20220930

日記41

仕事後にスタバに行くことがルーティンになった一週間だった。働いていないときのほうが時間はあったのに、そのときはただただのんびりしていただけだった。働くと時間が減るけれど活動的になるので、結果、活動時間が増える。活動時間が増えるより時間が増えるほうが望ましいけど、本当にそうかと訊かれたらちょっと言いよどむかもしれない。
何かで小忙しくしているとその活動の余勢を借りてわりとスムーズにやりたいことに移れるというのはある。働いていないときには一速で発進することに結構なエネルギーを使う。やりたいことをやるのは簡単だが、何もしていない状態から何かをやる状態に持っていくときにはやらなければならないというのが、強制力があり考える余地がない分ラクなのはラクだ。
新しい仕事なので吸収できる新知識が多いのが良くて、ログインボーナスみたいなものかもしれないけど。まあ、一時的だったとしてもそういうボーナスが無いよりは有るほうがいい。
知っている現場の数が増えるというのはそれぞれの職場を相対化できて良い効果がある。その場のルールには従わなければならないのは変わらないんだけどあくまでその場のルールにすぎないと冷静になれると従順でいるのもそこまで苦にならない。
源氏物語「葵」の回。光源氏の光源氏たるゆえんというか、その真骨頂があらわれた回だった。まず「二年がたった。」という書き出しに痺れた。

何ごとにつけても、実際に逢うと想像よりすばらしいという人はまずいないのが世の常なのだが、つれなくされるとますます惹かれるのが光君という人の性分なのだ。


気に入らないことがあると聞こえよがしに恨み言を述べるスタイルもだんだん可笑しくなってきた。引用部分もどう考えても軽く当てこすっているし、作者の書きようが秀逸で、紫式部に興味が湧いてきた。作者に興味が出るのは俺が小説にハマるときのパターンで良い兆候だ。
著者が意地悪なことを言うと、読者はそれを共有してもらったという気になって、ますますついていこうという気持ちになるんだと思う。対象を描くというのはそれを指差すことで、読者も一緒になってそれをくさしている感覚になるから共同意識が芽生える。悪口のコミュニケーションにもそういうところがある。意地悪を書くときと違いがあるとすれば悪口を書いてしまったら逃げも隠れもできないところ。同じ悪口でも、逃げも隠れもできる状況でやるのと逃げも隠れもしないでやるのとでは大きな違いがある。読者が共感するというのと著者が描くというのとにも同様の大きな違いがある。

20220929

日記40

今日は曇っていたものの最高気温が25度、最低気温が21度と、最高の気候だった。
在宅勤務での仕事後に『メイドインアビス烈日の黄金郷』最終話を見た。メイドインアビスを見ると想像力の拡張が起きる。見えないはずだったものが見える。演出が冴えすぎているので、それぞれのキャラクターの行動をあとで振り返らないとおそろしいほど簡単にいろいろのことを見過ごしてしまう。すごく力の入ったアニメだと思う。音の表現が格別に良いためヘッドフォンでの視聴推奨。今までとちがい悪役がいない分、物語の凄みが増している。
メイドインアビスにとにかく感動したのだった。感動する度合いが大きいと、かえって素っ気ない記述になってしまうものなのだが、それでも感動した・良い作品だということを伝えたいという気持ちがあふれてくるので、文章として体裁の良いものではなくなってしまう。短くてなおかつ言いたいことを中心に書くというやり方で書かれた文章が伝える内容は多くない。
まず良さの源泉がどこにあるかというと、無常観のわかりやすい隠喩にあるというのは間違いないだろう。それは穴という形で作品の土台の位置につねに置かれている。この作品における穴への冒険では、現実の現実感を超えての「If」を存分に繰り広げることができる。これはSF小説を読んでいても同じことが起こるもので、現実の生活の内部から伸長する物語というのは、物語のほうを軸にして物事をみる場合にはかなり限定された内容しか表現できない。そこのところの蓋を取るというか天井を外すことで、この生活の中でたまに(しかし本質的にはつねに)感じている無常観・不条理、終わるという許しがたい性質について、かなり大胆に考えてくことができる。それを指して「想像力の拡張」と言っているのだが、これはどこからどこへの拡張かと言えば、生活から生活外への拡張ではなく、インナーワールドのさらなる深化というものに近いのではないか。さらなる深化と言うともともとあったものを見出すという響きを持つが、そこのところはなかったものがあるようになった探索の結果として捉えたいために、拡張という広がりを持つ言葉のイメージを使いたかったのだった。
理外の理というものを仄めかされるとコロッと参ってしまうという性質が自分にはある。不条理に対抗しようとするときにたよりになるのは理内で研ぎ澄ませていった理ではなく、一見して理の外にあるように見えてそこにも別の形式や則によってリーズナブルに感じられる理だと感じるからだ。地球の中に未知の生物を発見しようというのではなく、宇宙にそれを求めようとする素人考えにも似ているが、とにかくアウタースペースにはそういった余地があり、余地がある以上はそれに期待しないではいられないという話だ。フィクションがなぜこんなにも自分を満足させるのかという問題もある。これもすこし考えてみると明らかに、外に答えを求める心性からきているのだろう。なんだかんだで自分は、現実を世界の内側(この世界)として考えている。しかしこれは自分にとって逸脱するべき考え方なのではないか。唾棄すべきと言わないまでも、いつまでもそれを当然のこととみなしているべきではない。外に抜け出すためにやるべきことをやらなければならない。

