頭で考えることと感覚的に思うことのあいだに乖離が見られる。
両者は、向こう側が見えないほど離れているわけではないが、簡単に行き来ができるほど近いわけでもない、
と言いたいところだが、乖離とは言っても実際に離れているのはほんの少しの距離でしかなく、余裕で行き来ができるほど近く、何だったら一見して区別がつかないほどぴったりくっついていると言える。しかし、仔細に見れば噛み合わせが合わない。すこしズラしてみたところで噛み合うことはないとはっきりわかるほどには確かな隔たりがある。ここで言う乖離とは大体そのようなものだ。
そして、頭で考えることと感覚的に思うことについて、前者は論理的に考えると言い換えられる。だが、傍から見てあまり論理的だとは言えなくても自分では頭で考えているつもりになっているということもあり得るし、そういった自己認識も含めたある程度広い意味において、それを頭で考えていると言い表したい。それは感覚的に思うということに対置する、主観に欠ける思考のことだ。主観に欠ける思考というのは、わたしが感覚的に思ったまま言い表したものであり、実際にどこかの頭の中にある(と考えられる)論理的思考には「この思考には主観が欠けている」という認識はないかもしれない(し、あるかもしれない)。とにかく、一方からは、主観的なものと感覚的ではなく没主観的なものとしてそれらは区分けされ、もう一方からは論理的なものと非論理的なものとして区分されたりするものだ。
以上のことは、感覚的な思考/論理的な思考という二分法で捉えることができる。
そして、上のような大雑把な区分に従うと、書かれた言葉というのは頭で考えたことの表出ということになる。そのため、誰かによって書かれた文章を読むとき、「頭ではわかるんだけど感覚的に腑に落ちない」という反応が生じるのは当然のことだといえる。それがある程度以上に複雑な問題であればなおさら、どれだけ出来の良い文章に対してさえ違和感は発生する。感覚的な思考は、自身以外の思考を排他的に扱う。ある程度以上に進展した思考に対して、感覚的思考は、「わからない」という感覚を引き起こす。しかし、「わからない」という感覚を言葉で表わすとき、素直に「わからない」と表現されることは稀である。立場や思想がある人は、それを「おかしい」と言ったり「間違っている」と言ったりする。慎ましやかで穏当な言葉遣いをする人であれば「違和感がある」と言うかもしれない。違和感がある。便利な表現である。感覚に有利な言葉遣いである。
そして、自分自身の感覚に忠実であろうという傾向を持っている場合、忠実であろうとするほど違和感は大きくなっていく。いや、違和感が大きくなるというより、違和感自体は頭側の努力によって小さくなっていくのだが、それに反してその存在感は膨らんでいく。誤ってシャツにつけた小さなシミがどうしても気にかかるように、小さな違和感がどうしても気になるという状況へと落ち込んでいくのだ。
- 複雑なものへのアプローチにおいて感覚を捨てまいとすること、どんな状況下でも感覚的な受容を経ようとすることは、感覚への忠誠心を100に近づけようとすることだ。平時にインタビューすることは忠誠心の高さを量る役に立たない。かなり分の悪い状況下でも自分のやり方を捨てないかどうかで忠誠心の高さは量れる。
複雑なものを複雑なままに取り扱おうとするのは、頭よりも感覚の領分であると考えられる。頭で考えるというのは、全体を取り扱うことが可能なサイズに切り分けたり、切り分けた部分を操作することである。感覚的に思うということは、対象の複雑さによらず、ただ思うということで、分類したり区分けしたり対象に働きかけたりすることなく、全体があればそれを全体のまま受容する。
感覚によって全体を捉えるのは操作するのを諦めていることだ。事象について反応を返すということはあっても、それ以上のことを起こそうとはしない。逆に言うと操作するつもりで感覚によって全体を捉えるということはできない。
そうは言っても、諦めるにしても働きかけないにしても、そういった傾向があるぐらいのもので、それらが徹底されるということはない。頭で考える場合とは違って、ある傾向を伸長して徹底させるということは感覚には不向きである。そして感覚的思考におけるある傾向を伸長させるということ自体、矛盾とは言わないまでも無理がある。意図して伸ばした部分は取ってつけた部品のようなもので、その部品は頭で考えたことの産物であるため、最後のところで感覚にはなじまない。
感覚的に思うということの内側にとどまっているかぎり、そこにあるのとはべつの思考に対する違和感は無くならない。さらに、いちど得た違和感は制限なく膨らませることができる。おかしいのではないか、なにかがおかしいという思考にとどまって、どこがどうおかしいのか、何がおかしいのかということへ進展せず、違和感をただ違和感として表明し続けることができる。理路整然とも思える営業を数時間にわたり受け続けて、それでも何かがおかしいと直感が働くように、頭で考えられたことに対する違和感はどこまでも機能する。これはひょっとすると安全ではないのではないかという本能に基づく拒否感もあれば、それまでに培った習慣的思考や姿勢によって違うと判断することであるかもしれない。NOへといたる経路は複数あり、客観的にはそのうちのどれかが原因とみなされることになるが、感覚的に思うことにおいては、そのどれかを選ぶことはもちろん、理由1、理由2と区分けすることもできない。そういう状況についてそのまま言い表そうとするなら、違和感があるということになる。どこに?と訊かれても、それはわからない。ただ、どこか違和感がある。
