20220802

日記32

昨日

引っ越し後の家が引越し前には想像できなかったほど快適でとても暮らしやすい。家賃5万円の最初の部屋からすると3倍以上の過ごしやすさは悠にある。ともすると受け取りきれないほどの満足感が実際に目の前にあり、この暮らしを噛み締めていなければもったいないという気がつよくする。この半年間で社会的なものもそうではないものもふくめ様々な事件があり、現実感が「希薄になる」というより「揺さぶられて輪郭が二重に見える」ようになったのだが、引っ越してからの生活は、そういった現実感覚のブレ・まとまりのなさの「仕上げのイチゴ」のように思われる。私の現実感覚は、私にとっての現実を反映したものに違いないが、現実と現実のイメージがこうまで乖離すると、現実というのは大体こういうものだとする自分の見識の乏しさが露呈したということになる。まあ私はもともと現実についてほぼ無定見にちかいというか、あんまり自信がない領域だというくらいの認識はあるのだが、それにしても全然駄目だったということが明らかになった。あるいは、よく言われるように「現実とは想像を超えるものだ」ということを示しているだけなのかもしれない。この齟齬について自分の方に原因があるとするのは、見る人が見ればそれだけで夜郎自大の気味があるともいえる。

東京に引っ越してきた直後にも現実感のなさはあった。旅行感覚が続いているような。しかし、旅行感覚は2年ぐらい経つと完全になくなった。それでも現実感のなさは続いている。最初の現実感のなさと別物になっているから、同じ現実感のなさとして処理するのが適当ではないけれど、現実はひとつしかないのだから現実感も正しいそれが一個あるだけというイメージに基づいて、それとの乖離感覚が継続している。大体このへんにあるにちがいないという見当をつけた場所を離れず、周囲をぐるぐる回っているだけ?

現実にも現実感にもそれなりに距離を置いている感じで冷淡に接している気がしているが、「現実感のなさ」という観念については好物と言っていい。

小説『ゴジラSP』を読み終わった。アニメの補完になっているのは脇にいる人物の語りで、そこがとくに面白かった。読んでいると、ある登場人物について、当人のポジション・視野からきちんと考えていてしかも賢いと思わされることがあった。皆それぞれ自分自身の限界を把握したうえで発言したり行動したりしている。ナラタケシリーズ・特異点の語りについては”SF的想像力”の駆使というか、ラボ環境での操作という感じでノイズが少ない分、書きやすい(読ませやすい)のかもしれない。「はじまり」と「終わり」が決まっていてその経路を辿るように構成するというのは(難易度や納得度を棚に上げれば)できないことではない。その場合、「それしかできない」ということにしてしまえば、「それしかできない=だからそうなる」となって、「そうなる」ことになる。「そうなる」以上、納得しない余地がない。

「そうなる」ことに影響を受けつつも、それとは本質的に関係ないところで持ち上がる思考のほうに興味をおぼえる。不条理だけをならべても不条理は成立しないというのは、条理に合うことを不条理の隣に並置するということ以上に、条理−不条理とは関係ないものが要請されるという意味だ。能力・機能外の領域がなければ物語は立ち上がらない。

JJが消失する前に言っていたことはアニメのほうで描かれている。会話でのやり取りは、発せられた言葉に対しての現場における最適解以上のものにはなりえない。それによって作られたとりあえずの流れに沿って新たな言葉が導かれるということは起こるが、そうなるともともとの言葉の意味は立ち消えて、その時の暫定版解釈がとりあえずの決定版になる。後々ちょっと引き返してみたい気がして、頭の中で実際に引き返してみて会話の流れを想像するとき、本意とその時点で感じられる別の解釈が生まれるかもしれないし、有耶無耶で不確かな与太話めいた妄想に終止するかもしれない。いずれにせよ、これ以上考えても仕方がないとその都度思い、考えるのをやめては、またふとしたきっかけでそのことを思い出し、考えても仕方がないと思うところまで考えてみて、何かに近づいている感覚を得られたり得られなかったりする、ということができる。

「消失する」というのはそれ自体ドラマチックなアクションだが、それを物語の頂点におかないやり方が自分にとっては好ましい。消失とは無関係に、日常にどっぷり浸かっている状況で発せられる言葉のほうに多くヒントが隠されているという構造を自分の書く小説内にも作りたい。冗長性を高めるための足し算というのは方法だが、それを目的にして何かを書くと、その意図が透けて見えて余計に中身が目減りしてしまうおそれがあるので、感情やアクションを積み重ねていきながら、能うかぎり大きなスケールの模様を描きたい。そのためにタテとヨコの瞬間移動を自在に扱うという意識をもつ。

『モガンボ』を見る。ジョン・フォード作品を2,3本見た上でこれを見て面白さが感じられないならジョン・フォードは捨ててしまってかまわない。そう言い切れるぐらいには面白い映画だった。あんなふうに悔しがったり転んだりするのは、絶妙にキラキラしていて、でも目を背けるほどには眩しくなくて、しかるべき距離は保たれているしとにかく魅力的だ。

モガンボについて検索すると、何でも「紅塵」のリメイクらしいということを知る。ちょっとした符合だけど面白い。


今日

渋谷で11時から『俺は善人だ』を見る。よく似た二人を一人二役で演じるのはいくつか見たことがあるけど、このモチーフに振り回されたりせず、さすがうまく取り扱っていると感じた。仕掛けにさしかかるまでの前段の見せ方も良くて、仕掛けの場面が引き立っていた。『モガンボ』も映画館で見たくなったので19時半の回のチケットを買う。

蕎麦を食ってから下北沢に戻って図書館でレンタル予約した『大いなる不満』を受け取りに行く。『ロウカの発見』は、「科学」と「物語的なものの見方」との関わり方についての風刺画で、主体を個人ではなく集団においているあたりもよくできている。

ジョン・フォードは夏以降あまり見なくなった。が、のちに『フェイブルマンズ』を見たときに「あれがあのJF!」と感じ入ることができるだけの素養をこのときに得ることができて幸運だった。

この時期SFを読んでいるのは何かを得たいと思ってうろついている感じだ。自分の書くものはSFになるのではないかという思いがあった。しかし、書くものについて設定に制限を受けたくないという理由でSFに近づいただけで、SFに対して特別志向があったわけではない。今書いているものもとくにSFではないはず。

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