20220726
日記31
20220724
日記30
昨日
コピスの6Fジュンク堂書店で『ゴジラS.P』を買う。PARCOの1Fシティベーカリーで買った本を読む。
面白い小説というのは、自分が読める小説の範囲内にしかない。外国語で書かれていたり、古語で書かれている文章作品について、翻訳を通してしか読むことができないというのもそうだが、もし自分が文学にまったくの不案内で知的好奇心にも欠けており、読める小説の範囲内で本を選んで満足する本好きだったとすると、文学の正統とされるものや古典的名作とされる作品を素通りして平気だったのだろう。今、芥川賞作家の作品や直木賞作家の作品、本屋で売れているとされるジャンルの小説をスルーしても何の痛痒も感じないのとまったく同じように。
それらがべつのことであり、自分の読んでいないものではなく自分が読んでいて多くの人が読んでいないものの方に読むべきものがあると主張するには、それが古典的名作だから、有名な文学作品だからという理由だけで押していくのは無理がある。それは権威主義ではないかと言われて終わりだ。
しかし、他の言い方はとくに思いつかない。自分が言うとしたら次のようになる。
小説を読んでいるということは、あなたもいつか小説を書くということなのだからそのときの自分の役に立つように、いまの自分自身の外にあるものを探しに行くように習慣づけたほうがいい。
これについては、いいや、私は小説を書く気もないし、いつか小説を書こうという気を起こすこともないと返されて終わりだ。しかし、自分としてはその意見というか言い草には異議を唱える。それは、その人の言う私は小説を書くことはないという意見について、嘘をついているにちがいないと言いたいのではない。そんなふうに上から下に落ちていくように小説を読んで、何が楽しいのだと糾弾したいような気になるのだ。本当には小説を書かないでもいいが、いくらかは自分が小説を書くということを考えないでいて、あなたの人生に小説が必要だということの意味が私にはわからない。たしかに、「書ける/書けない」の問題が「書きたい」の先にある。それにしても「書きたい、だけど書けない」と思っているほうが潔いのではないか。諦めたままで小説を読むことの居心地の悪さを小説を読むことに感じないで、小説が読めるとは思えない。そんな体たらくでも読める小説を読みたいというのであれば、私はそんな小説は、というかそんな読書はつまらないと思う。それは私が現在売れている小説を読まない理由とはちがう。
海を見に行く前日、ピンチョンの『V.』を読み返した。小説全体の中でもとくに目立つ場面というわけでもなく、何ということもないシーンなのだが、スケールの大きさと細やかさの両方があった。ある人物の目線から主要人物の動向が語られるのだが、その人物の物語に対する役割とはまったく関係ないところに彼の生きる世界がある。章の中の一節にしか登場しない人物でありながら、そこだけを読んだとしたら、まぎれもなく彼がこの小説全体の主人公だと感じられる。チョイ役に目鼻をつけて台詞も与えてやるというレベルの話ではなく、これから彼の冒険が始まるのだと思わせられるように書かれている。だが、じつのところ、その場面というのはふたりいる主人公の片割れがいつか誰かの話を聞いて再構成した昔話を思い出しているいわば妄想シーンでしかない。Vの秘密に迫るため、何らかの重要な役割を担っていると考えられている女性と関係している男二人をただ見かけただけの列車の客室係の目線で、男二人の異常さ・冷徹さを描くというのが、この場面の小説内での位置づけということになろうかと思う。
そこにグローバルな視座とそれによるスケール感も乗っかってくるから、本当に敵わないと思わさせられる。しかし、このあたりは非常によく書かれているとはいえ、ある程度勢いで書き飛ばしていると考えることもできる。たとえば『ヴァインランド』では日本人のタケシフミモタが登場するが、それは日本人のイメージとぴったり一致するような登場人物ではない。もちろん、彼も活き活きとして活躍するから、そんなイメージとの一致がないからといってそれがどうしたということでしかないのだが、地中海の多様な民族がまじわる土地のダイナミズムを見せられ、その知らない世界を活き活きと描いているからといって、正確さを含めたすべてのバロメータが途轍もなく高度であるというのは目を瞑ってバンザイするようなものだ。
