20220722

日記28

一昨日
YouTubeの竹脇まりなのエクササイズをやって捻る運動のとき痛めた背中がすこし回復したので予定通り神宮球場にナイターを見に行った。初めてのプロ野球観戦で、野球そのものというより、それを見るために集まる観客と大勢の人を収容する球場のほうに興味があったのだが、神宮球場の雰囲気は期待以上のものだった。夕暮れ頃から段々暗くなっていく様子にも風情があったし、柔らかい風が時折吹いて涼しさが届くのも、目にも賑やかなビールの売り子が通路を行き来するのにも、特有の面白さがあった。一番安い外野席で、周囲を見回しても応援に熱が入るような席ではなかったし、そもそも自分たちが応援したい側とは反対側のビジター席になったけれど、一緒に行った人とゆるゆる会話を楽しむには適した環境だと思った。
試合は取っては取り返す展開で、2−2から2−4になり、たしか7回に村上のHRで2−7になって巨人が負けた。途中、友人の知り合いが芥川賞を受賞するの報に接して驚いた。
帰り道にたまたま同日に開催されていた国立競技場でのPSG−川崎の試合終わりの観客と合流し、おそらく平日にしては普段の倍賑わっていたと思う。信濃町までは歩道に人が溢れているような状況だったが、友人の最寄りである四ツ谷まで来る頃には普段の人通りになっていた。歩いて神宮球場に行って、歩いて帰ってこられるというのはリアルホームの感があり、さすが「一応生粋のスワローズファン」と名乗るだけのことはある。目と鼻の先に住んでいるというのが生粋にかかり、住みはじめて3年ほど経って初めて観戦しに行くしかも事前予約を怠ってビジター席になるというのが一応にかかる。
四ツ谷駅まで見送ってもらって吉祥寺に帰る。球場のビールが半額だったのでつい調子に乗ってグビグビ飲んだ結果、頭が痛くなってしまい、水をガブガブ飲んでから寝る。
球場での野球観戦はこれがはじめてで、その後は結局行っていない。ものめずらしさと一度は行っておきたいという経験主義のためだけに行ったようなものなので、さもありなんというかなんというか。あれから色々あったのかどうなのか、友人は四ツ谷を引き払って北区に引っ込み、自分は吉祥寺を去って下北沢に戻った。TCBは「中央線系人文ユニット」でやっていたんだがな。あとのひとりは三鷹にいるからかろうじてセーフ、首の皮一枚つながっているというやつだ。
そういえば酒の飲み過ぎで頭が痛くなるということをしばらくやっていない。そこまで大胆に飲むということを最近ではやらなくなったというのもあるが、Lシステインを知って酒を飲んだ後に摂取するようになったのが大きい。これはかなり効く。過去の深酒でつらい思いをした自分に教えてやりたい。白髪が増えるという副作用があるらしく、本来は同時にビオチンを摂ってそれを抑えるらしいのだが、白髪が生えていってほしいという願望があるためビオチンは摂っていない。たしかに一年前より白髪が目に見えて多くなってきた。

昨日
朝起きて『失われた時を求めて』を読む。一日中家でだらだらしていたのでヤバさを感じ、18時過ぎに出かける準備をしてスタバに行く。
前日の酒の悪影響だと思われる。

http://s-scrap.com/7850
上の記事を読んで、よくまとまっているなと感心する。名誉の文化・尊厳の文化・被害者意識の文化という区分が面白い。言葉によって議論を先にすすめることができるというのを実感した。私は尊厳の文化を良しとするので今回の論旨には賛成するところが大きい。
ウィル・スミスの件をこのタイミングで取り上げているのも、たんなるスキャンダル熱とは一線を画す物事の取り扱い方という感じがして好ましい。名誉の文化の説明に適していてわかりやすいから取り上げたのだろうが、それにしてもタイミングがちょうどいい。
タイミングがちょうどいいというのは、次から次にくるニュースに押し流されたちょうどそのタイミングで取り上げたからだ。ニュース消費に冷水を浴びせる効果があると思ったのだろう。

マイクロアグレッションに関しては、必要だという気がする。世間の声というものに対して適当な受け止め方をするというのとセットで、個人が個人の立場から見えるものを外に訴えていくというのは理にかなった重要なことだと思うからだ。問題は発信者側にあるのではなく、受け取り側にある。ひとつひとつの事例を話題として盛り上がるために消費して、たんなる吹き上がる熱にならないような工夫があれば良いのだけど、そもそも世間というのは主体性をもたない無責任なものだと考えて、あまり真に受けないようにこちら側で調整するほうが便宜だ。
許せないような怒りを覚える事件はたくさんあるので、こういうスタンスは冷淡に映るかもしれないが、それでも耳を傾けるべきなのは世間の声などではなく、最初に訴えを起こしたひとつひとつの声のほうだ。ただ、被害者になってしまった人がそれによって声を失ってしまうということは多くあるので、当人の代わりに上げられた声に耳を傾けることも必要になる。しかしそれにしても世間の声などに担わせるべきではなく、主体や責任のはっきりした媒体を通じて行われるべきだ。その意味でもテレビのワイドショーなどが世間の声としてSNSの文章を紹介するのはもはや時代にそぐわない。SNSはかわいい犬や猫の動画を紹介するときにだけ使うべきだ。あるいはテレビにおいて2chの意見を取り上げるとき「匿名掲示板ではこんな意見も…」と言っていたように、「Twitterではこんな意見も…」と胡散臭いニュアンスを付加しつつアナウンスすればいい。結局は受け取り側のリテラシーの問題ということになる。そして、個人の感覚からすればかなり遅いが、世間でもだんだんとTwitterの信頼性は下がっているんだろうから、わざわざそれを周知するような努力をしないでもいいはずだ。責任もはっきりしていない媒体が信頼性を取り戻すことはない。著名人の広告か、犬猫動物のかわいい動画のためにTwitterがあるという常識を獲得するために必要な10年はすでに経過している。
このまえテレビを見ていたら「インターネットではこんな意見も」という取り上げ方をされていた。皆が(というのは受け取る側が)SNSやらインターネットの受け取り方を覚えていくというのが現実的な落とし所という気がするし、もうそうなっていると考えていいと思う。若い世代がどう考えるかというのが重要だというふうにいつの間にか普通に考えるようになってしまった。

