美学ということばを使うとき、「〇〇しない美学」というフォーマットがよく見られる。
たとえば、美学を押し付けない美学ということも考えられる。すなわち、自分は自分の美学を守る。しかし、それを他人に押し付けない。なるほどこれはじゅうぶん美学的な美学であるといえるだろう。内容は措いてもフォーマットをきっちり守っているからだ。内容をみても、自分のことは自分でやるという考え方を他人にも適用しているところに一貫性があり、一定の美学的効果を挙げている。しいて難点を挙げるとすれば、ここに見られる個人主義的なスタンスはいかにも美学然としていて、陳腐であるとの誹りを免れ得ないかもしれない。その対向に位置する、
美学を押し付けるのを厭わない美学
こちらの方がまだしもまともな美学であるとの考え方もあるだろう。少なくとも、わざわざ文章にして伝えるだけの甲斐ある美学だと思われる。聞く方でそれが美学だと思っていないものを美学と命名する方が、よしそれに反対する立場であったにせよ、その人にとっても新種の美学としての意義があるからである。ただしこの美学は美学として認められれば最後、その性質故に素早く伝播していき早晩陳腐化する運命にある。ただまあ、そもそも認められない可能性が高い。大勢の人にとって上の文言は、まともな美学どころかまともな考えだと思われないだろうからだ。美学掲出の当事者以外は押し付けられた美学を美学だとは見なさないという問題もある。推奨される美学ならまだしも、押し付けられてしまえば最低限の内発性も失われてしまう。そこで、
内発性を持たない美学
といった美学を急ごしらえで仮設し、美学を押し付けるのを厭わない美学が押し付けられるのを待つことはできよう。が、待つために上記の美学を仮設することがすでに内発性を含んでしまうことから、美学が内側から破綻してしまう。つまり、
内発性を持たず、破綻を意に介さない美学
という美学を誕生させる必要がある。しかしこうなってくるとべつの問題が発生する。先の「美学を押し付けるのを厭わない美学」が、どう考えても当美学の格下になってしまうことだ。もちろん、内発性を持たず、破綻を意に介さない美学の方ではそんな上下の問題はもはや問題ですらないのだが、その問題ですらないというあり方、超然とした姿勢が「美学を押し付けるのを厭わない美学」を圧倒し、萎縮させてしまう。せっかく押し付けてもらえるように工夫したというのに、その工夫の結果、美学を押し付けるのを厭わない美学が自らの美学を押し付けるのを不可能に、美学を不能にしてしまったのであり、これは悲しむべき事態である。ために最初からやり直して簡単に、
美学を押し付けられるのを厭わない美学
と、相手と直接的に対となれる美学を作り上げてしまえばいい。美学を押し付けるのを厭わない美学にとっての美学を押し付けられるのを厭わない美学というのは、まさに魚にとっての水であって、これで万事うまくいく。
と、思うのは簡単だが、そう思い続けるのは簡単ではない。すこし考えればわかることだが、美学を押し付けるのを厭わない美学から見たときに、押し付けた美学を厭わず受け取ってくれるのは、それこそ”押し付ける”美学に反するように思われるからだ。反するとは思わず、満足して押し付けている気になれるタイプもいるのだろうから、すべての「美学を押し付けるのを厭わない美学」にとって満足できないとは言わないが、少なくとも一度でも美学の格上・格下を意識させられた美学掲出当事者にとっては、押し付けるときに多少とも手応えがなければ決して満足することはできない。
このようにして美学は内的に進化発展していく。美学を押し付けない美学ではこうした冒険が起こり得ないことひとつ取っても、美学を押し付けるのを厭わない美学のほうが美学に値すると私は考える。いや、美学の名に値しないからこそ、そこを起点にスタートを切れると思うとでも言えばいいか。とにかく、スタートを切りさえすればゴールに至るまでの全過程は美しくなる。転ばない美学よりも転ぶのを厭わない美学とでも言えばいいか。