小説を書き始めてからあらためて読み始めた『V.』は面白すぎる。再再読だから、初読・再読時よりも細かいところに気がつくようになって、よりその面白さを掴めるようになってきたというのもあるだろうが、自分の小説を書いているとピンチョンの書きぶりの特徴がわかる。これはどの作家の作品についても言えることだろうと思うのだが、それにしてもピンチョンの場面の飛ばし方はすごい。一回で全部が入ってこないのだから考えようによっては説明不足だといえると思うのだが、何かを説明している余裕などないのだろう。そもそも数回読めばわかるようになっているのだから説明不足ではなく、たんに読む側の認識・認知能力の不足でしかない。これに関しては数回読み返して補っていくしかない。
家の前の蒙古タンメン中本で五目蒙古タンメンを食べる。ちょうどギリギリの辛さで汗が吹き出たけれど、辛いだけではなくちゃんと美味しかった。15時半ごろから家でSwitchのボードゲームをして遊ぶ。ウィングスパンで一敗地に塗れ、メンバーが増え三人になってから再度海底探検、エセ芸術家で遊ぶ。最後に締めのドブルで勝ちを収め、会がお開きになる。
引っ越しを二日後に控えていたので、遊びながらも準備を着々と進め、大方済む。
このときはわりとよく集まって遊んでいたが最近はTCBのメンバーが揃うことも少なくなって若干の寂しさがある。
今日
近所の町中華「龍明楼」で豚バラチャーハンを食べる。ここは気軽に行けて良い店だった。在宅勤務の折にはワンコインの弁当にだいぶお世話になった。下北沢の新居の鍵を受け取り、アースレッドプロαの蒸散のため新居に行く。エキウエのスタバで本を読んで、吉祥寺に帰る。1年半ほど吉祥寺に帰る生活を続けたが、結局コロナ騒動の最中に引っ越してきてコロナ騒動の最中に引っ越していくことになった。前半はとくに飲み屋などの開拓がろくにできず、ポテンシャルのいち部分しか楽しめなかったのは残念だったが、電車に乗らないでも全部が解決できる便利さは便利だけど、やはり街全体は郊外の域を出ない。それを象徴するのが駅前のバスで、とくに公園口のバスの動線の酷さがいかにも郊外然としており、著しく街の格調を下げている。せっかく井の頭公園があるのに、公園に行くまでの道があんな体たらくになっているのは相当マイナスが大きいということに街作り担当は気がつかないものだろうか。吉祥寺に住むために駅徒歩30分の場所を選ぶ人の足としてバスの輸送力が欠かせないんだとしても、あの狭い道をバスが通るのと、安全確保のために警備員が拡声器の大音量で注意を促す景観は、控えめに言っても前時代的で、みっともいいものではない。
吉祥寺は二流の街であるというのが一年半ほど住んで出した結論だ。一流の街になるためには駅前のバス動線の醜さを解消する必要がある。新宿渋谷まで20分足らずで行けるアクセスと井の頭公園を持ちつつ一流になれないということの意味を重く受け止める必要がある。公民館も各所に点在していてよかった。図書館も街なかにあって利便性が高い。それにもかかわらず一流になれないのは、駅前のバスがいらぬ混雑を生んでおり、通行人をみっともない気持ちにさせるからだ。
20220723
日記29
昨日
市政センターに行き転出届を出す。香港風麻辣麺のファーストフード店で4小辛のラーメンを食べる。
その足で下北沢に移動し、スタバで『失われた時を求めて』を読む。円城塔の『ゴジラSP』が本屋に置いてあれば買って読みたかったのだが、二店舗回って見つからなかった。
永原真夏のワンマンライブを見るため、開場時間の19時ジャストにSHELTERに入る。MCで「無駄について考えている」と述べ、メンバーに対し「無駄だと思うものは何かないか」と話を振っていたのが気になって、その後の二曲のあいだじゅう「無駄」と言われてピンとくる答えを探し続けてしまった。ベスト回答は「2000円札」、挑戦したい回答は「16進数」というところに落ち着き、次の曲からはふたたび曲に集中することができた。ちなみにその曲が本構成のラストだった(その後アンコールでたしか4曲か5曲追加で歌ってくれた)。
ライブを見に来ていた友人らと下北の居酒屋に行って酒を飲み、電車で吉祥寺に戻って井の頭公園を散歩した。