何だか話がわからなくなったので話を戻すと、マイクロアグレッションには、小さな声が可視化されるというところにその利点と、考えようによっては問題点を持つ。
個人が直面した問題に対して声を上げるという回路はすでに敷設されている。このようなインフラが整備されていること、SNSの拡散機能によって多くの人の目に止まる可能性を持つことはやはり歓迎すべきだ。しかし、ここには声同士が利益相反の関係になってしまうという問題がある。一方が注目されるということは、それによってべつの主張が注目されないことにつながるからだ。たとえば、世間を賑わすような大きな事件が起こると、小さな声が一時的に黙殺されるようなことは起こりうるだろう。
また、問題がたくさんあったり、問題が複雑だったりすると、受け取り側の問題(リソース不足)で反応を得られないことがある。
問題の多くは継続して起こっているものだから、その問題が継続しているかぎりは何度も声を上げることができる。できるというのも変な話だが、「こんな嫌なことがあった」という単発の事象ではなく、周期的に発生する問題や、たびたび困っているという継続的な問題に関しては、継続して声を上げることができる。
SNSには継続的な問題ではバズを引き起こしにくいという特徴がある。面白おかしいこと、突飛で信じられないようなことが注目を集めやすい。そのため、マイクロアグレッションとSNSは、本来相性がわるいといえる。問題の複雑さを切り捨てた、受け取り側の感情に直接的に訴えるような表現ばかりが取り沙汰され、結果的にそういった種類のものばかりが目に見えるようになると、どうしてもそこにある不整合や無理が目立つことになるからだ。しかしこれはマイクロアグレッションそのものに問題があるというよりは、Twitterでよく見るマイクロアグレッションとされる事象やその表現手段に問題があるということでしかない。
困っていて、生活もあるから表現に十分な時間を割くこともできず、お手本となる注目を集めやすいやり方を普段から目にしているとなると、ほとんど必然的に、彼らの表現は一定の形式・ミームに収束されることになる。そうやって量産される文章は、読む人が読めば、どうしても不整合や不要な修飾が目につき、いたずらに針小棒大な、信用できないものだということになってしまう。
マイクロアグレッションそのものに意義があるとすれば、それは個人の置かれている立場やものの見方を立脚点にしているところにある。岡目八目ではないが、問題の当事者には見えずに、当事者ではない立場の野次馬に見えやすい観点があるのと同じで、野次馬には見えず、問題の当事者だけに見える問題もあると考えた方が危険が少ない。さらに、そういった問題は、原則として当人が声を上げないかぎり存在しないものとされるということにも注意しなければならない。自身を取り巻く状況などの複雑さを切り捨てない形でマイクロアグレッションがあると表明することは簡単にできることではないかもしれないが、答えやすいアンケートを作成するスキルなどを用いてフォーマットを整備することや、近親者が問題を聞き取りやすくするために聞き取り調査のスキルを展開することは有用だと思われる。注目されることを求めず、したがって問題解決を一旦棚上げにして、ただ自分自身の立場から見える問題を自身を取り巻く環境とともに列挙することができれば、マイクロアグレッションの意義は小さくない。べつの立場における似たような状況というのはどこかに必ずあると考えられるし、他人ではありながらまったくの他人とは思えないそういう誰かの役に立つこともあると考えることはそれ自体が助けになるだろうからだ。
結局のところ、「弱い立場」についてどう考えるかということだと思う。庇護するべきと考えるのではなく、我が事と考えて(将来的には、生きていられるかぎりは必ず弱者になる)、庇護されるべきと考える回路を自分のなかに引き込むのが重要だと思われる。それは権利意識を持って権利を主張することだが、それを不正だとか、ラクをしようとしているとか捉えることをとにかく止めるべきだ。他人の権利は認められるかぎり認めるべきだ。それでは社会が立ち行かないとか、社会全体がだめになるという主張は、それこそ絵に描いた餅ならぬ絵に描いた壁だ。社会の危機はなんとかなるし、どうにかできる。個人の危機はなんとかできないし、どうにもできないことが多い。それなのにここをあべこべに考えて、社会のためと称して個人を貶めるようなことをするとしたら間違っているので止めるべきだ。「人が社会のために何をできるかではない。社会が人のために何をできるかだ」という逆JFK的態度を各人が身に付けなければならない。生産性はロボットが上げてくれる。それを邪魔しないのが大事だ。

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