20220823

日記33

今日
ICCでやっている原寸大ゲルニカの8K上映のイベントに行った。
ピカソはピカソ美術館で見て以来二回目の鑑賞だが、今回原寸大のゲルニカを見て、ピカソが評価されている理由、その魅力を理解できたように思った。
ゲルニカには画面いっぱいに動物たちと人間たちが描かれており、彼らはおなじ機能不全に陥っているように見える。その口は大きく開かれ何かを言っているようでいて、意味のある言葉を発することができない。また、目は見開かれているものの何かを見るということができていない。目が見えるのに目に映ったものが像を結ばない(=何も見えない)ように仕向けられているというのは、目が見えないこと以上に残酷な仕打ちだと感じさせる。なぜそうなるのかといえば、そこに全体を同時に脅かすほどの大きな脅威があるからだ。
人物画のなかには、絵に描かれた人物がこちら側を見返してきていると感じさせるほど、まなざす力のある作品もある。それらの作品を見ていると、絵画世界にとっても「あちら側(われわれからすればこちら側)」というものがあるということを絵の人物が知っているようにさえ思われてくる。それとは反対に、ゲルニカの人物たちは、あちら側というものにはまったく想像が及ばず、その可能性も奪われているように見える。動物はもともとその可能性を持たない(あるいはかなりの程度制限される)。生きるということを要素のひとつとして、しかもそれだけを俎上に載せる場合、動物と人間とのあいだのひとつの区分は失われる。われわれが絵を見るとき、絵の側から見返されることなど絶対にないと感じるとするなら、おそらくそれは許しがたい不均衡となる。たとえば、ぬいぐるみを見て、それに生命が宿るという想像が一切断たれているとすれば――私から見ればそれこそ「想像の世界」なのだが――、そこには何をもってしても埋められないほどの欠落があるとみなされる。その欠落はある種の精神性とは共存し得ないものだ。
苦しみの大きさのゆえに、そういった見る機能を奪われている人物や動物を、絵画作品としてこちらから一方的に見る羽目に陥っているという事態がゲルニカで起こっていることだ。見えるが何も見えていないというのは、想像も記憶もできないはずのことなのだが、私はそれを想像できるし、そういう記憶があるように感じられもする。
私は、私なりのスケールで、なにかに追い詰められた経験を持つ。そのとき、何も見えないまま虚空を見るように何も見ていなかったり、自分が何を言っているのかわからないままただ声を出していたり、とにかく狭いところに閉じ込められてじたばたしていたような感触だけが残っている。そうした感触が仲立ちとなって、本来であれば想像できないものを想像させるのだ。可能であるはずのものが不可能になることを表すというのは、不可能であるはずのものが可能になることを表すことと同じではなく、両者は異なる表現である。しかし見方を結果に寄せるのであればそれは「反転する」ということを表していて、ON/OFFのように切り替えられる内容となる。しかしON/OFFの操作が可能になること自体、外側からの視点を必要にするもので、もしOFF状態になれば、あらかじめそれを予期していたり、何かしら保険を打っておかないかぎり、ふたたびONへと戻ることはできない。その閉じ込められた状況を描いているのがゲルニカだ。
だいたい上のようなことを考えゲルニカを見ていたが、そういう目で見ると、絵の中に例外的な「目」が見えてきた。描かれたものの並びのなかに例外がひとつでもあれば(ゲルニカにおいてはこちらをあちら側として見る目がひとつでもあれば)、全体の印象がそこを起点にぐるりと回転してしまう。ゲルニカでは牛の目がその役割を果たしていた。見えているものがあるから見えていないものがある。見えているものがなければ見えていないという事態は意識にのぼってこない。それらは別々のものとして並立するかぎり、つねに比較の対象となる。動物たちと人間たちを並立させるのは人間たちに優位な部分もあれば、動物たちに優位な部分もあるということを示すためだ。認識能力が制限されていることによってスムーズに流れていく認識があるのだといえる。
絵のなかにあって、ある状況に立たされて、「見ているからどうだというのだ、見るから何だ」と言われると、答える言葉を失ってしまう。それに、絵の人物の口からほとばしり出たのは、うめき声ではなく誰かの名前や意味ある言葉だったかもしれない。考えれば考えるほど、想像しようとすればするほど、想像などできないという感じ方が強まっていく。限界はあっという間、すぐ先にある。想像することなど全然不可能だという感じが際限なく強まっていくなかで、ただ見ている牛の目は、それに蓋をするように働きかけるようだった。目の前に高精細8K映像としてある大きな絵に圧倒されながら、その絵をもう一度見てみようという励ましになった。それを見て何かを言う必要に迫られるわけではないし、牛がしているようにただ見てみようと思い、牛の目を見ることが、絵を見ようという意欲に変わるのを待った。