20220928

日記39

今日は何と言ってもお掃除ロボットによって姿見が割られるという事件があった。
細かなガラス片はお掃除ロボットであるルンバによってあらかた吸い取られたが、吸い残したガラス粉は人間である私の手によってきれいにするよりなかった。コロコロを転がし、テープを剥がし、コロコロを転がし、テープを剥がしというのを都合三回繰り返し、ようやく鏡の破片はきれいさっぱり片付いた。
ルンバは今も元気に稼働してくれている。

その後、バックスに行って文章を書いたり、えんしろのカクヨム小説を読んだり、源氏物語を読んだりした。
えんしろのカクヨム小説は昨日発見し短編集のほうを今日読み終えた。円城塔に憧れて、こんなふうに書けたらなと夢想するようなショートショートぐらいの分量の小説が円城塔本人によって書かれてあって、血は争えないなと思った。まあ親戚とかではなく本人なんだけど。漱石が芥川の『鼻』を激賞したときの「こういうものを2,30並べてみなさい。世の中に比類のない作家になれます」というコメントを思い出した。師匠やってないどころかいち読者なんだけど。
えんしろのカクヨムでのショートショートはわかりやすく面白いと思う。今日、Xを見ていると(一年前のこの頃から想像もできないことだがtwitterは名称をXに変更した)、円城塔が円城塔賞を開設したと発表していた。1万字以内という制限があったので自分は応募できないが、レギュレーションが変わったら是非出してみたい。(レギュレーションが合わないことにすこしホッとした)

源氏物語は「花宴」の回。

冠に挿すよう桜を渡し、ぜひとも舞を、と幾度も頼むので、断ることができずに光君は立ち上がり、静かに袖を翻すところをひとさし、申し訳程度に舞ってみせる。それだけでも、だれも真似できないほどすばらしく見える。左大臣は日頃の不満も忘れて涙を流す。


舞い手の光源氏はまあさすがという場面なんだけど、なにげに左大臣の感受性が際立ってすごい。いつも誰かが袖を濡らしているから泣く事自体はそんなに珍しくないけど、日頃不満があるにもかかわらずちょっとの舞を見て涙を流すのは目立ってすごい。

日頃のストレスで不安定になっていただけかもしれないが。そのストレスのもとは源氏なんだろうから穿った見方をすればまあマッチポンプだ。

意見の表明

ここで意見を表明することについての意見を表明しておくと、気軽に意見を表明するべきではないとは思うもののそう言うことはどうも憚られるし、気軽に意見を表明できるべきだと思うところもある。
私の意見では、意見は固定されるべきではなく、むしろ状況に応じて変わっていくべきだ。
問題は変化のスピードと頻度であるかもしれない。そうころころとむやみに意見が変わっていくのはさすがに良くないでしょうと言われれば、そんなことはないと思うけどなと言い返したくなる。そんなのは単なる無定見だよと言われるとしても、意見を変えたり、考え方を改めたり翻したりすることは無制限にできるべきだと思う。意見を変えるということを重視して、無理やり、思ってもいないことを言い出すのが良いとは思わない。しかし、他人にそう誤解されようと、自分が何かをべつのように思い直したのであれば、遠慮なく思い直すのが良いと思う。
そういう意見の変更が可能な環境が守られるべきだと思う。社会の意見よりも個人の意見のほうが小回りがきく。問題の解決のために余計な衝突や摩擦を避けるためには、そういった小回りの良さを見逃すべきではない。
ある特定の言葉を使うと、対抗するイデオロギーがぶつかってきそうになる。そういった事態は避けたい。また、そういった言葉で味方を増やしても仕方がないと思う。イデオロギー対立をしたいわけではない。私という個人は、イデオロギー対立をのぞまない。なんだか勝ち目が薄そうな気がするし(「味方」の人たちはだからこそ結束しなければならないというだろう)、対決になった時点で、意見の変更ができる環境が失われるからだ。
私のような考え方がもし多数になれば、社会はうまく立ちいかなくなるかもしれないが、もしそうなったとしても、社会がうまく立ちいかなくなる要因がそれだけということはないはずだ。それに、社会としてはAと考え、個人としてはべつのように考えるということは可能である。いやしくも意見である以上、社会の意見と個人の意見が一致している必要はない。
個人は、衝突や摩擦を避けて賢く生きなければならない。
選べるものが少なくなっていくのなら、それに対応して、そのなかでマシだと思える選択をしなければならない。
問題はあるが、それに引き摺られてはならない。問題の近くにいる人がそこから離れていられる環境を用意しなければならない。問題を含む環境づくりを推進しようとする個人にむかって、本当のところこのやり方は良くないかもしれない、ひょっとしたらべつのやり方があるのかもしれないと思わせるように誘わなければならない。
そのためには、真剣に問題に向き合うのではなく、問題と十分な距離を取ることが必要だ。社会は問題に向き合い、問題に取り組まなければならない。そして個人は、問題を横目に見つつ、自身の周囲にある素晴らしい毎日を謳歌しなければならない。
そんな環境では満足できないという嘘つきにも、それでは謳歌できないという弱虫にもなるべきではない。立派な成功例となって、言葉ではなく態度で、自らの優位性を示すべきだ。相手から自らの側を擁護するにはそれしか方法がないというのが今の私の意見だ。