それとは反対に、感覚的にわかるということもある。わかると思うときに、まるで頭を通していないかのように、書いてあること・言われたことがわかると思うようなことがある。講演会に出かけて、2,3時間のあいだひたすら頷きを誘発された挙げ句、帰ってから講演会の内容を訊ねられるとほとんど何も答えられないということがあるように、わかるということが、その場かぎりの反射反応にすぎず、他人が自信ありげに理路を辿っていっているのを見てなんだか快く思うだけのことが、無性にわかると思われるということがある。わたしが小説を読んで面白いと思うのは、この手のわかるという感覚によるところが大きい。新たにわからされたことや、わかるの確認や再確認がもしなかったとすれば、小説を読む動機はないとさえ思われる。そして、このときのわかるというのは厳密な意味での理解というよりは感覚的なものである必要がある。それらは両立し、どちらも欠けていないほうが望ましいものだと考えられるが、それでもどちらかを選べと言われれば迷う余地なく感覚的なほうを選ばねばならない。
感覚的にわかるということ抜きに、理解だけのために小説を読むことはできない。小説にかぎらず、あらゆるものを受容する際に同様だ。
何かを否定したり拒否したりするときには、その理由であったり、個人的なものであってもその経緯を説明できなければならない。もしそれができないと、他人からは、控えめに言っても、フェアではないと思われる。とはいえ、いついかなる状況下でもわれわれはフェアでいなければならないというルールは存在しないので、個人的な事柄については、私たちは諾否の判断を自らの手のうちに持っているし、その判断次第で身勝手なやつだと糾弾されたりしないで済むケースがほとんどだ。他人との利害関係が生じる判断はそのかぎりではないかもしれないが、われわれが日常で直面する判断のうち、少なく見積もっても半分以上は、そういった利害とは無縁の、より些細で重要な判断である。
誰かにいちいち説明したりしないけれど、その場その場でたしかに発生している判断で日常は埋め尽くされている。それら日常の判断と公的に何かを言うことのあいだには乖離がある。もっと言えば(感覚的に言う割合を強めて言えば)、そこには乖離がなくてはならない。
これを反対側から言うと、公的な言動について、感覚的なものだけに終止して許されるということはありえない。たとえば誰かの何かの言動に対して否定なリアクションをするとき、違和感があるとだけ言って済ましているわけにはいかない。
もちろん、何かを言っている気になるために、当たり障りなく言うつもりで「違和感がある」と言うにとどめることは可能である。しかし、その意見の表明には、当人には考えつかない「返り」がある。ひとつは発言力が弱まるというもので、本人以外の他人からすれば、そういう意見に聞くべきところが少ないのは明らかであるだろう。もうひとつは感覚が鈍るというもので、こちらのほうが深刻な影響があると考えられる。感覚的な思考というのは、それを作り出し、それの内側にいる当人の中では最強のものである。あまりにも感覚に従った言葉遣いをすることは、感覚自身にとって危険である。感覚的思考は「それでよし」とするところで終了する思考である。どれだけ回り道したり迂回ルートを通ったとしても、最終的には「よし」へと至るほかない。だったら余計な手数をかけずに最短コースをとればいいのではないかというのはもっともで、それなりに論理的な考え方だが、じつはそれは正しくない。なぜなら感覚は走らなければならないからだ。感覚が感覚として機能するために、感覚は走らなければならない。身体がじっとしていても、精神的に落ち着いていても、感覚が何かを見つけたときには、そこに向かって走らなければならない。感覚が何かの対象に向けて走ることを指して、感覚すると表現することができる。すべての実務において有効な「効率的ショートカット」は、感覚を走らせるためには有効とはならない。RPGをやっているとどこかのタイミングで「ファストトラベル」の能力が手に入ることがあるが、それは煩わしい移動を省略できているようでいて、実際にはゲームの作業的側面を亢進させることになってしまうように、ある刺激を効率よく受けたいがために、簡便なシステムを作成しそのとおりに動くというのは、それによって得られる刺激を最大化するかもしれないが、感覚を最大化することにはならない。むしろかなり大きく損ねてしまうのではないかとも考えられる。誰かに向けて「違和感がある」と言うことは、本人の中では言ってやったという感じが強くするものだ。そう言い放ったところで、まったく足を上げていないため、言い返される余地もないかのように思える。しかし、対社会的にも、本人が思うより無視されている(無視されていく)ことは間違いない。そのうえ、さらに悪いことには、感覚が感覚として機能するための足場が用意されず、感覚を走らせないで放置することにつながる。私たちが楽しいという感覚を味わうためには、しかるべき条件を整えなければならない。それなのに、記憶をたよりに行動をパターン化してしまったり、簡単な方法ばかりを取って最適化を極めてしまうというのは、感覚を得ているようでいて実際には損ねていることに直結している。上り坂があったり、障害物の岩が立ちふさがったり、飛び越えられないほどの谷に道を阻まれたりしないということは、感覚を走らせないで囲い込むようなものである。そこまで極端な例を挙げないでも、しかるべき距離を用意してあげないまま安易に感覚を喜ばせてばかりいると、外側にあるすべてが対象外となってしまうおそれがある。実際にはすべてが対象であるべきという感覚だけが持つ傲岸不遜さ、最強であることに由来する傲慢さこそが感覚的思考の本領だというのに。
カフカが言ったとされる「君と世界の戦いでは、君は世界につけ」という言葉からは、感覚思考が至高なのだから世界に対して手心を加えてやれという意図が読み取れる。さらに、ここに見られるような世界と感覚との二分法に違和感をもつことは当然考えられることだが、あえてこだわらずにそう言ってのける感覚もそこから感じ取ることができる。