20220820

面接こわい

面接面談それに類するものがとにかく苦手だ。
通常の会話や対話であれば得意とは言わないまでも苦手ではない。
しかし、こちらが低い椅子に座り、向こうが高い椅子に座っている状態での対話、あるいは、こちらがひとりで向こうが多勢での話し合いとなると苦手だ。反対に、こちらが高い椅子で向こうが低い椅子、あるいはこちらが多勢で向こうが無勢での対話であれば苦手とは思わない。要するに自分が下風に立っている状況下での会話というものに苦手意識を持っているという話だ。
おそらく最初は誰だってそうで、プレッシャーに晒される経験をしつつ、ちょっとずつ面の皮を厚くしていくのだろう。自分はそういう経験を避けてきたからいつまでも(いまだに)苦手なままだ。とはいえ年齢を35まで重ねると、望んだわけでもないのに面の皮だけはきっちり厚くなっているようだ。実際にテーブルについて話すことはないと分かっているときには種々様々な多くのことについて全然屁とも思わない。かくして、順境では不遜、逆境にはとことん弱いという残念なメンタリティが醸成されていく。さらに恐ろしいことには、まあそんなものだろうという開き直りが今までよりもスムーズに展開できるようになっている。伊達に35年間生きてはいない。
しかし、実際困るのは、面接面談の機会が自分の生活から消滅しないことである。
この前も、面談の必要があって、面談を行なった。近頃の面談は対面式ではなくインターネットを通したリモートでの遠隔式が多く行われ、今回行なった面談も遠隔式であった。画面越しのやり取りとなるリモート面談では、体感で五割ほど緊張が緩和される。仔細に見れば、ピーク時の緊張はほとんど従来どおりなのだが、その時間は短い。また、対面式に起こりうる「緊張の助走」がないことで、ピークそのものも下降傾向にあるといえるかもしれない。
こういった追い風を背にして、いまだに緊張するのはなぜなのか。なぜなのかと問いかけながらそれを解き明かす気持ちはまるでないのだが、何かがおかしい、おかしいはずだという確信めいた思いがある。ただ、それをつかんで観察しようという気が起きずに、いつまでも恐怖心相当の扱いをするのが常である。喉元過ぎれば熱さを忘れる式の知恵が充分に発達しているため、やおら持ち直しては、すぐ寝て忘れてしまう。この痛い経験を反省材料として次に活かすということがない。

それでも「成長」したなと自分事ながら思うのは、面談に際して事前に準備をするようになったことだ。20代のときには面談が嫌すぎて、将来確実に起きる面談という事実をできるかぎり無いものとして過ごそうと決意していた。ああ言えばこう言うという想定問答も独り相撲じみて馬鹿らしいと思っていたし、嫌な出来事にかける時間は少なければ少ないほど良いという信念があった。将来確実に起こることであっても、今この時点では起きていないわけだし、気を紛らわすための方策はいくらでもあると思っていた。そして、気を紛らわすことは実際にできた。その時から好きなお酒はあったし、良い友人たちもいたからだ。
今は楽しいとき以外のお酒を飲まないようにしている。そして気のおけない友人の数はがくんと減った。だから、面談を明日に控えた夜などには、考えたくない面談のことなんかをつい考えてしまう。それでもできるだけ考えたくないと考え、さして見たくもない動画を見るのだけれど、さして見たくもない動画なだけあって集中して見ることにもならず、ややもするとまた明日のことを考えてしまう……。
ただ、何度も緊張していると緊張にも特徴があることがだんだんわかってくる。そのひとつに、自分より緊張しているように見える人がいると緊張が和らぐというものがある。受け答えができていない人がいて、自分はそれよりはマシだと思えると、驚くほど気が楽になる。覚えのある人もいるだろう。