20220927

日記38

日中は少し暑いが、カラッとしていて、ものすごく天気のいい日だった。部屋に置かれたモンステラも、ベランダに干した洗濯物も、それぞれ太陽の光を思うさま吸収していい香りを放った。
15分間で時間を切ってメモ書きをする試みをNoteで始めた。書く文章の分量に重きを置くためには、書くための場所も複数用意するのが理にかなっているはずだと思う。
バックアップツールVeeamのマニュアルを読む。大した複雑さも持っていないソフトを複雑に見せようと苦心しているように見える。自分がちゃんと理解できないのをツールのせいにしているのも半分あるが。
源氏物語を読む。紅葉賀。頭中将とやり合う場面があって面白い。藤壺がつらそうにしていてかわいそうなのに、あいかわらず光氏は自分の恋心に苦しめられていて能天気なようにみえ、たしかに太陽のようだと思う。かなわぬ恋に苦しめられるを存分にやっている。

239p
光君が何か一言でもかけようものなら、なびかない女はまずいない。だから光君はそうしたことがおもしろくも思えず、色恋沙汰は起こしていないようだった。


これは心理学に落として言えばまさに「カリギュラ効果」だろう。高貴な身分の人間には珍しくもない心理。

太陽といえば加山雄三が思い浮かぶ。紅潮した頬と朗らかな笑顔。

21時からサッカーを見るためにワインのお誘いを諦める。開催時期もあってあんまり盛り上がりそうもないワールドカップを盛り上げるのは自分自身の心がけしかない。そのために必要な強化試合だ。

20220924

頭と感覚の乖離

頭で考えることと感覚的に思うことのあいだに乖離が見られる。

両者は、向こう側が見えないほど離れているわけではないが、簡単に行き来ができるほど近いわけでもない、

と言いたいところだが、乖離とは言っても実際に離れているのはほんの少しの距離でしかなく、余裕で行き来ができるほど近く、何だったら一見して区別がつかないほどぴったりくっついていると言える。しかし、仔細に見れば噛み合わせが合わない。すこしズラしてみたところで噛み合うことはないとはっきりわかるほどには確かな隔たりがある。ここで言う乖離とは大体そのようなものだ。

そして、頭で考えることと感覚的に思うことについて、前者は論理的に考えると言い換えられる。だが、傍から見てあまり論理的だとは言えなくても自分では頭で考えているつもりになっているということもあり得るし、そういった自己認識も含めたある程度広い意味において、それを頭で考えていると言い表したい。それは感覚的に思うということに対置する、主観に欠ける思考のことだ。主観に欠ける思考というのは、わたしが感覚的に思ったまま言い表したものであり、実際にどこかの頭の中にある(と考えられる)論理的思考には「この思考には主観が欠けている」という認識はないかもしれない(し、あるかもしれない)。とにかく、一方からは、主観的なものと感覚的ではなく没主観的なものとしてそれらは区分けされ、もう一方からは論理的なものと非論理的なものとして区分されたりするものだ。

以上のことは、感覚的な思考/論理的な思考という二分法で捉えることができる。

そして、上のような大雑把な区分に従うと、書かれた言葉というのは頭で考えたことの表出ということになる。そのため、誰かによって書かれた文章を読むとき、「頭ではわかるんだけど感覚的に腑に落ちない」という反応が生じるのは当然のことだといえる。それがある程度以上に複雑な問題であればなおさら、どれだけ出来の良い文章に対してさえ違和感は発生する。感覚的な思考は、自身以外の思考を排他的に扱う。ある程度以上に進展した思考に対して、感覚的思考は、「わからない」という感覚を引き起こす。しかし、「わからない」という感覚を言葉で表わすとき、素直に「わからない」と表現されることは稀である。立場や思想がある人は、それを「おかしい」と言ったり「間違っている」と言ったりする。慎ましやかで穏当な言葉遣いをする人であれば「違和感がある」と言うかもしれない。違和感がある。便利な表現である。感覚に有利な言葉遣いである。

