたり翻したりすることは無制限にできるべきだと思う。意見を変えるということを重視して、無理やり、思ってもいないことを言い出すのが良いとは思わない。しかし、他人にそう誤解されようと、自分が何かをべつのように思い直したのであれば、遠慮なく思い直すのが良いと思う。
そういう意見の変更が可能な環境が守られるべきだと思う。社会の意見よりも個人の意見のほうが小回りがきく。問題の解決のために余計な衝突や摩擦を避けるためには、そういった小回りの良さを見逃すべきではない。
ある特定の言葉を使うと、対抗するイデオロギーがぶつかってきそうになる。そういった事態は避けたい。また、そういった言葉で味方を増やしても仕方がないと思う。イデオロギー対立をしたいわけではない。私という個人は、イデオロギー対立をのぞまない。なんだか勝ち目が薄そうな気がするし(「味方」の人たちはだからこそ結束しなければならないというだろう)、対決になった時点で、意見の変更ができる環境が失われるからだ。
私のような考え方がもし多数になれば、社会はうまく立ちいかなくなるかもしれないが、もしそうなったとしても、社会がうまく立ちいかなくなる要因がそれだけということはないはずだ。それに、社会としてはAと考え、個人としてはべつのように考えるということは可能である。いやしくも意見である以上、社会の意見と個人の意見が一致している必要はない。
個人は、衝突や摩擦を避けて賢く生きなければならない。
選べるものが少なくなっていくのなら、それに対応して、そのなかでマシだと思える選択をしなければならない。
問題はあるが、それに引き摺られてはならない。問題の近くにいる人がそこから離れていられる環境を用意しなければならない。問題を含む環境づくりを推進しようとする個人にむかって、本当のところこのやり方は良くないかもしれない、ひょっとしたらべつのやり方があるのかもしれないと思わせるように誘わなければならない。
そのためには、真剣に問題に向き合うのではなく、問題と十分な距離を取ることが必要だ。社会は問題に向き合い、問題に取り組まなければならない。そして個人は、問題を横目に見つつ、自身の周囲にある素晴らしい毎日を謳歌しなければならない。
そんな環境では満足できないという嘘つきにも、それでは謳歌できないという弱虫にもなるべきではない。立派な成功例となって、言葉ではなく態度で、自らの優位性を示すべきだ。相手から自らの側を擁護するにはそれしか方法がないというのが今の私の意見だ。