その日、囲碁の最年少プロが誕生したというニュースが流れてきた。電話でその話を何気なくすると、受話口から「そのニュース知ってる。記者会見でぜんぜん喋れていなかった。小学3年生だとちょうど喋れる子と喋れない子で二分される時期だね」という情報が漏れてきた。自分は通話を切るとそのまま記者会見の動画を検索して、10分31秒ある長めのダイジェスト版の動画を見た。考えないでも答えられるような簡単な質問にもたっぷり時間をかけ、ほとんどマイクでも拾えないほどのか細い声で短い返事をするだけの動画だったが、そのときに自分が見たかったものがまさにそれだった。
今回の面談は、小学3年生の最年少囲碁棋士のおかげもあり、おもに精神面で入念な準備ができた。見も知らない人から良い影響を受けられること、見も知らない人に思いがけず勇気を与えることもあること、この世界では他人に影響を与えあって生きていけるということは、それだけで素晴らしいことだ。人のふり見て我がふり直せというときの「人」というのは、必ずしもネガティブな役回りだけを含意するとは思われない。この言葉における人と我というのは、人同士のつながりにおけるバリエーション(多様性のひとつであり、今回の件で自分はその紐帯をたしかに実感した。
しかし、いくら精神面では万全だと思っていても、面談で言うことがはっきりしていなければ、その付け焼き刃は脆くも剥がれ落ちる。つぎは精神面の準備とあわせて、それ以外の準備もやってみようかという気になった。

20220813

海の思い出

東京に住み始めたのは秋だった。それから季節が三回めぐり、夏がくるたび気持ちは自然と海に向いた。海なし県で生まれ育ったから、今でも海を見るとテンションが上がる。小田急線一本で江ノ島に行けるというアクセスの良さは、それまでにはなかった海との距離感だ。自宅アパートからはじめて海を見に行ったとき、これはいい、毎週海に行こうなどと思ったものだ。
実際の頻度は年に2,3回というところに落ち着いたのだが、それでも行こうと思えば行ける距離に海があるという感覚はこれまでにはない解放感を夏にもたらした。水道水の蛇口の横にビールサーバーのコックを附設したとは言わないまでも、それに近いブレイクスルーが生活に導入された感があった。
海は見て良い。水平線の単純さと波のかたちの複雑さを交互に見ていればそれだけで満足できる。水平線は心に思い浮かべやすいから、本物を見ないでも満足できそうなものだが、視界に入り切らない水平線を目の前に配置すると、そこにはやはり写真で見るのとは違った感覚が入り込む。逆にいえば、青色が視界を埋め尽くすときの強い印象を抜きに「海を見た」とは言いづらい。
そして波は単調さが良い。ちがう形のバリエーションを何度も繰り返す。ひとかたまりの水が順に押し寄せてきてしかも尽きることのないという感触が、ある種の催眠状態へと誘いこむ。いろいろのことは終わるし、いろいろの中には私を取り巻くすべてが含まれているから、余計な気をもむ必要はないと思わせておきながら、同時に、延々と続く単調なリズムは「終わらない」というメッセージをも発信していて、終わったとしてもべつに終わったりはしないんじゃないかという、言葉にしてみると奇妙な、おかしな気分を持ってくる。
砂浜に寝転がって目を閉じればわかることだが、波の音というのは思っていたよりずっと大きい。海は聞いて良い。
海はひとりで行っても、友達と行っても楽しいが、ひとりで行くほうが海が持ってくる感覚に集中しやすい。ひとりと行くときと誰かと行くときにはコンサートと音楽バーぐらいの違いがある。友達や恋人と行く場合、海は贅沢なBGMやとっておきの背景になる。

