在宅勤務での仕事後に『メイドインアビス烈日の黄金郷』最終話を見た。メイドインアビスを見ると想像力の拡張が起きる。見えないはずだったものが見える。演出が冴えすぎているので、それぞれのキャラクターの行動をあとで振り返らないとおそろしいほど簡単にいろいろのことを見過ごしてしまう。すごく力の入ったアニメだと思う。音の表現が格別に良いためヘッドフォンでの視聴推奨。今までとちがい悪役がいない分、物語の凄みが増している。
メイドインアビスにとにかく感動したのだった。感動する度合いが大きいと、かえって素っ気ない記述になってしまうものなのだが、それでも感動した・良い作品だということを伝えたいという気持ちがあふれてくるので、文章として体裁の良いものではなくなってしまう。短くてなおかつ言いたいことを中心に書くというやり方で書かれた文章が伝える内容は多くない。
まず良さの源泉がどこにあるかというと、無常観のわかりやすい隠喩にあるというのは間違いないだろう。それは穴という形で作品の土台の位置につねに置かれている。この作品における穴への冒険では、現実の現実感を超えての「If」を存分に繰り広げることができる。これはSF小説を読んでいても同じことが起こるもので、現実の生活の内部から伸長する物語というのは、物語のほうを軸にして物事をみる場合にはかなり限定された内容しか表現できない。そこのところの蓋を取るというか天井を外すことで、この生活の中でたまに(しかし本質的にはつねに)感じている無常観・不条理、終わるという許しがたい性質について、かなり大胆に考えてくことができる。それを指して「想像力の拡張」と言っているのだが、これはどこからどこへの拡張かと言えば、生活から生活外への拡張ではなく、インナーワールドのさらなる深化というものに近いのではないか。さらなる深化と言うともともとあったものを見出すという響きを持つが、そこのところはなかったものがあるようになった探索の結果として捉えたいために、拡張という広がりを持つ言葉のイメージを使いたかったのだった。
理外の理というものを仄めかされるとコロッと参ってしまうという性質が自分にはある。不条理に対抗しようとするときにたよりになるのは理内で研ぎ澄ませていった理ではなく、一見して理の外にあるように見えてそこにも別の形式や則によってリーズナブルに感じられる理だと感じるからだ。地球の中に未知の生物を発見しようというのではなく、宇宙にそれを求めようとする素人考えにも似ているが、とにかくアウタースペースにはそういった余地があり、余地がある以上はそれに期待しないではいられないという話だ。フィクションがなぜこんなにも自分を満足させるのかという問題もある。これもすこし考えてみると明らかに、外に答えを求める心性からきているのだろう。なんだかんだで自分は、現実を世界の内側(この世界)として考えている。しかしこれは自分にとって逸脱するべき考え方なのではないか。唾棄すべきと言わないまでも、いつまでもそれを当然のこととみなしているべきではない。外に抜け出すためにやるべきことをやらなければならない。