20220930

日記41

仕事後にスタバに行くことがルーティンになった一週間だった。働いていないときのほうが時間はあったのに、そのときはただただのんびりしていただけだった。働くと時間が減るけれど活動的になるので、結果、活動時間が増える。活動時間が増えるより時間が増えるほうが望ましいけど、本当にそうかと訊かれたらちょっと言いよどむかもしれない。
何かで小忙しくしているとその活動の余勢を借りてわりとスムーズにやりたいことに移れるというのはある。働いていないときには一速で発進することに結構なエネルギーを使う。やりたいことをやるのは簡単だが、何もしていない状態から何かをやる状態に持っていくときにはやらなければならないというのが、強制力があり考える余地がない分ラクなのはラクだ。
新しい仕事なので吸収できる新知識が多いのが良くて、ログインボーナスみたいなものかもしれないけど。まあ、一時的だったとしてもそういうボーナスが無いよりは有るほうがいい。
知っている現場の数が増えるというのはそれぞれの職場を相対化できて良い効果がある。その場のルールには従わなければならないのは変わらないんだけどあくまでその場のルールにすぎないと冷静になれると従順でいるのもそこまで苦にならない。
源氏物語「葵」の回。光源氏の光源氏たるゆえんというか、その真骨頂があらわれた回だった。まず「二年がたった。」という書き出しに痺れた。

何ごとにつけても、実際に逢うと想像よりすばらしいという人はまずいないのが世の常なのだが、つれなくされるとますます惹かれるのが光君という人の性分なのだ。


気に入らないことがあると聞こえよがしに恨み言を述べるスタイルもだんだん可笑しくなってきた。引用部分もどう考えても軽く当てこすっているし、作者の書きようが秀逸で、紫式部に興味が湧いてきた。作者に興味が出るのは俺が小説にハマるときのパターンで良い兆候だ。
著者が意地悪なことを言うと、読者はそれを共有してもらったという気になって、ますますついていこうという気持ちになるんだと思う。対象を描くというのはそれを指差すことで、読者も一緒になってそれをくさしている感覚になるから共同意識が芽生える。悪口のコミュニケーションにもそういうところがある。意地悪を書くときと違いがあるとすれば悪口を書いてしまったら逃げも隠れもできないところ。同じ悪口でも、逃げも隠れもできる状況でやるのと逃げも隠れもしないでやるのとでは大きな違いがある。読者が共感するというのと著者が描くというのとにも同様の大きな違いがある。

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