演劇を見るために池袋に行く。それなりにつよい雨が降っていたのでびしょ濡れになるし、地下通路は湿気と熱気でむわっとしていて不快感がつよく、普段よりも疲れてしまった。サイゼリヤで腹ごしらえをしてから、途中強すぎる降雨のタイミングで二度ほど雨宿りをしつつ会場に向かう。
演劇は『解除』という題の会話劇で、食肉の慣習が培養肉中心に変化した近未来の話。クリーンミートからの連想で、従来の家畜の肉を「ダーティミート」「ガチ肉」と名付けていたのが面白かった。才気走っている印象がまずあって、若干の反感を覚えないでもなかったが、演者のクオリティが男性俳優中心に高いこともあり十分見られた。これだけのものをパッと書き上げられる技巧に感心する。一方で、言葉遣いは軽薄に見えるのを気にしないほど’素直’、説明もかっちり、しっかり目。客に対する親切心の篤さ(=信用のなさ)が感じられ、ストライクからはやや外れた劇だった。演劇としてよくできていると感じさせられる部分がそのまま演劇的でつまらないと感じる部分に重なっていて、いわゆる”演劇”は自分の好みではないのかもしれないと思わされる演劇だった。
終わってから雨の池袋を歩き回る。悪天候にもかかわらず客引き・キャッチの類が頑張っていた。今どき東京ではめずらしいほどまじめで熱心な歓楽街だ。酒屋で角打ち。二杯だけ飲んで帰る。
今日
朝から三鷹で用事。まっすぐ三鷹まで行って、まっすぐ帰ってくる。吉祥寺にも寄らず。下北沢のスタバでちょっと源氏物語を読んだりなんだりする。帚木を読み終わったところ。光源氏のややひどいエピソードにちょっと面食らう。人の妻を抱えて無理やり自分の寝所に連れ込み、拒まれると、こんなに想っているのにつれなくするなんてひどいではありませんかと批難がましいことを言うのはものすごい。手前勝手の極み。
しかし、光氏はひとりでルールに抗っているのだとなんとか好意的な解釈をしてみる。そうすると、主観主義者として立派なようにも思えてくる。とにかく相手の気持ちがこちらに向くかどうかのシンプルな勝負を仕掛けているのだ。そこには「いいえ」がなければ勝負にならないという考えがあると思う。「はい」はおろか「どちらともいえない」でさえ勝負にならないだろう。光源氏の場合は。
『源氏物語』は光源氏の場合の物語だと受け止めなければならない。「一般的に」とか「普通は」とかいうのはお呼びでないのだ。光源氏には反感を覚えながらも、こういう潔さについては快く思う。そもそもどれだけ不快に思おうとも「一般的な意見」では勝ち目がないのだから、一旦は快いところを快く思い、お茶を濁しておくのが無難だろう。