ようやくping-tのピックアップ問題すべてを処理する。とはいえ、まだ正答率が7割程度、ピックアップ問題以外には手つかずの状況なのでもう少し時間がかかりそう。
カルロ・ロヴェッリの『世界は関係でできている』を読み終わる。同じ著者の『時間は存在しない』の方がついていけた。2部までは面白かったが3部に入ってからついていけず。ある哲学の考え方(独我論)について「直感」に根ざしていて駄目だと書いてあったが、なぜ直感に根ざして考えることが駄目なのかについては納得できず。直感からスタートして理論を積み重ねるのは前提が間違っているから駄目(進展がのぞめない)、最初から考え直す必要があるというのは、古典物理学から量子論へのジャンプにおいて適用できたことで、あくまで一例でしかない。この本は量子論にいたる道筋と考え方のエッセンスを抽出し、瓶詰めにして輸出している。いろいろな物事について考えるにあたって「前提を疑う」回路を使う際、古典物理学→量子論の例を援用するのはたしかに有効だと思うが、それでも即全体に適用できるとするのには無理がある。「直感だから駄目だ」と言うのはいわば省略形だが、それが有効に機能する場面はそこまで多くないはずだ。「これは科学的知見だからOK、あれは直感だからNG」という判定が幅を利かせるようになるとその分だけ科学の進展を遅滞させる。そうした決定は科学と社会とのギャップを広げるようにも作用するからだ。科学の知見を持たないほとんどの人にとって「理解は出来ないけれど正しいに違いない」というスタンスは便宜でもあり欠かせないものでもあるが、そうやって獲得された権威は科学自身のためにならない。資金・実行力を得れば得るだけ、社会からみて目に見える結果が求められるようになる。そうなったとき、社会の視力が維持されていることを望まなければならないのに、それが十分でないとすれば、新しい知見やひょんなところからの突破口(セレンディピティ)が得られなくなることに繋がっていくだろう。セレンディピティを期待するためにも、個々の研究は実効力の説明をある程度免除されるべきだ。そのため、科学自身にとっても社会の中に科学のマインドを持つ人を増やすことが重要になる。「これは科学的知見だからOK、あれは直感だからNG」という判定そのものはただの判定であってそれだけでは足りない。その意味でも、この本には科学のマインドに触れる機会を提供する役割があり、その役割を果たしている。紙幅の制限等もあり完全にというわけにはいかないが、そもそも「科学のマインド」はもう少し複雑であって、1,2冊の本で触れるのに完全というのはあり得ないのだろう。
社会と科学研究との進み方にはギャップがあり、個人個人のあいだにも進度の差があることを考えると、社会設計において遅い方に合わせて安全を確保するというのは理にかなっている。ただ、個人が社会のスピードに合わせる必要は全く無いと私は思う。早すぎると攻撃を受けるのはどの時代でも変わらないのだろうが、今やその攻撃も自由概念が緩衝材として機能する以上昔ほど苛烈ではないだろう。攻撃を厭うのであればスピードを緩める選択もある。
個人は社会がよしとする考え方よりも前に出ることができる。社会がそれを前だと認めるかどうかはまた別の話だが。また、科学研究は個人にとって方向を指し示す針にはなっても、攻撃を受ける盾や鎧にはならないものと思う。それでは彼自身にとって十分なスピードが出ないと思うからだ。もっとも、社会がよしとする範囲にきちんと収まろうとするのであればその限りではない。
図書館で伴名練『なめらかな世界と、その敵』を手に取り表題作を読む。伴名練が編んだSFアンソロジーに手を付けるかどうか悩んだ末、伴名練の代表作を読んで決めようと考えてのことだったが、このやり方は成功した。すでに消化しきれないほどの読書リストがあるのだが、それが消化できたあとでも問題ないと判断できた。SFにせよ何にせよ「ジャンル読み」はやりたくないのでその方針にも沿う。
エイモス・チュツオーラ『やし酒のみ』を3分の2のところまで読む。面白いとは思うのだが、世界ウルルン滞在記を見て感じたようなあまり好きではない種類の面白さで、「アフリカ文学の最高傑作(帯文にそう書いてあった)」だとはとても思えない。海外の人が『痴人の愛』『豊饒の海』をさしおいて『源氏物語』を日本文学の最高傑作として挙げているのを見るような違和感がある(三作とも読んでいない上、谷崎も三島も好きではないのでいい加減もいい加減だが)。