永原真夏の歌は「そうだよなあ」という共感をもって聞ける。ただ聞く自分の側が少しずつ変化して図々しくなり、今では「そうだよな」が行き過ぎて当たり前のように感じられるようになってきた。たとえば「遊んで生きよう」に対しては、生きることがすでに遊ぶことだという認識でいるから、遊んで生きようと聞くと自分の中では「生きて生きよう」に変換されてしまう。ただ、この規模感のトートロジーはいつ聞いても可笑しくて楽しくなる。あと「泣いたり笑ったりできるんだよ」については、こっちも進み具合は同様だが、上のような言ってしまえば雑念は湧かないで、ストレートに共感して共振する。とはいえどっちの体験がどうというのはないし、永原真夏がMCでうまいこと言えないでいた「いわゆる”良い曲”だけが曲じゃない」というのはそのとおりだと思う。良いという言葉遣いをしてしまうとすでに罠にはまっていて[良い/わるい]の二分法にどうしても引っ張られるので、べつの言い方を工夫するべきだとは思うが、それでもじゅうぶんに意図を汲み取れる場の力学があった。そういう場をステージとして作り上げられること自体がすでに達成であるし、そもそも「フィーリング」が伝わっているという事実があるので、うまいこと言えないなんていうのは些末なことにすぎない。
自分が辿りつつある線の軌道を確認するために永原真夏のライブを見に行くというのは私にとってはかなり有用だ。貼された点ではなく不断に引かれつつある線として見られるから、こちらの線との比較や定位がより精確になるという気がする。
20220722
日記28
20220715
日記27
10日間の療養明け。10日間ぐらいは余裕だろうと思ったし事実余裕だったのだが、それはそれとして電車に乗って外出するのはやっぱり楽しい。雨に降られるのも苦にならず。
恵比寿に行った。
気に入っているパンツのブランドの直営店に試着をしに行く。ワイドとスタンダードのシルエットでそれぞれ46と48のサイズを履いてみた。パンツだけちゃんとしたものを履いて上はTシャツ一枚でも決まるというコンセプトのブランドで、下北沢の古着屋でたまたま見つけたコーデュロイ地のパンツが最高に格好良く、買って以降ずっと気に入って履いているので勇気を出して直営店に行ってみた。金さえあれば試着した二本とも持って帰りたかった。隣の眼鏡屋で気になるサングラスをかけてみる。六角形のレンズの形と理想的なハーフリムがこれまた購買欲をそそった。もとのイメージはIVのドックなので茶色がかったレンズを考えていたが、かけてみると自分にはグレーが似合うということがわかった。場の力に当てられて舞い上がっていただけの気もするし、何より値段が値段なのでもちろん即決などできず、力なく「一旦持ち帰ります」と店員に述べて店をあとにした。
NEATというブランド。この後、別の機会にここのパンツを衝動買いする。格好いいが難しい色を買ってしまい、これまでのところ全然着られていない。いつか履くぞとスタンバイの気分が続いているので、それはそれで甲斐がないとは一概に言えないが。
どういう思考回路か上記の腹いせに髪の毛を金色にした。オーダーがうまくいき前回の金髪よりも明るい金になったので達成感がある。達成といってもイスの上に座ってされるがままになったり一定時間を待ち呆けたりしただけなのだが。金髪にすると手軽に気分が変わって良いという知見をほとんど前回感じたままに更新することができた。金髪にするのは、黒髪に戻すときにもまた気分が変わるので、二度おいしい。キューティクルを気にしない人にはおすすめのライフハックだ。自分は人工でないパーマがかかっている髪質なのでキューティクルなど始めから気にしない。
調べて吉祥寺のお店に行った。金髪にするというのは、髪型に関してこだわりがない(しっくりくる髪型を見つけられていない)自分にとってはとてもラクでしかも気分転換にかなり効果のある変更なので今後も折を見てやっていきたい。とは思うものの、最初にやったときの爽快感は目減りしていく気がするし、頃合いを見てやるというのが大事になってくる。
久しぶりにスタバに来てトーマス・ベルンハルト『破滅者』の続きを読む。真面目な小説なんだろうと思うけど、3分の1できたところの印象では、真剣で殺伐としすぎておりイマイチ乗れない。田舎暮らしは馬鹿になるという記述はあからさまで良かった。逆に人生なんて最低だと述懐するところなどは安易でつまらない、と私は思った。
トーマス・ベルンハルトはこのとき気分じゃなかった。ただしそんな気分は二度とやってこない気もする。
夜、日本酒のワンコインバーで飲む。つねに好きなもののランキングを更新していったほうがいいのではないかというような話をする。かつての活き活きした感受性を硬直した化石のように取り扱うのは、それ自体も趣味嗜好の領域であるとはいえ、倒錯的なスタンスであるとの認識でいたほうが後々そんなつもりじゃなかったという事態を避けられるのではないか。「俺はこれでいく」とドグマ的決め打ちをして逃げ切るにしても道のりはまだまだあるし途中で息切れを起こすのは火を見るより明らかだ。遅れて気づいたとき、何かを発掘するための気力が残っていない可能性は高い。それで言うとすでに手遅れの可能性さえある。もう終了でいいですと思っている場合、諦めたらそこで試合終了ですよといっても決め台詞にならない。北斗神拳の達人が言うあの台詞のほうが状況に適合する。