そして、自分自身の感覚に忠実であろうという傾向を持っている場合、忠実であろうとするほど違和感は大きくなっていく。いや、違和感が大きくなるというより、違和感自体は頭側の努力によって小さくなっていくのだが、それに反してその存在感は膨らんでいく。誤ってシャツにつけた小さなシミがどうしても気にかかるように、小さな違和感がどうしても気になるという状況へと落ち込んでいくのだ。

  • 複雑なものへのアプローチにおいて感覚を捨てまいとすること、どんな状況下でも感覚的な受容を経ようとすることは、感覚への忠誠心を100に近づけようとすることだ。平時にインタビューすることは忠誠心の高さを量る役に立たない。かなり分の悪い状況下でも自分のやり方を捨てないかどうかで忠誠心の高さは量れる。


複雑なものを複雑なままに取り扱おうとするのは、頭よりも感覚の領分であると考えられる。頭で考えるというのは、全体を取り扱うことが可能なサイズに切り分けたり、切り分けた部分を操作することである。感覚的に思うということは、対象の複雑さによらず、ただ思うということで、分類したり区分けしたり対象に働きかけたりすることなく、全体があればそれを全体のまま受容する。

感覚によって全体を捉えるのは操作するのを諦めていることだ。事象について反応を返すということはあっても、それ以上のことを起こそうとはしない。逆に言うと操作するつもりで感覚によって全体を捉えるということはできない。

そうは言っても、諦めるにしても働きかけないにしても、そういった傾向があるぐらいのもので、それらが徹底されるということはない。頭で考える場合とは違って、ある傾向を伸長して徹底させるということは感覚には不向きである。そして感覚的思考におけるある傾向を伸長させるということ自体、矛盾とは言わないまでも無理がある。意図して伸ばした部分は取ってつけた部品のようなもので、その部品は頭で考えたことの産物であるため、最後のところで感覚にはなじまない。


感覚的に思うということの内側にとどまっているかぎり、そこにあるのとはべつの思考に対する違和感は無くならない。さらに、いちど得た違和感は制限なく膨らませることができる。おかしいのではないか、なにかがおかしいという思考にとどまって、どこがどうおかしいのか、何がおかしいのかということへ進展せず、違和感をただ違和感として表明し続けることができる。理路整然とも思える営業を数時間にわたり受け続けて、それでも何かがおかしいと直感が働くように、頭で考えられたことに対する違和感はどこまでも機能する。これはひょっとすると安全ではないのではないかという本能に基づく拒否感もあれば、それまでに培った習慣的思考や姿勢によって違うと判断することであるかもしれない。NOへといたる経路は複数あり、客観的にはそのうちのどれかが原因とみなされることになるが、感覚的に思うことにおいては、そのどれかを選ぶことはもちろん、理由1、理由2と区分けすることもできない。そういう状況についてそのまま言い表そうとするなら、違和感があるということになる。どこに?と訊かれても、それはわからない。ただ、どこか違和感がある。

それとは反対に、感覚的にわかるということもある。わかると思うときに、まるで頭を通していないかのように、書いてあること・言われたことがわかると思うようなことがある。講演会に出かけて、2,3時間のあいだひたすら頷きを誘発された挙げ句、帰ってから講演会の内容を訊ねられるとほとんど何も答えられないということがあるように、わかるということが、その場かぎりの反射反応にすぎず、他人が自信ありげに理路を辿っていっているのを見てなんだか快く思うだけのことが、無性にわかると思われるということがある。わたしが小説を読んで面白いと思うのは、この手のわかるという感覚によるところが大きい。新たにわからされたことや、わかるの確認や再確認がもしなかったとすれば、小説を読む動機はないとさえ思われる。そして、このときのわかるというのは厳密な意味での理解というよりは感覚的なものである必要がある。それらは両立し、どちらも欠けていないほうが望ましいものだと考えられるが、それでもどちらかを選べと言われれば迷う余地なく感覚的なほうを選ばねばならない。

感覚的にわかるということ抜きに、理解だけのために小説を読むことはできない。小説にかぎらず、あらゆるものを受容する際に同様だ。


何かを否定したり拒否したりするときには、その理由であったり、個人的なものであってもその経緯を説明できなければならない。もしそれができないと、他人からは、控えめに言っても、フェアではないと思われる。とはいえ、いついかなる状況下でもわれわれはフェアでいなければならないというルールは存在しないので、個人的な事柄については、私たちは諾否の判断を自らの手のうちに持っているし、その判断次第で身勝手なやつだと糾弾されたりしないで済むケースがほとんどだ。他人との利害関係が生じる判断はそのかぎりではないかもしれないが、われわれが日常で直面する判断のうち、少なく見積もっても半分以上は、そういった利害とは無縁の、より些細で重要な判断である。