この夏、友人と海に入った。私から見ると彼は、海そのものというより海という概念に興味があるように見える。「夏、海に行った」という事実を得たいだけ、と言うのは言い過ぎかもしれないが、絵日記の宿題のためにそれをやらないといけないと思っていて、しかも絵日記を書かないままでいるのが彼だ。そして十中八九言い過ぎではない。砂浜の感触、波のかたちといった海浜で生じる具体的な現象に注意を払っている様子はない。夏だから「海に行く」をしたいという骨筋張った経験主義者に見える。たとえば、私が黙って海を見て楽しもうとしても、いつもの日常の話、電車で1時間半かけて来た場所でいちいちしないでもいいような話をしかけてくる。とりわけ閉口するのは、つまらない質問を次から次にしかけてくることだ。頭を一切使わない発話として質問をされると、こちらでその答えを持っていない場合には、自分の中で展開している思考を止めて、その質問のことを考えなければならなくなる。そもそも「自分の中で展開している思考」などといっても、取り出してみれば海を見て浮かんでくるとりとめもない感想の類でしかないから、取り出して「話題」にするには弱い。だから黙って海を見ているのだ。ただ話題としては弱くても、インナーワールドでは重要なことでもあり、海という特殊な環境ががもたらした感想だから大事にもしたいのだが、それを中断させてくる。たんに無視して済ませるのもむずかしいから、つい釣りこまれて「このあたりを歩いている人は年収いくらぐらいだろうか」とか「土産物屋で浮き輪を買ったらいくらになるだろうか」「ドンキで買ったらいくらぐらい安くなるだろうか」といった話に付き合わされることになる。そういう質問につきあわされていると、この人には海を見て思い浮かべることが何もないのだと判断して問題ないだろう。
この友人とは大学来の付き合いだが、近頃はお金に関する話が増えている。思い返してみれば、当時からシビアな出金管理をしており、今にして思えば、心に占めるお金の割合が昔から多かったのだろうと推測されるが、その頃は私たちふたりとも全然お金がなかったから、お金の話をしようにも「どこどこの居酒屋が安い」とか「レンタルショップで100円セールがはじまった」とかそういう話にしかならなかった。今はアルバイトをしていない大学生よりは所持金が増えたこともあって、具体的なお金の話ができるようになったこともあって、面白くもないお金の話を毎度展開されるようになった。自分としては、お金は嫌いではないし、もしたくさんのお金を作れる身分であれば、お金の話も面白くなってくるのかもしれないが、そんな実績も展望もないのでお金の話は楽しくない。そんな実績も展望もない身空で、よくも得々と、飽きもせずにお金の話を続けられるものだと感心する。また、上記に付随して彼の口から「客として金を払っているのだからこういうことはやめてほしい/このぐらいはやってほしい」という大学時代には決して聞かなかった台詞が聞かれるようになった。これは切なくもある。
私は、わざわざ1時間半をかけて海に来てまでやるほど「お金の話」に興味を持てない。そして考えてみるとおそらく、彼もそこまでつよくお金の話に興味があるわけではないだろう。ただ、それ以外のことに興味を向けることができないだけなのだと思う。目の前に海があっても、概念としての「海」に用があるだけで、それを仔細に見つめてみるという発想もなく、海に行ったらやると決めていた「浮き輪で波に揺られる」を実行に移そうということ以上の思惑がないのだろう。だから、いわば退屈しのぎで頭に浮かんだことを考えなしに口に出し、それが正真正銘・真正直なだけに「このあたりを歩いている人はいくらぐらいの年収だろうか」という台詞となって飛び出してくることになるのだ。
しかし、そんな彼とても、七里ヶ浜のビーチに到着し、いつもより高く波打つ海を目の前にしては否応もなしに興味が海そのものに引きつけられた。それを証拠に、背負っていたリュックをブロック塀のところに放り出すが早いか、前々回の海水浴の反省として防水仕様に買い替えたスマートフォンを手に持ったまま海の中に踊りこんだ。くだらない会話内容に比べ、この反応はまったく正しい。海は入って良い。
この日の海はサーファーにとっては好適だろうと思われるやや荒れ模様の波で、太平洋を北上してくる台風のせいか、六波にひと波は首まで届くほどの高さの波がきていた。そして事件は起こった。
海に入って5分も立たないうちに、彼が不安げに「(水着の)ポケットからスマートフォンが落ちそう」と口走ったその次か、つぎの次の波に揉まれた直後、「スマホ落とした!」という叫び声が上がった。夢中になって足元を探すも、スマートフォンが見つかりそうな気配もなく、前かがみになって必死で探すうちにかけていたメガネまでもが波にさらわれていった。すべてはあっという間の出来事だった。それから小一時間、途中少しだけ雨も降る中、波に洗われながら、強い波で浜まで何度も押し戻されながら、極端に弱くなった視力で、足の感触なども駆使しつつ探したものの、結局、スマートフォンもメガネも見つからなかった。
ポケットから落としたスマホが流された瞬間から七里ヶ浜をあとにするまで、彼は諦めずに失くしたものを探し続けた。そのひたむきな姿を見て、私はひさしぶりに腰砕けになった。とくに、連鎖的にメガネを失くした瞬間には、身も世もないほど転げ回り、笑いすぎたせいなのか何故か背中が痛くなったほどだ。雨が降ってきて周囲の人影がそそくさとビーチから引き上げていくなか、雨など物ともせず遮二無二探し続けるその姿には鬼気迫るものが感じられたし、不可能を可能にしてみせるというミラクルメーカーの面持ちをその背中にみた。彼の背中は「見つかるに決まっているさ」と、常よりは言葉少なながらも雄弁に語っていた。
不可能を可能にするんだという心意気は、ときに誰かの心を打つ。波を全身で受け止めるという、海を相手にした極上の遊びをしていると見られたのか、砂浜を歩きすぎる二人組の女から「楽しそう、いいな」という詠嘆さえ引き出した。砂浜に寝転びながらその声を聞いていた私は、こみ上げてくる笑いをこみ上げるままに任せ、その余勢を借りて起き上がった。視界一面にグレーの水平線、そして、さっき見たのとまったく同じ場所で、正面切って波に立ち向かう小さな男の姿が目に飛び込んできた。賽の河原の石積みは、概念としては耐えがたい苦痛だが、誰かが実際にやっているのを見ると、それとはまた違う感慨がわくものだ。感心するというのもある。可笑しいのも当然ある。哀しいというのも含まれる。それらが渾然一体となって現実に具象している。あるいは、因果を入れ替えて、現実に具象しているから渾然一体となって感じられると言ってもいい。

