物語のように
「物語のように」のあとに続く言葉が思いつかない。「物語のように」というのを「物語的に」ととるなら、本来物語に属さないものを物語的な見方で見てみるという意味になる。だが、物語に属さないものは存在しない。そして、存在しないものを言葉で言い表すことはできない。私を介して言葉を扱うと、どの言葉も物語に属することになるからだ。
以上のことは原理原則だが、原理原則から水準を落としたうえで、物語に属さないものとは何か考えると、「ニュース」や「金融情報」などが当てはまるだろうか。しかし、そういったところにも物語的なものの見方は浸透していて、日常の気分から切り離すのは困難である。ニュースや金融情報に左右される私に直面しないまでも、それに左右される私を想像してしまうことは避けようがない。それでも強いてその線で物語外のものを追い求めると「数字」や「データの羅列」というところまで行く。たしかにニュースや金融情報から物語的な臭みを脱臭してデータや数字に近づけることはできるのだろうし、職業としてそれらを取り扱う人たちが価値提供するのはそういった漂白済みの情報である。しかし、それは手段であって目的ではない。情報を一旦バラにする目的は、データを編成しなおしてべつの見方を提供することである。
しかし、それがうまく成されるところにもまた物語が忍び込む。ある情報が上手にスムーズに伝達されるというところにべつの物語的な要素が成立しないではいられない。数字を見て判断するという行為には卓越した部分が見られ、卓越した部分には物語が読み取られることになる。ニュースや金融情報をあえてデータとして扱うことをせずに、その後ろにいるひとりの人間のことを想像するなら、それも物語ということになる。いずれにせよ、いついかなる時でもどんな場所においても、言葉がイメージに結びつくとき、発火する何かがあるとすればそれは物語の範疇であってその外にあるとは言えない。そして、物語の外にあるものでなければ「物語のように」のあとに続けないという決まりがあれば、あとに続く言葉は何もないはずだ。すべてが物語であるとするなら「物語のように」という形容表現が成立する余地はない。
物語のうちにあって、あえて「物語のように」というのは、そこにある物語要素を強調するレトリックであり、装飾である。言ってみれば「物語のように」というのはレトリックでしかあり得ない。そもそも物語そのものにしてからがレトリックでしかあり得ないともいえる。イメージの効果的な伝達を目的と考えれば、その手段としてレトリックを弄することにも理はある。
自然発生的に湧き上がる物語性を極力排除して事に当たるというのは技術の要ることであるし、それによって得られる知見は無視できない。また物語というのはその高低を度外視すればありふれていて珍しくない。しかも個人に浸透して当人のものの見方に相当の影響を与える。むしろ彼のものの見方そのものを彼の物語と見なすことさえできる。彼個人の物語が彼個人の内部にだけある場合には問題は発生しづらい。あるイメージ(の制作)は、制作者によって間断なく修正することが可能で、しかも意識の上に載せないでも、外部からの影響で勝手に変更されることもある。考えていることを形にする習慣を持たない人は、柔軟に思考を変化させ、しかもその変化に自分自身気がつかないでいるということもざらである。彼は考えていないわけではない。社会が考えるように考えているのである。このように述べるとき、「考えている」の意味を問おうとするのは無益である。「社会」の適用範囲のほうを考えなければならない。彼から見えない場所は「社会」になりえない。彼にとって見えるところが社会であって、逆に見えないところは彼以外からどれだけ価値があると評価されようが社会にはならないということが問題にされるべきなのだ。もし何らかの形で彼の内部から彼の物語が漏出するようなことがあれば、それは評価の対象になりうる。イメージから物語への昇格を果たしたといえる。
物語の高低というのは何をもって計れるかといえば、イメージ伝達の効果によってである。レトリックにすぎないという批判が暗に示そうとしているのは、その言表のイメージ伝達効率の低さであると考えられる。装飾的で伝えるところが少ないと言いたいのである。この言い方では装飾的であることと伝えるところが少ないことが不可分であるような印象を与えるが、それも企図しないわけではないだろう。もっと簡潔にまとめろという要求も含意していると考えて差し支えない。受信側からすれば当然の要求かもしれないが、発信内容によってはこれは無視してもかまわない。受信側の立場を無視すれば、イメージ伝達効率は第二義的なものにすぎない。イメージと物語は別物であり、物語に対するイメージの正誤表は、まずは彼自身の内部にしか存在しないからだ。伝わるように伝えようとした結果、正誤表から逸脱した場合、それを保証してくれるものは存在しない。イメージとは、必ずしも物語のように伝達しなければならないわけのものではない。こう考えたとき「物語のように」という形容がつながっていく先があきらかになる。物語未満・物語以前のイメージが、べつの内部に直接もたらされ、そのまま物語以後のイメージになったとするなら、それは「物語のように」伝達されたと考えてまさか不都合はあるまい。
坂本慎太郎の音楽アルバム『物語のように』を聞くと、言葉が流れていく不思議を体験できる。
私は歌を聞くとき、一も二もなく、とにかく歌詞に注目する。歌手が何と言っているのかが気にかかって鳴っている楽器のボリュームを(脳内で)落として声にばかり注意を向けてしまう。また、どんな言葉が歌い上げられているかで楽曲を評価してはばからないうえ、演奏の巧拙などはまったくわからないまま平気で音楽を聞いている。
裏を返せば、歌曲の評価軸は歌詞一本にあるということで、音楽に関する趣味の反映はまったく言葉のうちにある。坂本慎太郎の音楽を愛好するのも、彼の言葉遣いに依るところが大きい。それでも、はじめて『物語のように』を聞いたとき、言葉がなめらかに入ってきて、聞き終わってすぐだったのにもかかわらず何と歌っているのか思い出せなかった。もう一度聞こうと思って同じ曲を再生したが、まるで同じことが繰り返された。歌詞の「物語のように」のあとに続く言葉が思い出せないのである。音楽を聞くことの大部分が歌詞にある身からすれば、これでは何も聞いていなかったのと同じことになるし、一回目はともかく、二回目は歌詞に注意して聞こうと思ったのにもかかわらず、歌詞ははっきり聞こえていてなおかつそれを覚えていられなかった。
これを破滅的な記憶力の低下だとは見なさずに、坂本慎太郎の奥義おそるべしと外因に帰責するのは、われながら便利な回路を持っているものだと感心させられるが、この不思議な感覚は、『ナマで踊ろう』『幽霊の気分で』『できれば愛を』でも見られなかったことで、今回の『物語のように』との接触には動揺をともなった新たな感動があった。ある意味これが「音楽を聞く」の最初だったかもしれない。