誰かにいちいち説明したりしないけれど、その場その場でたしかに発生している判断で日常は埋め尽くされている。それら日常の判断と公的に何かを言うことのあいだには乖離がある。もっと言えば(感覚的に言う割合を強めて言えば)、そこには乖離がなくてはならない。

これを反対側から言うと、公的な言動について、感覚的なものだけに終止して許されるということはありえない。たとえば誰かの何かの言動に対して否定なリアクションをするとき、違和感があるとだけ言って済ましているわけにはいかない。

もちろん、何かを言っている気になるために、当たり障りなく言うつもりで「違和感がある」と言うにとどめることは可能である。しかし、その意見の表明には、当人には考えつかない「返り」がある。ひとつは発言力が弱まるというもので、本人以外の他人からすれば、そういう意見に聞くべきところが少ないのは明らかであるだろう。もうひとつは感覚が鈍るというもので、こちらのほうが深刻な影響があると考えられる。感覚的な思考というのは、それを作り出し、それの内側にいる当人の中では最強のものである。あまりにも感覚に従った言葉遣いをすることは、感覚自身にとって危険である。感覚的思考は「それでよし」とするところで終了する思考である。どれだけ回り道したり迂回ルートを通ったとしても、最終的には「よし」へと至るほかない。だったら余計な手数をかけずに最短コースをとればいいのではないかというのはもっともで、それなりに論理的な考え方だが、じつはそれは正しくない。なぜなら感覚は走らなければならないからだ。感覚が感覚として機能するために、感覚は走らなければならない。身体がじっとしていても、精神的に落ち着いていても、感覚が何かを見つけたときには、そこに向かって走らなければならない。感覚が何かの対象に向けて走ることを指して、感覚すると表現することができる。すべての実務において有効な「効率的ショートカット」は、感覚を走らせるためには有効とはならない。RPGをやっているとどこかのタイミングで「ファストトラベル」の能力が手に入ることがあるが、それは煩わしい移動を省略できているようでいて、実際にはゲームの作業的側面を亢進させることになってしまうように、ある刺激を効率よく受けたいがために、簡便なシステムを作成しそのとおりに動くというのは、それによって得られる刺激を最大化するかもしれないが、感覚を最大化することにはならない。むしろかなり大きく損ねてしまうのではないかとも考えられる。誰かに向けて「違和感がある」と言うことは、本人の中では言ってやったという感じが強くするものだ。そう言い放ったところで、まったく足を上げていないため、言い返される余地もないかのように思える。しかし、対社会的にも、本人が思うより無視されている(無視されていく)ことは間違いない。そのうえ、さらに悪いことには、感覚が感覚として機能するための足場が用意されず、感覚を走らせないで放置することにつながる。私たちが楽しいという感覚を味わうためには、しかるべき条件を整えなければならない。それなのに、記憶をたよりに行動をパターン化してしまったり、簡単な方法ばかりを取って最適化を極めてしまうというのは、感覚を得ているようでいて実際には損ねていることに直結している。上り坂があったり、障害物の岩が立ちふさがったり、飛び越えられないほどの谷に道を阻まれたりしないということは、感覚を走らせないで囲い込むようなものである。そこまで極端な例を挙げないでも、しかるべき距離を用意してあげないまま安易に感覚を喜ばせてばかりいると、外側にあるすべてが対象外となってしまうおそれがある。実際にはすべてが対象であるべきという感覚だけが持つ傲岸不遜さ、最強であることに由来する傲慢さこそが感覚的思考の本領だというのに。



日記37

昨日
雑司が谷まで室内楽を聴きに行く。墓参り以外の理由で雑司が谷に行ったのは初めてという気がするけど、以前にも墓参り以外の理由で雑司が谷に行ったのは初めてだと思ったことがあったような気もする。思っていたよりもたっぷり演奏時間があり、ちゃんと昼飯を食べていかなかったせいもあり、最後の方は空腹でへろへろになる。寝不足ではなかったからつよい睡魔には襲われなかったのは良かった点。今後も聴くことがないような曲を聞けたのがよかった。とくにアゲイの『5つのやさしいダンス』が明るくてよかった。終演後、副都心線で原宿まで行って、比較的安定感のありそうなケバブ屋でケバブとビールを腹に入れる。食ってすぐどこにも寄らずに下北まで移動。リサイクル家具屋をチラ見してから、本降りの合間を縫って帰宅する。ドミニオン対戦をやって(1勝2敗)、お好み焼きを食べて寝る。作りたての温かいご飯は美味しい。

