20220813

海の思い出

東京に住み始めたのは秋だった。それから季節が三回めぐり、夏がくるたび気持ちは自然と海に向いた。海なし県で生まれ育ったから、今でも海を見るとテンションが上がる。小田急線一本で江ノ島に行けるというアクセスの良さは、それまでにはなかった海との距離感だ。自宅アパートからはじめて海を見に行ったとき、これはいい、毎週海に行こうなどと思ったものだ。
実際の頻度は年に2,3回というところに落ち着いたのだが、それでも行こうと思えば行ける距離に海があるという感覚はこれまでにはない解放感を夏にもたらした。水道水の蛇口の横にビールサーバーのコックを附設したとは言わないまでも、それに近いブレイクスルーが生活に導入された感があった。
海は見て良い。水平線の単純さと波のかたちの複雑さを交互に見ていればそれだけで満足できる。水平線は心に思い浮かべやすいから、本物を見ないでも満足できそうなものだが、視界に入り切らない水平線を目の前に配置すると、そこにはやはり写真で見るのとは違った感覚が入り込む。逆にいえば、青色が視界を埋め尽くすときの強い印象を抜きに「海を見た」とは言いづらい。
そして波は単調さが良い。ちがう形のバリエーションを何度も繰り返す。ひとかたまりの水が順に押し寄せてきてしかも尽きることのないという感触が、ある種の催眠状態へと誘いこむ。いろいろのことは終わるし、いろいろの中には私を取り巻くすべてが含まれているから、余計な気をもむ必要はないと思わせておきながら、同時に、延々と続く単調なリズムは「終わらない」というメッセージをも発信していて、終わったとしてもべつに終わったりはしないんじゃないかという、言葉にしてみると奇妙な、おかしな気分を持ってくる。
砂浜に寝転がって目を閉じればわかることだが、波の音というのは思っていたよりずっと大きい。海は聞いて良い。
海はひとりで行っても、友達と行っても楽しいが、ひとりで行くほうが海が持ってくる感覚に集中しやすい。ひとりと行くときと誰かと行くときにはコンサートと音楽バーぐらいの違いがある。友達や恋人と行く場合、海は贅沢なBGMやとっておきの背景になる。

