20220905

日記34

9月に入って気温が落ち着き始めた。日中は暑い日もあったが、8月のような天井知らずでどこまでも上昇していくのではないかと思わせる猛烈さは鳴りを潜め、夕方になると涼しさを感じることも多くなった。
8月末のある日、ケバブをはじめて食べた。場所は目黒の家具通りの店。ケバブ愛好家お墨付き、当たりのケバブショップらしく、私はケバブ運が良いのだと思った。家具通りを一通り回って、家具を買わずに絵を買った。落ち着いた色で抽象画のように見える。キャンバスに油彩で、よく読めないもののサインまでしてある。平面芸術の絵というより、「絵画」という題のオブジェとして部屋に置いてみたくなった。そこから何らかのインスピレーションを引き出せればと思って。
その後、「絵画」は部屋から廊下へと移籍していった。のびのびとプレーしてくれればそれにまさる喜びはない。
新橋の演舞場でスーパー歌舞伎を見た。舞台芸術のひとつの先端に触れたのは間違いなさそうだが、辺縁の色合いが濃く、「傾く」をお題目として唱えている感があった。何でもありなのであれば何でもやればよく、何でもありだと殊更に嘯くのは自信のなさの現れに見える。子供だましとまでは言わないが、文化的観光客向けのライトなメニューだと感じた。シネマ歌舞伎の「阿弖流為」の方が筋も面白く、必然的に舞台も映える。どちらか一方では片手落ちになるという当然のことを確認した。
役者を見せるための舞台というのもあり得るとは思うが、その役者が初音ミクで個人的にあまり興味引かれなかったことも大きい。
『NOPE』が面白かった。映画の形式を使った映像体験の提供という側面がつよく、IMAXレーザーがあってこそという感触があった。『DUNE』のときにも感じたことだが、話の筋は「圧倒的な映像と音響」によってはるか後景にしりぞいてしまう。筋が面白くないわけではないが、優先順位がはっきりしているとは思う。舞台芸術は、壮麗華美を盛り盛りにする方向では映画には決してかなわない。どころか相手にもならない。ハード面で音響に差がありすぎる。演劇はおそらく筋で勝負するしかない。
「静かさ」という逆方向の効果を生み出せるという点で、音響の観点でも戦えるかもしれないという思いつきがきた。
源氏物語を読み始める。高校生の頃におぼえた反感は今も現役だが、蓋をするということをようやく覚えたので、とりあえず読み始めた。蓋をしたままでは感じないのではないかという懸念があるのでどうなるかわからないが、「帚木」に入ってかすかに滑稽味を感じたのでこの後はもう大丈夫だという気がする。もうひとつの目的、言葉狩りもあるので気負わずにつらつらと読み進めたい。
結局、光源氏が死んでしまってから読むのを止めてしまった。いつか思い出したいときにでもつづきを読もうと思う。
日が落ちて涼しくなったので、これから代官山のブルワリーまでリアルゴールドを味見しにいく。
今でも麒麟(キリン)の春谷(スプリングバレー)は最高(ベスト)の麦酒(ビール)だ。白も良いが赤が好き。

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