20220922

日記36

過日
チームラボを見るため豊洲に行った。美術館のようなアトラクションで、小さい頃にデパート屋上のボールプールに喜んで放り込まれ、飽きることなく遊びまくったのを思い出した。
やっぱり最初の水の衝撃が一番すごくてそれ以降はふんふんという感じ。テンションが上がっている人たちをところどころで見るのが面白かった。あとはでっかいボールを押すことで発生する意図するのと意図せざるのとが半々ぐらいずつ分有されたコミュニケーション。

新しい勤務先が豊洲になった。業務用PCを受け取りに初日だけ出社。2日在宅勤務をしてすぐ連休入り。半年のブランクにとって慣らし運転にもってこいの一週間だった。それにしても前回の連休につづき、今回の連休にもべつの台風が来るということで呆れる。夏休み中の大学生じゃあるまいしカレンダーを見て動いてほしい。
ここには都合二ヶ月しかいなかったので一年後の今はもうとっくに退社して、一緒に働いていろいろ教えてくれた人の名前も顔も思い出せない。このときに支給されたPCはべつの誰かが使っているのだろうが、その人は一体どんな人なんだろう。しかし、貸与されるPCは場所を移るごとにボロっちくなっている。

源氏物語は若紫を読み終えたところ。つまらない揶揄などしたくないが、光源氏は恋の憂さをべつの恋で晴らそうとする。あくまで自然にそうなるんだろうとは思うが、やっぱり「なんで?」と疑問を抱いてしまう。自分が純愛イデオロギーに肩まで浸かっていることを思い知らされる。価値観のちがいは大きいが、置かれた状況には共通点もある。身の回りに血生臭さがなく平和だということ。彼らはとても条件の良い環境に置かれているが、環境からもたらされる特有の心情を余さず表現しようとしている。享受したものについて表現したいという欲求がある。その欲求は虚構世界ということを抜きにしても自然に思える。
この考え方はずっと変わらない。三つ子の魂百までと言うが、そこまで極端ではないにしても、思春期の恋愛経験はその後の恋愛観のかなり多くを規定するにちがいない。まだ恋愛なんかしなかったケースのほうが、のちのち凝り固まった考えにならないで済むのだと思う。べつにそうだったら良かったとは思わないし、何だったらこれで良い、これじゃないと駄目だと思う。こういうふうに言うと強がりめくような気がするのはやっぱり僻みなんだろうか。

20220914

『源氏物語』の分岐点

源氏物語 149p

ということは、あの女童は、兵部卿宮は藤壺の兄、なるほどだからあのお方に似ているのかと思い、なおいっそう心惹かれ、我がものにしたいと思う。人柄も気品があってかわいらしいし、なまじっかの小賢しさもないようだし、親しくともに暮らして、思いのままに教育して成長を見守りたい。


源氏物語(角田光代訳)を読んでいると、上のような一節に突き当たった。昨今の高い衛生観念が反映された物語にばかり親しんでいると、主人公がいまの時代から見てあきらかに非常識なことを言うのが気になる。創作物に対する「正しさ」の観念について、私は、寛容というか気にならない方だと自認していたのだが、どうやらそれにも限界があるらしい。しかも自分自身で思うよりずっと近く、すぐ近くに天井があったようだ。

しかし、源氏物語の主人公である光源氏は、自らの希望が他人からすれば非常識と受け取られることを自覚しており、上の願望を女童の近親者である僧都に伝えるにあたり、私のこの申し出が通り一遍のものと受け取られると間の悪い思いをさせられることになりますが……などと付け加えることを忘れない。これは要するに、自分の申し出はあくまで特別のものであって、そこらへんの有象無象どもの願望などとはいっしょにしてくれるなと申し添えているのである。

ここで特別のものであるというその根拠は自らの高貴な生まれにあると、他人はそう解釈することを光源氏は理解している。それを理解したうえで、そこらの有象無象どもといっしょにしてくれるなと言うとき、彼は自らの想いが凡百のものではないと主張しているのだ。つまり、ここには例外的な想いがあるのだと、自らを取り巻く環境を利用しつつ、自分が置かれたシチュエーションのなかで堂々と言い切っているのだ。

他人の判断の根拠が自分自身がそう捉えている根拠と同じであろうとなかろうと、光源氏は気にしない。答えは自分の胸のうちにあればそれでたくさんだと言わんばかりの、ある種傲慢なこの主張は、小賢しいというには大胆にすぎるし、豪胆というには理が勝ちすぎる。

中庸といえば聞こえは良いが、つねにほどほどのところをわきまえ、自分が望むものにむけて最短距離で進むことを許された男の恋物語が面白いわけがない。他に面白い物語がない社会にあっては面白く読まれもするのだろうが、幸運なことに現代はそんな時代ではない。むしろ物語はありふれ、あふれるほど量産されている。物語があふれた現代において、源氏物語が今なお読まれるとすれば、ある社会、ある環境におかれた個人が、何をどのように求めるのかという、思考実験的な側面があること、さらにはそこに現代に通じるリアリティが見られることに依るだろう。