水平線と小さな背中とが作り出す鮮やかなコントラストは、海だけではどうしても作り出せない、この夏特有の美しい景色だった。海にはほとんどすべてがあるが、ユーモアだけは足りていなかったんだなという発見があった。

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20220802

日記32

昨日

引っ越し後の家が引越し前には想像できなかったほど快適でとても暮らしやすい。家賃5万円の最初の部屋からすると3倍以上の過ごしやすさは悠にある。ともすると受け取りきれないほどの満足感が実際に目の前にあり、この暮らしを噛み締めていなければもったいないという気がつよくする。この半年間で社会的なものもそうではないものもふくめ様々な事件があり、現実感が「希薄になる」というより「揺さぶられて輪郭が二重に見える」ようになったのだが、引っ越してからの生活は、そういった現実感覚のブレ・まとまりのなさの「仕上げのイチゴ」のように思われる。私の現実感覚は、私にとっての現実を反映したものに違いないが、現実と現実のイメージがこうまで乖離すると、現実というのは大体こういうものだとする自分の見識の乏しさが露呈したということになる。まあ私はもともと現実についてほぼ無定見にちかいというか、あんまり自信がない領域だというくらいの認識はあるのだが、それにしても全然駄目だったということが明らかになった。あるいは、よく言われるように「現実とは想像を超えるものだ」ということを示しているだけなのかもしれない。この齟齬について自分の方に原因があるとするのは、見る人が見ればそれだけで夜郎自大の気味があるともいえる。

東京に引っ越してきた直後にも現実感のなさはあった。旅行感覚が続いているような。しかし、旅行感覚は2年ぐらい経つと完全になくなった。それでも現実感のなさは続いている。最初の現実感のなさと別物になっているから、同じ現実感のなさとして処理するのが適当ではないけれど、現実はひとつしかないのだから現実感も正しいそれが一個あるだけというイメージに基づいて、それとの乖離感覚が継続している。大体このへんにあるにちがいないという見当をつけた場所を離れず、周囲をぐるぐる回っているだけ?