昔好きだったものが今はもう好きじゃないと正直に言うことは、好きなものを見つけていくために必要な手続きなのではないかというのがここでの主張だった。あとは、好きさの度合い・好きという感情の大きさが往時より低減していることを認めざるを得ないということ。それから、今の感情エネルギーを使って好きになれるものこそ今の自分にとって好きなものなんだと認めるほうが真っ当なのではないか。真っ当である必要もないけど、マストではないからこそそこを目指すという目も出てくるのではないか、ということも言いたかったのだと思う。わりと攻撃的な言い方だが。
物語のように
物語のように
「物語のように」のあとに続く言葉が思いつかない。「物語のように」というのを「物語的に」ととるなら、本来物語に属さないものを物語的な見方で見てみるという意味になる。だが、物語に属さないものは存在しない。そして、存在しないものを言葉で言い表すことはできない。私を介して言葉を扱うと、どの言葉も物語に属することになるからだ。
以上のことは原理原則だが、原理原則から水準を落としたうえで、物語に属さないものとは何か考えると、「ニュース」や「金融情報」などが当てはまるだろうか。しかし、そういったところにも物語的なものの見方は浸透していて、日常の気分から切り離すのは困難である。ニュースや金融情報に左右される私に直面しないまでも、それに左右される私を想像してしまうことは避けようがない。それでも強いてその線で物語外のものを追い求めると「数字」や「データの羅列」というところまで行く。たしかにニュースや金融情報から物語的な臭みを脱臭してデータや数字に近づけることはできるのだろうし、職業としてそれらを取り扱う人たちが価値提供するのはそういった漂白済みの情報である。しかし、それは手段であって目的ではない。情報を一旦バラにする目的は、データを編成しなおしてべつの見方を提供することである。
しかし、それがうまく成されるところにもまた物語が忍び込む。ある情報が上手にスムーズに伝達されるというところにべつの物語的な要素が成立しないではいられない。数字を見て判断するという行為には卓越した部分が見られ、卓越した部分には物語が読み取られることになる。ニュースや金融情報をあえてデータとして扱うことをせずに、その後ろにいるひとりの人間のことを想像するなら、それも物語ということになる。いずれにせよ、いついかなる時でもどんな場所においても、言葉がイメージに結びつくとき、発火する何かがあるとすればそれは物語の範疇であってその外にあるとは言えない。そして、物語の外にあるものでなければ「物語のように」のあとに続けないという決まりがあれば、あとに続く言葉は何もないはずだ。すべてが物語であるとするなら「物語のように」という形容表現が成立する余地はない。
物語のうちにあって、あえて「物語のように」というのは、そこにある物語要素を強調するレトリックであり、装飾である。言ってみれば「物語のように」というのはレトリックでしかあり得ない。そもそも物語そのものにしてからがレトリックでしかあり得ないともいえる。イメージの効果的な伝達を目的と考えれば、その手段としてレトリックを弄することにも理はある。
自然発生的に湧き上がる物語性を極力排除して事に当たるというのは技術の要ることであるし、それによって得られる知見は無視できない。また物語というのはその高低を度外視すればありふれていて珍しくない。しかも個人に浸透して当人のものの見方に相当の影響を与える。むしろ彼のものの見方そのものを彼の物語と見なすことさえできる。彼個人の物語が彼個人の内部にだけある場合には問題は発生しづらい。あるイメージ(の制作)は、制作者によって間断なく修正することが可能で、しかも意識の上に載せないでも、外部からの影響で勝手に変更されることもある。考えていることを形にする習慣を持たない人は、柔軟に思考を変化させ、しかもその変化に自分自身気がつかないでいるということもざらである。彼は考えていないわけではない。社会が考えるように考えているのである。このように述べるとき、「考えている」の意味を問おうとするのは無益である。「社会」の適用範囲のほうを考えなければならない。彼から見えない場所は「社会」になりえない。彼にとって見えるところが社会であって、逆に見えないところは彼以外からどれだけ価値があると評価されようが社会にはならないということが問題にされるべきなのだ。もし何らかの形で彼の内部から彼の物語が漏出するようなことがあれば、それは評価の対象になりうる。イメージから物語への昇格を果たしたといえる。