時代精神という言葉があるとおり、個人が考えることの大部分は、自らが所属している社会に規定される。どれだけ社会の意見から距離を取ろうと意識したところで、つい同じ言葉遣いをしてしまったり、自分の意見というものが(趨勢へのアゲインストであれ、諦観の末の判断であれ、)社会の意見に包摂されていることに気がつくだろう。自己内で完結する自己対話においてさえ、社会の考えが内在化されていないということはありえない。極端な単純化によってピントが合わず、ということはあっても、まるごと無視して済ませるということはできないのである。

だから、他人は(あるいは社会は)こう思うだろう、自分の言葉を自分の意図とは違うように受け止めるだろうと知りつつも、それに引き摺られることなく、自分が思うことを言い、それによってできるかぎり自分の望みをかなえようとするのは、個人にとって欠かせない必要な手管である。そして、その必要を満たすために、他人の自分とはちがっている見解を利用するのは自然なことだといって問題ないように思われる。

問題は、その見解の違いをどこまで許容するのかというところにあるだろう。それこそ、光源氏が我がものにしたいと心の底から求める相手は、必然的に、光源氏の想いを思い違いして受け止めることになる。光源氏から見てどれだけものの分かった相手であろうと、どれほど完璧に相手を教化しようと、このすれ違いだけは避けられない。そこで、ならば仕方ない、それでよしとするほかないと考えるほど、光源氏がものの分かった男であるのか、そうではないのかというところに、ひとつの分岐点がある。

この分岐を右に行くのか左に行くのか。それが問題だ。あるいは、いつか通り過ぎてきた分岐において、左に行ったのだったか、右に行ったのだったか。また同様に、そこに見えているすぐ先の分岐について、左に行こうとしているのか右に行こうと考えているのか。

いずれにせよ、そんな分岐など存在しないとは言えない。しいてそう言おうとするのはあたかも、個人も社会もありませんと強弁するようなもので、私と社会のあいだに区分など存在しないと言うも同然だ。一切の区分をしりぞける一種の気分を用いるような場合であっても、私と自然のあいだにと言うべきであるように思う。

しかしながら、光源氏に今言った分岐など存在していないという可能性もある。他人の解釈など考慮に入れていないという可能性である。たしかに光源氏はたびたび、人に悪しざまに思われたらどうしようと不安になったりするが、そんなときの光源氏は他人のことを考えていると思われない。われわれが外聞の悪さを恥じるとき、必ずしも外に目が向いているとは限らず、むしろ自分の内側に埋め込まれた社会の意見にとらわれていることが多いのと同じだ。彼はそういう罪のない単純さを持っているようでもあるし、自分が足を置いているところとは別の水準でものを考えられるようでもある。この二面性は特別のもので、時々に応じた好意的な解釈を招き寄せる特性を持っているようだ。

自分がもし光源氏であればどうするか考えようとするのは必要な手順だろう。その手順において、彼が行なったような不義は絶対に行わないと思う自分がいるとするなら、それは自分がもし光源氏であればという仮定が徹底されていないのを示すにすぎない。光源氏の立場に立って、これまで通りの自我が成立するなどということはまずありえない。その圧倒的な状況によって当たり前のようにほとんどすべてが押し流されるに違いない。それでもなお残るこの私の自我があるとすれば、それは分岐が起点となる。相手が私の想いを私の想いとして受け止めてくれるかどうか。その問題だけは解決されないで残るからである。

20220908

日記35

昨日
演劇を見るために池袋に行く。それなりにつよい雨が降っていたのでびしょ濡れになるし、地下通路は湿気と熱気でむわっとしていて不快感がつよく、普段よりも疲れてしまった。サイゼリヤで腹ごしらえをしてから、途中強すぎる降雨のタイミングで二度ほど雨宿りをしつつ会場に向かう。
演劇は『解除』という題の会話劇で、食肉の慣習が培養肉中心に変化した近未来の話。クリーンミートからの連想で、従来の家畜の肉を「ダーティミート」「ガチ肉」と名付けていたのが面白かった。才気走っている印象がまずあって、若干の反感を覚えないでもなかったが、演者のクオリティが男性俳優中心に高いこともあり十分見られた。これだけのものをパッと書き上げられる技巧に感心する。一方で、言葉遣いは軽薄に見えるのを気にしないほど’素直’、説明もかっちり、しっかり目。客に対する親切心の篤さ(=信用のなさ)が感じられ、ストライクからはやや外れた劇だった。演劇としてよくできていると感じさせられる部分がそのまま演劇的でつまらないと感じる部分に重なっていて、いわゆる”演劇”は自分の好みではないのかもしれないと思わされる演劇だった。
終わってから雨の池袋を歩き回る。悪天候にもかかわらず客引き・キャッチの類が頑張っていた。今どき東京ではめずらしいほどまじめで熱心な歓楽街だ。酒屋で角打ち。二杯だけ飲んで帰る。

