20220723

日記29

昨日

市政センターに行き転出届を出す。香港風麻辣麺のファーストフード店で4小辛のラーメンを食べる。

その足で下北沢に移動し、スタバで『失われた時を求めて』を読む。円城塔の『ゴジラSP』が本屋に置いてあれば買って読みたかったのだが、二店舗回って見つからなかった。

永原真夏のワンマンライブを見るため、開場時間の19時ジャストにSHELTERに入る。MCで「無駄について考えている」と述べ、メンバーに対し「無駄だと思うものは何かないか」と話を振っていたのが気になって、その後の二曲のあいだじゅう「無駄」と言われてピンとくる答えを探し続けてしまった。ベスト回答は「2000円札」、挑戦したい回答は「16進数」というところに落ち着き、次の曲からはふたたび曲に集中することができた。ちなみにその曲が本構成のラストだった(その後アンコールでたしか4曲か5曲追加で歌ってくれた)。

ライブを見に来ていた友人らと下北の居酒屋に行って酒を飲み、電車で吉祥寺に戻って井の頭公園を散歩した。

永原真夏の歌は「そうだよなあ」という共感をもって聞ける。ただ聞く自分の側が少しずつ変化して図々しくなり、今では「そうだよな」が行き過ぎて当たり前のように感じられるようになってきた。たとえば「遊んで生きよう」に対しては、生きることがすでに遊ぶことだという認識でいるから、遊んで生きようと聞くと自分の中では「生きて生きよう」に変換されてしまう。ただ、この規模感のトートロジーはいつ聞いても可笑しくて楽しくなる。あと「泣いたり笑ったりできるんだよ」については、こっちも進み具合は同様だが、上のような言ってしまえば雑念は湧かないで、ストレートに共感して共振する。とはいえどっちの体験がどうというのはないし、永原真夏がMCでうまいこと言えないでいた「いわゆる”良い曲”だけが曲じゃない」というのはそのとおりだと思う。良いという言葉遣いをしてしまうとすでに罠にはまっていて[良い/わるい]の二分法にどうしても引っ張られるので、べつの言い方を工夫するべきだとは思うが、それでもじゅうぶんに意図を汲み取れる場の力学があった。そういう場をステージとして作り上げられること自体がすでに達成であるし、そもそも「フィーリング」が伝わっているという事実があるので、うまいこと言えないなんていうのは些末なことにすぎない。

自分が辿りつつある線の軌道を確認するために永原真夏のライブを見に行くというのは私にとってはかなり有用だ。貼された点ではなく不断に引かれつつある線として見られるから、こちらの線との比較や定位がより精確になるという気がする。

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