20220701

その悲しみと喜びがどこにもたどり着かないとしても

フィリップ・シーモア・ホフマンがもう死んでいてこの世にはいないという事実を、ふとしたときに思い出して悲しくなる。2014年2月以降、ずっと悲しいし、その悲しみが意味のないものだと思うと虚しくもある。意味のある/意味のない悲しみというのは、悲しみの側から見ればそれこそナンセンスな区分なのだが、一方で、意味の側から見れば厳然として存在する区分けだ。だからフィリップ・シーモア・ホフマンのことを思い出して悲しくなるときは大体いつも虚しくなって終わる。実際に会ったわけでもない人物の不在を悲しむのはおかしい。それに、もし彼が死んでいなかったなら彼のことを思い出す機会はもっと少なかっただろうというのは容易に想像できることだからやはり身勝手な悲しみだと思う。悲しむべき根拠に欠ける、いたずらに感傷に浸りたいがための悲しみではないかと、ちょっと思ってしまうのだ。少なくとも誰かに訴えていいような悲しみではない、黙って悲しんでいればそれでいいと。

悲しいとき、自分より悲しい人がいると思うと、自分の悲しみを開け広げにしないで控えていようとする意識が働く。そしてすぐにそういうのは本質的ではないと感じるから虚しくなるのだ。それでも全部無視して言ってしまえば、悲しいものはやっぱり悲しい。もっといろんな作品が見られたはずだったという可能性が閉ざされた悔しさもある、振り返るための過去が打ち止めになってしまったという無念さもある。でも違う。近いところからそれを表現しようとするとかならず、たちまちのうちにでも違うへと至る。どんな形でもいいから悲しみを表現しないとやりきれないのに、でも違うに遮られて表現できないから鬱屈する。鬱屈に耐えかねて穴をあけるとそこから隙間風が入り込んで虚しくなる。悲しくてつらくて苦しいと言いたいわけではない。意味ある悲しみを悲しみたいというのでもない。しいていえば、別の感情にすがたを借りて代わりにそれを迸らせてほしいという望みがある。どんな形でもいいからと思いながらどうしても形にこだわってしまう。わたしの悲しみはただ悲しいと言うだけでは不十分だ。まずは、楽しいことや嬉しいこと、驚いたことに「悲しみ」という名前を与えてみて、それが意外にもフィットする様をじっくり味わうことが必要だ。そうするのは悲しさの中心を直視できないからだが、直視できないからといって背を向けたいわけではない。だから中心ではなく周縁を見る。これは斜に構えたり目を背けたりしないために講じるべき、わたしにとって必要な手段だ。

フィリップ・シーモア・ホフマンが出ている映画を楽しんで見てきた身には彼が赤の他人だとはどうしても思えない。画面に映し出される彼の困惑した表情が笑顔のような動き方をするのを見て、暗闇の中でミラーニューロンの実在を感じさせられたのは一度や二度のことではない。

映画を見に行くとき、できるかぎり前情報をシャットアウトして映画館の席に座ることを心がけている。だから『リコリス・ピザ』の主演のひとりクーパー・ホフマンが、あのフィリップ・シーモア・ホフマンの息子だということも、半年ぐらい前に予告を見て以来頭の中からほとんど抜けていた。しかし映画が始まるとすぐそのことを思い出す。ゲイリー役のクーパー・ホフマンには笑ってしまうほど父の面影があり、これが面影があるという言葉の意味だとまざまざと感じさせられた。それで映画を見ながらフィリップ・シーモア・ホフマンのことを思い出して悲しくなった。今まで思い出したなかでもとりわけ良い形で。

映画の内容は、私が思うラブコメディの理想といえるもので、『パンチドランク・ラブ』『崖の上のポニョ』に匹敵するか、それ以上の出来だった。『門』の宗助と御米のように、お互い同士しか存在しないから結びつくというのは、無人島での純愛のようなもので言ってしまえばシチュエーション依存の域をでない。ロマンティックラブは達成されるかもしれないが、いやしくもラブコメディという以上、それだけでは物足りない。『リコリス・ピザ』のアラナとゲイリーは、お互いにとってお互いしか存在しないわけではないからこそ、ときにお互いから離れる一歩が、そしてお互いに向かって走る一歩がよりいっそうドラマティックなものとなる。スクリーンに映るアラナを、あるいはゲイリーを見つめていて、今走ってほしいと思った瞬間に、カメラが右、あるいは左方向にふたりを追いかけるシーンに移っている。この胸のすくアクションはラブコメディではあまり見ない。

ふたりの動きを眺めていると、全体として、尺取虫のすすみ方を思い起こさせる。尺取虫は頭と尻がくっついては離れ、離れてはくっついてを繰り返しながらすすんでいく。彼らの運動も、頭と尻の役割を入れ替えながらではあるが、まったく同じである。それでも、クライマックスのシーンではくっつくスピードの早さについ笑ってしまいそうになる。同時に、眩しいほどの、感動を誘うなにかがある。

ふたりは若すぎるから、すぐまた同程度の速力でお互いから離れていくのだろう。そして今度という今度こそ、とうとう千切れて跡形もなくなってしまうかもしれない。そうなったら可笑しいし、ただ可笑しいだけではなく無意味な可笑しさがあると思うが、そうなったとしても全然何も気にしないでいられる。最終的に形をなすかどうかに左右されない可笑しさがあるというまさにそのことが、彼らにとっても私たちにとっても最良のことなんだと思えるからだ。それ以上を望むのは、この映画にかぎっていえば、むしろ何も望まないことに等しい。

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