20220724

日記30

昨日

コピスの6Fジュンク堂書店で『ゴジラS.P』を買う。PARCOの1Fシティベーカリーで買った本を読む。

面白い小説というのは、自分が読める小説の範囲内にしかない。外国語で書かれていたり、古語で書かれている文章作品について、翻訳を通してしか読むことができないというのもそうだが、もし自分が文学にまったくの不案内で知的好奇心にも欠けており、読める小説の範囲内で本を選んで満足する本好きだったとすると、文学の正統とされるものや古典的名作とされる作品を素通りして平気だったのだろう。今、芥川賞作家の作品や直木賞作家の作品、本屋で売れているとされるジャンルの小説をスルーしても何の痛痒も感じないのとまったく同じように。

それらがべつのことであり、自分の読んでいないものではなく自分が読んでいて多くの人が読んでいないものの方に読むべきものがあると主張するには、それが古典的名作だから、有名な文学作品だからという理由だけで押していくのは無理がある。それは権威主義ではないかと言われて終わりだ。

しかし、他の言い方はとくに思いつかない。自分が言うとしたら次のようになる。

小説を読んでいるということは、あなたもいつか小説を書くということなのだからそのときの自分の役に立つように、いまの自分自身の外にあるものを探しに行くように習慣づけたほうがいい。

これについては、いいや、私は小説を書く気もないし、いつか小説を書こうという気を起こすこともないと返されて終わりだ。しかし、自分としてはその意見というか言い草には異議を唱える。それは、その人の言う私は小説を書くことはないという意見について、嘘をついているにちがいないと言いたいのではない。そんなふうに上から下に落ちていくように小説を読んで、何が楽しいのだと糾弾したいような気になるのだ。本当には小説を書かないでもいいが、いくらかは自分が小説を書くということを考えないでいて、あなたの人生に小説が必要だということの意味が私にはわからない。たしかに、「書ける/書けない」の問題が「書きたい」の先にある。それにしても「書きたい、だけど書けない」と思っているほうが潔いのではないか。諦めたままで小説を読むことの居心地の悪さを小説を読むことに感じないで、小説が読めるとは思えない。そんな体たらくでも読める小説を読みたいというのであれば、私はそんな小説は、というかそんな読書はつまらないと思う。それは私が現在売れている小説を読まない理由とはちがう。

海を見に行く前日、ピンチョンの『V.』を読み返した。小説全体の中でもとくに目立つ場面というわけでもなく、何ということもないシーンなのだが、スケールの大きさと細やかさの両方があった。ある人物の目線から主要人物の動向が語られるのだが、その人物の物語に対する役割とはまったく関係ないところに彼の生きる世界がある。章の中の一節にしか登場しない人物でありながら、そこだけを読んだとしたら、まぎれもなく彼がこの小説全体の主人公だと感じられる。チョイ役に目鼻をつけて台詞も与えてやるというレベルの話ではなく、これから彼の冒険が始まるのだと思わせられるように書かれている。だが、じつのところ、その場面というのはふたりいる主人公の片割れがいつか誰かの話を聞いて再構成した昔話を思い出しているいわば妄想シーンでしかない。Vの秘密に迫るため、何らかの重要な役割を担っていると考えられている女性と関係している男二人をただ見かけただけの列車の客室係の目線で、男二人の異常さ・冷徹さを描くというのが、この場面の小説内での位置づけということになろうかと思う。

そこにグローバルな視座とそれによるスケール感も乗っかってくるから、本当に敵わないと思わさせられる。しかし、このあたりは非常によく書かれているとはいえ、ある程度勢いで書き飛ばしていると考えることもできる。たとえば『ヴァインランド』では日本人のタケシフミモタが登場するが、それは日本人のイメージとぴったり一致するような登場人物ではない。もちろん、彼も活き活きとして活躍するから、そんなイメージとの一致がないからといってそれがどうしたということでしかないのだが、地中海の多様な民族がまじわる土地のダイナミズムを見せられ、その知らない世界を活き活きと描いているからといって、正確さを含めたすべてのバロメータが途轍もなく高度であるというのは目を瞑ってバンザイするようなものだ。

小説を書き始めてからあらためて読み始めた『V.』は面白すぎる。再再読だから、初読・再読時よりも細かいところに気がつくようになって、よりその面白さを掴めるようになってきたというのもあるだろうが、自分の小説を書いているとピンチョンの書きぶりの特徴がわかる。これはどの作家の作品についても言えることだろうと思うのだが、それにしてもピンチョンの場面の飛ばし方はすごい。一回で全部が入ってこないのだから考えようによっては説明不足だといえると思うのだが、何かを説明している余裕などないのだろう。そもそも数回読めばわかるようになっているのだから説明不足ではなく、たんに読む側の認識・認知能力の不足でしかない。これに関しては数回読み返して補っていくしかない。


家の前の蒙古タンメン中本で五目蒙古タンメンを食べる。ちょうどギリギリの辛さで汗が吹き出たけれど、辛いだけではなくちゃんと美味しかった。15時半ごろから家でSwitchのボードゲームをして遊ぶ。ウィングスパンで一敗地に塗れ、メンバーが増え三人になってから再度海底探検、エセ芸術家で遊ぶ。最後に締めのドブルで勝ちを収め、会がお開きになる。

引っ越しを二日後に控えていたので、遊びながらも準備を着々と進め、大方済む。

このときはわりとよく集まって遊んでいたが最近はTCBのメンバーが揃うことも少なくなって若干の寂しさがある。


今日

近所の町中華「龍明楼」で豚バラチャーハンを食べる。ここは気軽に行けて良い店だった。在宅勤務の折にはワンコインの弁当にだいぶお世話になった。下北沢の新居の鍵を受け取り、アースレッドプロαの蒸散のため新居に行く。エキウエのスタバで本を読んで、吉祥寺に帰る。1年半ほど吉祥寺に帰る生活を続けたが、結局コロナ騒動の最中に引っ越してきてコロナ騒動の最中に引っ越していくことになった。前半はとくに飲み屋などの開拓がろくにできず、ポテンシャルのいち部分しか楽しめなかったのは残念だったが、電車に乗らないでも全部が解決できる便利さは便利だけど、やはり街全体は郊外の域を出ない。それを象徴するのが駅前のバスで、とくに公園口のバスの動線の酷さがいかにも郊外然としており、著しく街の格調を下げている。せっかく井の頭公園があるのに、公園に行くまでの道があんな体たらくになっているのは相当マイナスが大きいということに街作り担当は気がつかないものだろうか。吉祥寺に住むために駅徒歩30分の場所を選ぶ人の足としてバスの輸送力が欠かせないんだとしても、あの狭い道をバスが通るのと、安全確保のために警備員が拡声器の大音量で注意を促す景観は、控えめに言っても前時代的で、みっともいいものではない。

吉祥寺は二流の街であるというのが一年半ほど住んで出した結論だ。一流の街になるためには駅前のバス動線の醜さを解消する必要がある。新宿渋谷まで20分足らずで行けるアクセスと井の頭公園を持ちつつ一流になれないということの意味を重く受け止める必要がある。公民館も各所に点在していてよかった。図書館も街なかにあって利便性が高い。それにもかかわらず一流になれないのは、駅前のバスがいらぬ混雑を生んでおり、通行人をみっともない気持ちにさせるからだ。

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