物語の高低というのは何をもって計れるかといえば、イメージ伝達の効果によってである。レトリックにすぎないという批判が暗に示そうとしているのは、その言表のイメージ伝達効率の低さであると考えられる。装飾的で伝えるところが少ないと言いたいのである。この言い方では装飾的であることと伝えるところが少ないことが不可分であるような印象を与えるが、それも企図しないわけではないだろう。もっと簡潔にまとめろという要求も含意していると考えて差し支えない。受信側からすれば当然の要求かもしれないが、発信内容によってはこれは無視してもかまわない。受信側の立場を無視すれば、イメージ伝達効率は第二義的なものにすぎない。イメージと物語は別物であり、物語に対するイメージの正誤表は、まずは彼自身の内部にしか存在しないからだ。伝わるように伝えようとした結果、正誤表から逸脱した場合、それを保証してくれるものは存在しない。イメージとは、必ずしも物語のように伝達しなければならないわけのものではない。こう考えたとき「物語のように」という形容がつながっていく先があきらかになる。物語未満・物語以前のイメージが、べつの内部に直接もたらされ、そのまま物語以後のイメージになったとするなら、それは「物語のように」伝達されたと考えてまさか不都合はあるまい。
坂本慎太郎の音楽アルバム『物語のように』を聞くと、言葉が流れていく不思議を体験できる。
私は歌を聞くとき、一も二もなく、とにかく歌詞に注目する。歌手が何と言っているのかが気にかかって鳴っている楽器のボリュームを(脳内で)落として声にばかり注意を向けてしまう。また、どんな言葉が歌い上げられているかで楽曲を評価してはばからないうえ、演奏の巧拙などはまったくわからないまま平気で音楽を聞いている。
裏を返せば、歌曲の評価軸は歌詞一本にあるということで、音楽に関する趣味の反映はまったく言葉のうちにある。坂本慎太郎の音楽を愛好するのも、彼の言葉遣いに依るところが大きい。それでも、はじめて『物語のように』を聞いたとき、言葉がなめらかに入ってきて、聞き終わってすぐだったのにもかかわらず何と歌っているのか思い出せなかった。もう一度聞こうと思って同じ曲を再生したが、まるで同じことが繰り返された。歌詞の「物語のように」のあとに続く言葉が思い出せないのである。音楽を聞くことの大部分が歌詞にある身からすれば、これでは何も聞いていなかったのと同じことになるし、一回目はともかく、二回目は歌詞に注意して聞こうと思ったのにもかかわらず、歌詞ははっきり聞こえていてなおかつそれを覚えていられなかった。
これを破滅的な記憶力の低下だとは見なさずに、坂本慎太郎の奥義おそるべしと外因に帰責するのは、われながら便利な回路を持っているものだと感心させられるが、この不思議な感覚は、『ナマで踊ろう』『幽霊の気分で』『できれば愛を』でも見られなかったことで、今回の『物語のように』との接触には動揺をともなった新たな感動があった。ある意味これが「音楽を聞く」の最初だったかもしれない。
20220701
その悲しみと喜びがどこにもたどり着かないとしても
フィリップ・シーモア・ホフマンがもう死んでいてこの世にはいないという事実を、ふとしたときに思い出して悲しくなる。2014年2月以降、ずっと悲しいし、その悲しみが意味のないものだと思うと虚しくもある。意味のある/意味のない悲しみというのは、悲しみの側から見ればそれこそナンセンスな区分なのだが、一方で、意味の側から見れば厳然として存在する区分けだ。だからフィリップ・シーモア・ホフマンのことを思い出して悲しくなるときは大体いつも虚しくなって終わる。実際に会ったわけでもない人物の不在を悲しむのはおかしい。それに、もし彼が死んでいなかったなら彼のことを思い出す機会はもっと少なかっただろうというのは容易に想像できることだからやはり身勝手な悲しみだと思う。悲しむべき根拠に欠ける、いたずらに感傷に浸りたいがための悲しみではないかと、ちょっと思ってしまうのだ。少なくとも誰かに訴えていいような悲しみではない、黙って悲しんでいればそれでいいと。
