久しぶり日記になった。ここ最近はping-tの問題を解いてばかりいた。
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昨日
先週木曜に行ったゲルハルト・リヒター展でゲルハルト・リヒターに興味を持ち、すぐに図書館で予約して待ち、やっと借りられた『ゲルハルト・リヒター 写真論/絵画論』を読む。対談集というかインタビュー集の形式だが、そこでかけられるすべての質問に対してはっきり答えていて、質問に対する答えとして不明瞭なところや、逆に質問意図を汲み取りすぎて迎合的な答えになっているところが一切ない。
”僕の作品にはトリックもシニズムも小手先の皮肉もない。反対に、僕はほとんど素人のように、なんにでもストレートにとりくみすぎていて、考えや行動が全部あけすけになってしまっているほどだ。だから僕には、具象絵画と抽象絵画のあいだの矛盾というのが、なんのことかよくわからない。”56p
”―写真家は何分の一秒しか必要としません。あなたは何時間もかけて、これらのディテールをすべて制作しなければならない。
でもそれが作業というものですからね。つまり、黙って眺めていないで、なにかすることができるということです。それがすべてを耐えやすくしてくれます。”88p
上のような言葉を聞けば、ゲルハルト・リヒターが何よりもまず制作者だということが明らかになる。当然、展示を見に行って絵を間近で見れば、もっと直接的にそれがはっきりするのだが、自分が制作者であって、つねに制作をしているということからくる安心は、外から見ると僧侶が信仰に生きているのと同じに見える。ひとりひとりの僧侶がどれだけ信仰を篤く持っているかというのは目に見えないのと同じで、ひとりひとりの画家がどれだけ制作にとりくんでいるかも見えない。ただし、制作された作品は目で見ることができ、目で見られることを条件に作られている。
自分の目で見て、それにもとづいてなにかするというのが仕事だとすれば、見たいものを見てそれにもとづいてなにかするというのがやりたい仕事ということか。
成功した画家を見ろ。彼らはお金があるからもう描かないとは言わない。成功していない画家を見ろ。彼らはお金がないからもう描けないとは言わない。だから結局、ただ単にもう描けなくなった元・画家と、今まさに描いている画家の二種類がいるのみだ。彼らが一日のうち作品制作に費やせる時間は最長で15時間だ。睡眠時間以外の休憩もじっさいには必要だろうから、どれだけ長くても12時間が限界だろうと思う。それ以上はクリエイティビティを発揮できる時間の使い方にはならない。自分が今使える時間は一日4時間だ。これだと巨人のような仕事をこなした人と比べて3分の1の進みしか望めない。が、これまでの受信的な生活と比べると、今は彼らの3分の1ほども進めるための時間があるのかと驚く。冷静に考えると仕事をしているせいで時間がないというのはもはや言い訳にならない。
お好み焼きが食べたくなったので、スーパーに行って薄力粉、ソース、サラダ油、鶏卵、キャベツを買ってきて、お好み焼きを焼き、サッカーを見ながら食べた。結果は0−3の敗戦。どうやら日本代表チームは雨に弱いようだ。あと、チームワーク重視のチームがチーム内競争を煽られると難しいんだと思う。相手からすると軸が見えやすいし、軸を押さえればまとまりは失われるというのがそのとおりになった。
お好み焼きにもうまくできたお好み焼きとうまくできなかったお好み焼きがある。なぜかそのことを書いていないが、この日のお好み焼きは完全に失敗のお好み焼きだった。自分は料理などでも、できるかぎり一回で全部やろうと考える考え方の癖があってホットプレートに大量のお好みを投入しすぎたせいで全体に火が通らなかったのが失敗の主な原因だった。とくに中まで火が通らなかったところが多量にできたおかげで、生っぽくてたんに美味しくないだけではなく食べたら駄目な、お好み生焼ができてしまった。サッカー日本代表にダメ出ししている場合じゃない。そのときはお好み焼きを失敗させたことがクリティカルにすぎてむしろそういう場合だったのかもしれないが。
ゲルハルト・リヒターの絵のことは今も覚えている。制作過程も含めて、一見すると何かに近づいていこうとする意図を感じない絵だったが、それでも描いているあいだは作品は感性に向かっているということなのだろう。大量の反故ができて然るべき制作方法だと思うが、完成品の割合はどの程度になるのだろうか。とくにアブストラクトペインティングについて気になるが、中断せずにずっと描き続けるというアプローチをとるから意外と反故はなかったりするんだろうか。油絵の具のことをよく知らないからこういう疑問が出るのかと思って調べてみたら、アブストラクトペインティングはスキージで絵の具を塗ったり不要な箇所をナイフで削るという記述が見つかった。削っては付け足して、付け足しては削ってという手仕事を繰り返しているようで、その繰り返しの余地はほぼ無限にありそうだから、刷毛を投げないかぎりは反故になるということもなさそうだ。コンピュータを使えば簡単にリセットできるところを、実際のキャンバスやアクリル板を使うとそう簡単にリセットできないというところにも制作物としての特徴が表れそうだ。すごくエレメンタルな話だろうけど。
https://bijutsutecho.com/magazine/news/exhibition/21240
美術手帖のリヒター紹介記事