20220914

『源氏物語』の分岐点

源氏物語 149p

ということは、あの女童は、兵部卿宮は藤壺の兄、なるほどだからあのお方に似ているのかと思い、なおいっそう心惹かれ、我がものにしたいと思う。人柄も気品があってかわいらしいし、なまじっかの小賢しさもないようだし、親しくともに暮らして、思いのままに教育して成長を見守りたい。


源氏物語(角田光代訳)を読んでいると、上のような一節に突き当たった。昨今の高い衛生観念が反映された物語にばかり親しんでいると、主人公がいまの時代から見てあきらかに非常識なことを言うのが気になる。創作物に対する「正しさ」の観念について、私は、寛容というか気にならない方だと自認していたのだが、どうやらそれにも限界があるらしい。しかも自分自身で思うよりずっと近く、すぐ近くに天井があったようだ。

しかし、源氏物語の主人公である光源氏は、自らの希望が他人からすれば非常識と受け取られることを自覚しており、上の願望を女童の近親者である僧都に伝えるにあたり、私のこの申し出が通り一遍のものと受け取られると間の悪い思いをさせられることになりますが……などと付け加えることを忘れない。これは要するに、自分の申し出はあくまで特別のものであって、そこらへんの有象無象どもの願望などとはいっしょにしてくれるなと申し添えているのである。

ここで特別のものであるというその根拠は自らの高貴な生まれにあると、他人はそう解釈することを光源氏は理解している。それを理解したうえで、そこらの有象無象どもといっしょにしてくれるなと言うとき、彼は自らの想いが凡百のものではないと主張しているのだ。つまり、ここには例外的な想いがあるのだと、自らを取り巻く環境を利用しつつ、自分が置かれたシチュエーションのなかで堂々と言い切っているのだ。

他人の判断の根拠が自分自身がそう捉えている根拠と同じであろうとなかろうと、光源氏は気にしない。答えは自分の胸のうちにあればそれでたくさんだと言わんばかりの、ある種傲慢なこの主張は、小賢しいというには大胆にすぎるし、豪胆というには理が勝ちすぎる。

中庸といえば聞こえは良いが、つねにほどほどのところをわきまえ、自分が望むものにむけて最短距離で進むことを許された男の恋物語が面白いわけがない。他に面白い物語がない社会にあっては面白く読まれもするのだろうが、幸運なことに現代はそんな時代ではない。むしろ物語はありふれ、あふれるほど量産されている。物語があふれた現代において、源氏物語が今なお読まれるとすれば、ある社会、ある環境におかれた個人が、何をどのように求めるのかという、思考実験的な側面があること、さらにはそこに現代に通じるリアリティが見られることに依るだろう。

時代精神という言葉があるとおり、個人が考えることの大部分は、自らが所属している社会に規定される。どれだけ社会の意見から距離を取ろうと意識したところで、つい同じ言葉遣いをしてしまったり、自分の意見というものが(趨勢へのアゲインストであれ、諦観の末の判断であれ、)社会の意見に包摂されていることに気がつくだろう。自己内で完結する自己対話においてさえ、社会の考えが内在化されていないということはありえない。極端な単純化によってピントが合わず、ということはあっても、まるごと無視して済ませるということはできないのである。

だから、他人は(あるいは社会は)こう思うだろう、自分の言葉を自分の意図とは違うように受け止めるだろうと知りつつも、それに引き摺られることなく、自分が思うことを言い、それによってできるかぎり自分の望みをかなえようとするのは、個人にとって欠かせない必要な手管である。そして、その必要を満たすために、他人の自分とはちがっている見解を利用するのは自然なことだといって問題ないように思われる。

問題は、その見解の違いをどこまで許容するのかというところにあるだろう。それこそ、光源氏が我がものにしたいと心の底から求める相手は、必然的に、光源氏の想いを思い違いして受け止めることになる。光源氏から見てどれだけものの分かった相手であろうと、どれほど完璧に相手を教化しようと、このすれ違いだけは避けられない。そこで、ならば仕方ない、それでよしとするほかないと考えるほど、光源氏がものの分かった男であるのか、そうではないのかというところに、ひとつの分岐点がある。

この分岐を右に行くのか左に行くのか。それが問題だ。あるいは、いつか通り過ぎてきた分岐において、左に行ったのだったか、右に行ったのだったか。また同様に、そこに見えているすぐ先の分岐について、左に行こうとしているのか右に行こうと考えているのか。

いずれにせよ、そんな分岐など存在しないとは言えない。しいてそう言おうとするのはあたかも、個人も社会もありませんと強弁するようなもので、私と社会のあいだに区分など存在しないと言うも同然だ。一切の区分をしりぞける一種の気分を用いるような場合であっても、私と自然のあいだにと言うべきであるように思う。

しかしながら、光源氏に今言った分岐など存在していないという可能性もある。他人の解釈など考慮に入れていないという可能性である。たしかに光源氏はたびたび、人に悪しざまに思われたらどうしようと不安になったりするが、そんなときの光源氏は他人のことを考えていると思われない。われわれが外聞の悪さを恥じるとき、必ずしも外に目が向いているとは限らず、むしろ自分の内側に埋め込まれた社会の意見にとらわれていることが多いのと同じだ。彼はそういう罪のない単純さを持っているようでもあるし、自分が足を置いているところとは別の水準でものを考えられるようでもある。この二面性は特別のもので、時々に応じた好意的な解釈を招き寄せる特性を持っているようだ。

自分がもし光源氏であればどうするか考えようとするのは必要な手順だろう。その手順において、彼が行なったような不義は絶対に行わないと思う自分がいるとするなら、それは自分がもし光源氏であればという仮定が徹底されていないのを示すにすぎない。光源氏の立場に立って、これまで通りの自我が成立するなどということはまずありえない。その圧倒的な状況によって当たり前のようにほとんどすべてが押し流されるに違いない。それでもなお残るこの私の自我があるとすれば、それは分岐が起点となる。相手が私の想いを私の想いとして受け止めてくれるかどうか。その問題だけは解決されないで残るからである。

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