現実にも現実感にもそれなりに距離を置いている感じで冷淡に接している気がしているが、「現実感のなさ」という観念については好物と言っていい。

小説『ゴジラSP』を読み終わった。アニメの補完になっているのは脇にいる人物の語りで、そこがとくに面白かった。読んでいると、ある登場人物について、当人のポジション・視野からきちんと考えていてしかも賢いと思わされることがあった。皆それぞれ自分自身の限界を把握したうえで発言したり行動したりしている。ナラタケシリーズ・特異点の語りについては”SF的想像力”の駆使というか、ラボ環境での操作という感じでノイズが少ない分、書きやすい(読ませやすい)のかもしれない。「はじまり」と「終わり」が決まっていてその経路を辿るように構成するというのは(難易度や納得度を棚に上げれば)できないことではない。その場合、「それしかできない」ということにしてしまえば、「それしかできない=だからそうなる」となって、「そうなる」ことになる。「そうなる」以上、納得しない余地がない。

「そうなる」ことに影響を受けつつも、それとは本質的に関係ないところで持ち上がる思考のほうに興味をおぼえる。不条理だけをならべても不条理は成立しないというのは、条理に合うことを不条理の隣に並置するということ以上に、条理−不条理とは関係ないものが要請されるという意味だ。能力・機能外の領域がなければ物語は立ち上がらない。

JJが消失する前に言っていたことはアニメのほうで描かれている。会話でのやり取りは、発せられた言葉に対しての現場における最適解以上のものにはなりえない。それによって作られたとりあえずの流れに沿って新たな言葉が導かれるということは起こるが、そうなるともともとの言葉の意味は立ち消えて、その時の暫定版解釈がとりあえずの決定版になる。後々ちょっと引き返してみたい気がして、頭の中で実際に引き返してみて会話の流れを想像するとき、本意とその時点で感じられる別の解釈が生まれるかもしれないし、有耶無耶で不確かな与太話めいた妄想に終止するかもしれない。いずれにせよ、これ以上考えても仕方がないとその都度思い、考えるのをやめては、またふとしたきっかけでそのことを思い出し、考えても仕方がないと思うところまで考えてみて、何かに近づいている感覚を得られたり得られなかったりする、ということができる。

「消失する」というのはそれ自体ドラマチックなアクションだが、それを物語の頂点におかないやり方が自分にとっては好ましい。消失とは無関係に、日常にどっぷり浸かっている状況で発せられる言葉のほうに多くヒントが隠されているという構造を自分の書く小説内にも作りたい。冗長性を高めるための足し算というのは方法だが、それを目的にして何かを書くと、その意図が透けて見えて余計に中身が目減りしてしまうおそれがあるので、感情やアクションを積み重ねていきながら、能うかぎり大きなスケールの模様を描きたい。そのためにタテとヨコの瞬間移動を自在に扱うという意識をもつ。

『モガンボ』を見る。ジョン・フォード作品を2,3本見た上でこれを見て面白さが感じられないならジョン・フォードは捨ててしまってかまわない。そう言い切れるぐらいには面白い映画だった。あんなふうに悔しがったり転んだりするのは、絶妙にキラキラしていて、でも目を背けるほどには眩しくなくて、しかるべき距離は保たれているしとにかく魅力的だ。

モガンボについて検索すると、何でも「紅塵」のリメイクらしいということを知る。ちょっとした符合だけど面白い。


今日

渋谷で11時から『俺は善人だ』を見る。よく似た二人を一人二役で演じるのはいくつか見たことがあるけど、このモチーフに振り回されたりせず、さすがうまく取り扱っていると感じた。仕掛けにさしかかるまでの前段の見せ方も良くて、仕掛けの場面が引き立っていた。『モガンボ』も映画館で見たくなったので19時半の回のチケットを買う。

蕎麦を食ってから下北沢に戻って図書館でレンタル予約した『大いなる不満』を受け取りに行く。『ロウカの発見』は、「科学」と「物語的なものの見方」との関わり方についての風刺画で、主体を個人ではなく集団においているあたりもよくできている。

ジョン・フォードは夏以降あまり見なくなった。が、のちに『フェイブルマンズ』を見たときに「あれがあのJF!」と感じ入ることができるだけの素養をこのときに得ることができて幸運だった。

この時期SFを読んでいるのは何かを得たいと思ってうろついている感じだ。自分の書くものはSFになるのではないかという思いがあった。しかし、書くものについて設定に制限を受けたくないという理由でSFに近づいただけで、SFに対して特別志向があったわけではない。今書いているものもとくにSFではないはず。

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