この夏、友人と海に入った。私から見ると彼は、海そのものというより海という概念に興味があるように見える。「夏、海に行った」という事実を得たいだけ、と言うのは言い過ぎかもしれないが、絵日記の宿題のためにそれをやらないといけないと思っていて、しかも絵日記を書かないままでいるのが彼だ。そして十中八九言い過ぎではない。砂浜の感触、波のかたちといった海浜で生じる具体的な現象に注意を払っている様子はない。夏だから「海に行く」をしたいという骨筋張った経験主義者に見える。たとえば、私が黙って海を見て楽しもうとしても、いつもの日常の話、電車で1時間半かけて来た場所でいちいちしないでもいいような話をしかけてくる。とりわけ閉口するのは、つまらない質問を次から次にしかけてくることだ。頭を一切使わない発話として質問をされると、こちらでその答えを持っていない場合には、自分の中で展開している思考を止めて、その質問のことを考えなければならなくなる。そもそも「自分の中で展開している思考」などといっても、取り出してみれば海を見て浮かんでくるとりとめもない感想の類でしかないから、取り出して「話題」にするには弱い。だから黙って海を見ているのだ。ただ話題としては弱くても、インナーワールドでは重要なことでもあり、海という特殊な環境ががもたらした感想だから大事にもしたいのだが、それを中断させてくる。たんに無視して済ませるのもむずかしいから、つい釣りこまれて「このあたりを歩いている人は年収いくらぐらいだろうか」とか「土産物屋で浮き輪を買ったらいくらになるだろうか」「ドンキで買ったらいくらぐらい安くなるだろうか」といった話に付き合わされることになる。そういう質問につきあわされていると、この人には海を見て思い浮かべることが何もないのだと判断して問題ないだろう。
この友人とは大学来の付き合いだが、近頃はお金に関する話が増えている。思い返してみれば、当時からシビアな出金管理をしており、今にして思えば、心に占めるお金の割合が昔から多かったのだろうと推測されるが、その頃は私たちふたりとも全然お金がなかったから、お金の話をしようにも「どこどこの居酒屋が安い」とか「レンタルショップで100円セールがはじまった」とかそういう話にしかならなかった。今はアルバイトをしていない大学生よりは所持金が増えたこともあって、具体的なお金の話ができるようになったこともあって、面白くもないお金の話を毎度展開されるようになった。自分としては、お金は嫌いではないし、もしたくさんのお金を作れる身分であれば、お金の話も面白くなってくるのかもしれないが、そんな実績も展望もないのでお金の話は楽しくない。そんな実績も展望もない身空で、よくも得々と、飽きもせずにお金の話を続けられるものだと感心する。また、上記に付随して彼の口から「客として金を払っているのだからこういうことはやめてほしい/このぐらいはやってほしい」という大学時代には決して聞かなかった台詞が聞かれるようになった。これは切なくもある。
私は、わざわざ1時間半をかけて海に来てまでやるほど「お金の話」に興味を持てない。そして考えてみるとおそらく、彼もそこまでつよくお金の話に興味があるわけではないだろう。ただ、それ以外のことに興味を向けることができないだけなのだと思う。目の前に海があっても、概念としての「海」に用があるだけで、それを仔細に見つめてみるという発想もなく、海に行ったらやると決めていた「浮き輪で波に揺られる」を実行に移そうということ以上の思惑がないのだろう。だから、いわば退屈しのぎで頭に浮かんだことを考えなしに口に出し、それが正真正銘・真正直なだけに「このあたりを歩いている人はいくらぐらいの年収だろうか」という台詞となって飛び出してくることになるのだ。
しかし、そんな彼とても、七里ヶ浜のビーチに到着し、いつもより高く波打つ海を目の前にしては否応もなしに興味が海そのものに引きつけられた。それを証拠に、背負っていたリュックをブロック塀のところに放り出すが早いか、前々回の海水浴の反省として防水仕様に買い替えたスマートフォンを手に持ったまま海の中に踊りこんだ。くだらない会話内容に比べ、この反応はまったく正しい。海は入って良い。
この日の海はサーファーにとっては好適だろうと思われるやや荒れ模様の波で、太平洋を北上してくる台風のせいか、六波にひと波は首まで届くほどの高さの波がきていた。そして事件は起こった。
海に入って5分も立たないうちに、彼が不安げに「(水着の)ポケットからスマートフォンが落ちそう」と口走ったその次か、つぎの次の波に揉まれた直後、「スマホ落とした!」という叫び声が上がった。夢中になって足元を探すも、スマートフォンが見つかりそうな気配もなく、前かがみになって必死で探すうちにかけていたメガネまでもが波にさらわれていった。すべてはあっという間の出来事だった。それから小一時間、途中少しだけ雨も降る中、波に洗われながら、強い波で浜まで何度も押し戻されながら、極端に弱くなった視力で、足の感触なども駆使しつつ探したものの、結局、スマートフォンもメガネも見つからなかった。
ポケットから落としたスマホが流された瞬間から七里ヶ浜をあとにするまで、彼は諦めずに失くしたものを探し続けた。そのひたむきな姿を見て、私はひさしぶりに腰砕けになった。とくに、連鎖的にメガネを失くした瞬間には、身も世もないほど転げ回り、笑いすぎたせいなのか何故か背中が痛くなったほどだ。雨が降ってきて周囲の人影がそそくさとビーチから引き上げていくなか、雨など物ともせず遮二無二探し続けるその姿には鬼気迫るものが感じられたし、不可能を可能にしてみせるというミラクルメーカーの面持ちをその背中にみた。彼の背中は「見つかるに決まっているさ」と、常よりは言葉少なながらも雄弁に語っていた。
不可能を可能にするんだという心意気は、ときに誰かの心を打つ。波を全身で受け止めるという、海を相手にした極上の遊びをしていると見られたのか、砂浜を歩きすぎる二人組の女から「楽しそう、いいな」という詠嘆さえ引き出した。砂浜に寝転びながらその声を聞いていた私は、こみ上げてくる笑いをこみ上げるままに任せ、その余勢を借りて起き上がった。視界一面にグレーの水平線、そして、さっき見たのとまったく同じ場所で、正面切って波に立ち向かう小さな男の姿が目に飛び込んできた。賽の河原の石積みは、概念としては耐えがたい苦痛だが、誰かが実際にやっているのを見ると、それとはまた違う感慨がわくものだ。感心するというのもある。可笑しいのも当然ある。哀しいというのも含まれる。それらが渾然一体となって現実に具象している。あるいは、因果を入れ替えて、現実に具象しているから渾然一体となって感じられると言ってもいい。

水平線と小さな背中とが作り出す鮮やかなコントラストは、海だけではどうしても作り出せない、この夏特有の美しい景色だった。海にはほとんどすべてがあるが、ユーモアだけは足りていなかったんだなという発見があった。

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