通常の会話や対話であれば得意とは言わないまでも苦手ではない。
しかし、こちらが低い椅子に座り、向こうが高い椅子に座っている状態での対話、あるいは、こちらがひとりで向こうが多勢での話し合いとなると苦手だ。反対に、こちらが高い椅子で向こうが低い椅子、あるいはこちらが多勢で向こうが無勢での対話であれば苦手とは思わない。要するに自分が下風に立っている状況下での会話というものに苦手意識を持っているという話だ。
おそらく最初は誰だってそうで、プレッシャーに晒される経験をしつつ、ちょっとずつ面の皮を厚くしていくのだろう。自分はそういう経験を避けてきたからいつまでも(いまだに)苦手なままだ。とはいえ年齢を35まで重ねると、望んだわけでもないのに面の皮だけはきっちり厚くなっているようだ。実際にテーブルについて話すことはないと分かっているときには、種々様々な多くのことについて全然屁とも思わない。かくして、順境では不遜、逆境にはとことん弱いという残念なメンタリティが醸成されていく。さらに恐ろしいことには、まあそんなものだろうという開き直りが今までよりもスムーズに展開できるようになっている。伊達に35年間生きてはいない。
しかし、実際困るのは、面接面談の機会が自分の生活から消滅しないことである。
この前も、面談の必要があって、面談を行なった。近頃の面談は対面式ではなくインターネットを通したリモートでの遠隔式が多く行われ、今回行なった面談も遠隔式であった。画面越しのやり取りとなるリモート面談では、体感で五割ほど緊張が緩和される。仔細に見れば、ピーク時の緊張はほとんど従来どおりなのだが、その時間は短い。また、対面式に起こりうる「緊張の助走」がないことで、ピークそのものも下降傾向にあるといえるかもしれない。
こういった追い風を背にして、いまだに緊張するのはなぜなのか。なぜなのかと問いかけながらそれを解き明かす気持ちはまるでないのだが、何かがおかしい、おかしいはずだという確信めいた思いがある。ただ、それをつかんで観察しようという気が起きずに、いつまでも恐怖心相当の扱いをするのが常である。喉元過ぎれば熱さを忘れる式の知恵が充分に発達しているため、やおら持ち直しては、すぐ寝て忘れてしまう。この痛い経験を反省材料として次に活かすということがない。
それでも「成長」したなと自分事ながら思うのは、面談に際して事前に準備をするようになったことだ。20代のときには面談が嫌すぎて、将来確実に起きる面談という事実をできるかぎり無いものとして過ごそうと決意していた。ああ言えばこう言うという想定問答も独り相撲じみて馬鹿らしいと思っていたし、嫌な出来事にかける時間は少なければ少ないほど良いという信念があった。将来確実に起こることであっても、今この時点では起きていないわけだし、気を紛らわすための方策はいくらでもあると思っていた。そして、気を紛らわすことは実際にできた。その時から好きなお酒はあったし、良い友人たちもいたからだ。
今は楽しいとき以外のお酒を飲まないようにしている。そして気のおけない友人の数はがくんと減った。だから、面談を明日に控えた夜などには、考えたくない面談のことなんかをつい考えてしまう。それでもできるだけ考えたくないと考え、さして見たくもない動画を見るのだけれど、さして見たくもない動画なだけあって集中して見ることにもならず、ややもするとまた明日のことを考えてしまう……。
ただ、何度も緊張していると緊張にも特徴があることがだんだんわかってくる。そのひとつに、自分より緊張しているように見える人がいると緊張が和らぐというものがある。受け答えができていない人がいて、自分はそれよりはマシだと思えると、驚くほど気が楽になる。覚えのある人もいるだろう。
その日、囲碁の最年少プロが誕生したというニュースが流れてきた。電話でその話を何気なくすると、受話口から「そのニュース知ってる。記者会見でぜんぜん喋れていなかった。小学3年生だとちょうど喋れる子と喋れない子で二分される時期だね」という情報が漏れてきた。自分は通話を切るとそのまま記者会見の動画を検索して、10分31秒ある長めのダイジェスト版の動画を見た。考えないでも答えられるような簡単な質問にもたっぷり時間をかけ、ほとんどマイクでも拾えないほどのか細い声で短い返事をするだけの動画だったが、そのときに自分が見たかったものがまさにそれだった。
今回の面談は、小学3年生の最年少囲碁棋士のおかげもあり、おもに精神面で入念な準備ができた。見も知らない人から良い影響を受けられること、見も知らない人に思いがけず勇気を与えることもあること、この世界では他人に影響を与えあって生きていけるということは、それだけで素晴らしいことだ。人のふり見て我がふり直せというときの「人」というのは、必ずしもネガティブな役回りだけを含意するとは思われない。この言葉における人と我というのは、人同士のつながりにおけるバリエーション(多様性)のひとつであり、今回の件で自分はその紐帯をたしかに実感した。
しかし、いくら精神面では万全だと思っていても、面談で言うことがはっきりしていなければ、その付け焼き刃は脆くも剥がれ落ちる。つぎは精神面の準備とあわせて、それ以外の準備もやってみようかという気になった。