今日
朝から三鷹で用事。まっすぐ三鷹まで行って、まっすぐ帰ってくる。吉祥寺にも寄らず。下北沢のスタバでちょっと源氏物語を読んだりなんだりする。帚木を読み終わったところ。光源氏のややひどいエピソードにちょっと面食らう。人の妻を抱えて無理やり自分の寝所に連れ込み、拒まれると、こんなに想っているのにつれなくするなんてひどいではありませんかと批難がましいことを言うのはものすごい。手前勝手の極み。
しかし、光氏はひとりでルールに抗っているのだとなんとか好意的な解釈をしてみる。そうすると、主観主義者として立派なようにも思えてくる。とにかく相手の気持ちがこちらに向くかどうかのシンプルな勝負を仕掛けているのだ。そこには「いいえ」がなければ勝負にならないという考えがあると思う。「はい」はおろか「どちらともいえない」でさえ勝負にならないだろう。光源氏の場合は。
『源氏物語』は光源氏の場合の物語だと受け止めなければならない。「一般的に」とか「普通は」とかいうのはお呼びでないのだ。光源氏には反感を覚えながらも、こういう潔さについては快く思う。そもそもどれだけ不快に思おうとも「一般的な意見」では勝ち目がないのだから、一旦は快いところを快く思い、お茶を濁しておくのが無難だろう。

20220905

日記34

9月に入って気温が落ち着き始めた。日中は暑い日もあったが、8月のような天井知らずでどこまでも上昇していくのではないかと思わせる猛烈さは鳴りを潜め、夕方になると涼しさを感じることも多くなった。
8月末のある日、ケバブをはじめて食べた。場所は目黒の家具通りの店。ケバブ愛好家お墨付き、当たりのケバブショップらしく、私はケバブ運が良いのだと思った。家具通りを一通り回って、家具を買わずに絵を買った。落ち着いた色で抽象画のように見える。キャンバスに油彩で、よく読めないもののサインまでしてある。平面芸術の絵というより、「絵画」という題のオブジェとして部屋に置いてみたくなった。そこから何らかのインスピレーションを引き出せればと思って。
その後、「絵画」は部屋から廊下へと移籍していった。のびのびとプレーしてくれればそれにまさる喜びはない。
新橋の演舞場でスーパー歌舞伎を見た。舞台芸術のひとつの先端に触れたのは間違いなさそうだが、辺縁の色合いが濃く、「傾く」をお題目として唱えている感があった。何でもありなのであれば何でもやればよく、何でもありだと殊更に嘯くのは自信のなさの現れに見える。子供だましとまでは言わないが、文化的観光客向けのライトなメニューだと感じた。シネマ歌舞伎の「阿弖流為」の方が筋も面白く、必然的に舞台も映える。どちらか一方では片手落ちになるという当然のことを確認した。
役者を見せるための舞台というのもあり得るとは思うが、その役者が初音ミクで個人的にあまり興味引かれなかったことも大きい。
『NOPE』が面白かった。映画の形式を使った映像体験の提供という側面がつよく、IMAXレーザーがあってこそという感触があった。『DUNE』のときにも感じたことだが、話の筋は「圧倒的な映像と音響」によってはるか後景にしりぞいてしまう。筋が面白くないわけではないが、優先順位がはっきりしているとは思う。舞台芸術は、壮麗華美を盛り盛りにする方向では映画には決してかなわない。どころか相手にもならない。ハード面で音響に差がありすぎる。演劇はおそらく筋で勝負するしかない。
「静かさ」という逆方向の効果を生み出せるという点で、音響の観点でも戦えるかもしれないという思いつきがきた。
源氏物語を読み始める。高校生の頃におぼえた反感は今も現役だが、蓋をするということをようやく覚えたので、とりあえず読み始めた。蓋をしたままでは感じないのではないかという懸念があるのでどうなるかわからないが、「帚木」に入ってかすかに滑稽味を感じたのでこの後はもう大丈夫だという気がする。もうひとつの目的、言葉狩りもあるので気負わずにつらつらと読み進めたい。
結局、光源氏が死んでしまってから読むのを止めてしまった。いつか思い出したいときにでもつづきを読もうと思う。
日が落ちて涼しくなったので、これから代官山のブルワリーまでリアルゴールドを味見しにいく。
今でも麒麟(キリン)の春谷(スプリングバレー)は最高(ベスト)の麦酒(ビール)だ。白も良いが赤が好き。

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