悲しいとき、自分より悲しい人がいると思うと、自分の悲しみを開け広げにしないで控えていようとする意識が働く。そしてすぐにそういうのは本質的ではないと感じるから虚しくなるのだ。それでも全部無視して言ってしまえば、悲しいものはやっぱり悲しい。もっといろんな作品が見られたはずだったという可能性が閉ざされた悔しさもある、振り返るための過去が打ち止めになってしまったという無念さもある。でも違う。近いところからそれを表現しようとするとかならず、たちまちのうちにでも違うへと至る。どんな形でもいいから悲しみを表現しないとやりきれないのに、でも違うに遮られて表現できないから鬱屈する。鬱屈に耐えかねて穴をあけるとそこから隙間風が入り込んで虚しくなる。悲しくてつらくて苦しいと言いたいわけではない。意味ある悲しみを悲しみたいというのでもない。しいていえば、別の感情にすがたを借りて代わりにそれを迸らせてほしいという望みがある。どんな形でもいいからと思いながらどうしても形にこだわってしまう。わたしの悲しみはただ悲しいと言うだけでは不十分だ。まずは、楽しいことや嬉しいこと、驚いたことに「悲しみ」という名前を与えてみて、それが意外にもフィットする様をじっくり味わうことが必要だ。そうするのは悲しさの中心を直視できないからだが、直視できないからといって背を向けたいわけではない。だから中心ではなく周縁を見る。これは斜に構えたり目を背けたりしないために講じるべき、わたしにとって必要な手段だ。
フィリップ・シーモア・ホフマンが出ている映画を楽しんで見てきた身には彼が赤の他人だとはどうしても思えない。画面に映し出される彼の困惑した表情が笑顔のような動き方をするのを見て、暗闇の中でミラーニューロンの実在を感じさせられたのは一度や二度のことではない。
映画を見に行くとき、できるかぎり前情報をシャットアウトして映画館の席に座ることを心がけている。だから『リコリス・ピザ』の主演のひとりクーパー・ホフマンが、あのフィリップ・シーモア・ホフマンの息子だということも、半年ぐらい前に予告を見て以来頭の中からほとんど抜けていた。しかし映画が始まるとすぐそのことを思い出す。ゲイリー役のクーパー・ホフマンには笑ってしまうほど父の面影があり、これが面影があるという言葉の意味だとまざまざと感じさせられた。それで映画を見ながらフィリップ・シーモア・ホフマンのことを思い出して悲しくなった。今まで思い出したなかでもとりわけ良い形で。
映画の内容は、私が思うラブコメディの理想といえるもので、『パンチドランク・ラブ』『崖の上のポニョ』に匹敵するか、それ以上の出来だった。『門』の宗助と御米のように、お互い同士しか存在しないから結びつくというのは、無人島での純愛のようなもので言ってしまえばシチュエーション依存の域をでない。ロマンティックラブは達成されるかもしれないが、いやしくもラブコメディという以上、それだけでは物足りない。『リコリス・ピザ』のアラナとゲイリーは、お互いにとってお互いしか存在しないわけではないからこそ、ときにお互いから離れる一歩が、そしてお互いに向かって走る一歩がよりいっそうドラマティックなものとなる。スクリーンに映るアラナを、あるいはゲイリーを見つめていて、今走ってほしいと思った瞬間に、カメラが右、あるいは左方向にふたりを追いかけるシーンに移っている。この胸のすくアクションはラブコメディではあまり見ない。
ふたりの動きを眺めていると、全体として、尺取虫のすすみ方を思い起こさせる。尺取虫は頭と尻がくっついては離れ、離れてはくっついてを繰り返しながらすすんでいく。彼らの運動も、頭と尻の役割を入れ替えながらではあるが、まったく同じである。それでも、クライマックスのシーンではくっつくスピードの早さについ笑ってしまいそうになる。同時に、眩しいほどの、感動を誘うなにかがある。
ふたりは若すぎるから、すぐまた同程度の速力でお互いから離れていくのだろう。そして今度という今度こそ、とうとう千切れて跡形もなくなってしまうかもしれない。そうなったら可笑しいし、ただ可笑しいだけではなく無意味な可笑しさがあると思うが、そうなったとしても全然何も気にしないでいられる。最終的に形をなすかどうかに左右されない可笑しさがあるというまさにそのことが、彼らにとっても私たちにとっても最良のことなんだと思えるからだ。それ以上を望むのは、この映画にかぎっていえば、むしろ何も望まないことに等しい。
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